« 2008年08月 | メイン | 2008年10月 »

2008年09月30日

『戦争の記憶-日本人とドイツ人』イアン・ブルマ(ちくま学芸文庫)

戦争の記憶-日本人とドイツ人 →bookwebで購入

 昨年の夏、本書とともにフランクフルト行きの飛行機に乗るつもりだった。都合でドイツ行きはかなわなかったが、本書を携えてドイツを旅行すれば、ドイツがより理解できるだけでなく、自国である日本のことを再考するいい機会になると思った。

 本書では、第二次世界大戦にかんするドイツと日本が、つぎのような見出しで巧みに比較されている。「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」、「シュトゥットガルト裁判」と「東京裁判」、「ドイツの教科書」と「日本の教科書」、「ドイツの記念館めぐり」と「日本の展示館を歩く」、「ドイツ連邦議長の失敗」と「長崎市長への銃弾」、「パッサウ-レジスタンスの真相」と「花岡-強制連行の現場」。しかし、著者のブルマは、「真珠湾をホロコーストと比べるのは、もちろん無意味だし、日本帝国海軍の元軍人たちはナチスとはほど遠い」という。たんなる比較を目的としているわけではない。

 著者は、「日本語版へのあとがき」で、つぎのように述べている。「日本についてものを書く人は、日本人、外国人を問わず、いかに日本が他の国と「違う」かを強調します。また、「日本のユニークさ」は日本人の手による〝日本人論〟の変わらぬテーマであり、またこれは西欧ジャーナリズムが大好きなテーマでもあります」。「私が『戦争と記憶』を書いたひとつの理由は、日本が数ある国のなかで例外的な国であるという見方に批判を加えたかったからです。日本とドイツを比較した理由は、双方が互いにいかに違うかだけではなく、いかに類似した部分があるかの検討をしてみたかったからでもあります」。

 1951年、オランダのハーグに生まれた著者は、「加害者でも被害者でもなく、罪の意識なく過去を見すえようとしている」人びとと、「過去の暗部を討論し議論」することを願って、本書を執筆した。その先にあるのは、「戦争を引き起こす」要因を取り除くことだ。

 著者は、近年の日本の傾向を強く意識して、「文庫版への序文」でつぎのように述べている。「今あるウソをより多くの新たなウソで置きかえたところで、何のためにもなりません。半面の真理と戯言に拠る愛国的プライドなど「自己妄想」以外の何物でもないでしょう。本当に必要なのは真実への探求です。その目的は人々の気分をよくさせることではなく、むしろ、自分自身と今自分たちが住んでいる社会をより深く理解することにあります。批評と討論に基づいたそのような理解なくしては、人々は扇動家(デマゴーグ)と宣伝家(プロパガンディスト)の輩が語ることを鵜呑みにするようになってしまうでしょう。そしてそこには圧制者が権力を奪い、戦争を引き起こす図式があるのです」。

 扇動家や宣伝家に惑わされることのない議論する土壌(充分な知識と論理的に考えることのできる思考能力)が、いまの日本にあるのだろうか。それをつくるひとつの場が、大学の教養課程だろう。気分を新たに、10月から全学共通科目「戦争と人間」の授業をはじめよう。

 ところで、同じような経験をしたことのある者として、「訳者あとがき」のつぎの1節が気になった。「日本語に堪能な著者は、日本語でインタビューし、英語でメモし、英語で本書を仕上げた。それを翻訳して、どこまで発言者の真意が再現できるか。言語上の実験と呼ぶには、あまりにもそれぞれの人の思想、立場、人生に深く関わった発言であることを思うと、気が遠くなるような不安があった」。近代の比較は、同じ近代的思考で考えることができ、楽だった。しかし、多文化社会の共生を目指す現代では、それぞれの違いを理解したうえで、比較しなければならない。訳者が悩んだのは、「近代」と「現代」のあいだのどこで妥協して、日本語にするのかだったのだろう。訳者の不安は、いつまでたっても消えることはないだろう。その「不安」があるからこそ、わたしたちは議論する必要がある。

 本書の英語の原題は「罪の報い-ドイツと日本における戦争の記憶」で、訳者は聖書にある「罪の報いは死である」という1節は、日本人にはわからないとして、副題を日本語のタイトルにもってきた。もうひとつ、原題と日本語訳で違うのは、「ドイツと日本」と「日本人とドイツ人」である。原題の主題である「罪の報い」とともに、国家と個人の関係も戦争を考えることを通じて考えてみたい。「ドイツと日本」「日本人とドイツ人」を単純に比較する前に、それぞれの基層社会・文化を考える必要がある。そんなことを考えながら、新たにドイツ旅行の計画を立てたい。

→bookwebで購入

2008年09月16日

『戦後日本と戦争死者慰霊-シズメとフルイのダイナミズム』西村明(有志舎)

戦後日本と戦争死者慰霊-シズメとフルイのダイナミズム →bookwebで購入

 現実に起こっている問題が複雑になればなるほど、基礎研究者の役割は大きくなる。著者の西村明は、「本書は、戦争死者という概念を採用し、戦死者と戦災死者をともに視野に含めることによって、靖国問題に終始しがちな慰霊をめぐる問題にたいして、あらたな視点を提供できるのではないかと考えている」。そして、著者は、基礎研究として、「本書で行ったことは、そういった気の遠くなるような作業のほんの一工程にすぎない」ということをわきまえている。

 本書は2005年度に提出した博士論文をもとに、加筆・修正を加えたもので、「はしがき」と2部7章、「まとめと展望」からなる。本書で著者がどういう問題意識をもって、なにを分析し、これからなにを考えようとしているのかは、裏表紙につぎのように適格に書かれている。「多くの戦争死者に対して、戦後を生きるものたちは、どのように向きあってきたのか。本書では、兵士だけでなく、原爆・空襲などにより亡くなった人びとを総称して戦争死者と呼び、戦後日本におけるその慰霊のあり方を、「シズメ」と「フルイ」という対概念のダイナミズムのなかから分析。さらに長崎の原爆慰霊を通して、政治レベルでの「顕彰」と「追悼」を争うだけでは済まない、新たな死者への向き合い方を考える」。

 本書で得られた結論は、最後の「まとめと展望」を要約するかたちで紹介するのがいいのだろう。が、「戦争死者慰霊とは何だったのか、そして何でありうるのか?」という副題の付いた「まとめと展望」は、「「シズメ」と「フルイ」の慰霊論」と「戦争死者慰霊と無縁空間」の2節からなり、宗教学を専門とする研究者の本領が発揮されていて、門外漢のわたしには難しすぎた。著者は、つぎのように結論を述べている。「死、あるいは死者と向き合うということは、未来に開かれ不確実性と可塑性を帯びたわれわれの生に、ひとつの輪郭を与える営みであるといえる。そうだとすれば、死者とどのような形で向き合うかということは、われわれが生きようとする生の内実を、どのようなものにしたいのかという問題に直接的に関わってくるものとなるだろう。したがって、どのような場で、どのような死者たちと向き合うべきかという問いがわれわれに突きつけているのは、実は死者の扱いという操作的問題なのではなく、むしろ、われわれの生そのものの扱いという、生に対する態度決定の問題なのである」。

 むしろわたしには、「第七章 国の弔意?」のつぎの最後の部分のほうが、わかりやすかった。「本書全体の議論からいえることは、国が慰霊・追悼の主体となることには、それが特定宗教の形をとったものであっても、無宗教的なものであっても、やはり、死者を国家の論理で「シズメ」たり、死者から国家的論理にあった意義を抽出し「フルイ」に活用するという危険性がどうしても存在する。その意味からいえば、国家は追悼の主体たるべきではないのだが、一方で被害を被った立場からは国家的な謝罪や承認を必要としていることも事実である。したがって、問われるべきは、国立の施設そのものの是非ではない。むしろ、国が何を積極的になすべきであり、なすべきでないことは何かということをめぐる、より綿密な議論であろう。国家と戦争死者慰霊との関係をめぐる問題は、活発な論争の歴史をもつだけに、さまざまな主張が膠着状態となり、論者の理念をめぐるイデオロギー闘争の様相を呈してしまっている。われわれがこれからなすべき作業は、この複雑に絡まってしまい、むしろ戦争死者たちを縛っているかのようにも見える糸を解きほぐしていくことではないだろうか」。

 著者が微妙な問題を慎重に取り扱っているだけに、気になることがあった。「はしがき」に数箇所「とりあげ」ということばが出てくるが、「取り上げ」「取りあげ」「とり上げ」と表記がバラバラである。本文でも語句の統一ができていないところがあって、文献がきちんと読めているのだろうかと不安になった。単著単行本を書いたことのある者にしかわからない苦しみのひとつが、この語句の統一で、内容を優先して総仕上げをしクタクタになっている者に、語句を統一する余力など残されていないのが普通だ。しかし、これから先、体力も気力も衰えていくことは確実で、若いうちに最後の体力と気力を振り絞って語句の統一をしておく技法を身につけておかないと、だんだん校正ミスが多くなって、「若いうちに、もっときちんとしておけば良かった」と悔やむことになる。いまのわたしのように。

→bookwebで購入

2008年09月02日

『疑似科学入門』池内了(岩波書店)

疑似科学入門 →bookwebで購入

 わたしたちは、科学とどうつきあっていけばいいのか。本書を読んで、あらためて自問した。その答えは、わからなかった。

 科学的説明を聞いて合理的に理解できて安心する反面、わたしたちは非合理的なことで生活の潤いを得ている。たとえば、サプリメントを飲んで安心しながら、実際の生活では栄養や健康に無頓着に「おいしい」食事をして楽しむことがある。「健康にいい」といわれる食品に飛びつくのも悪くない。流行というものは、合理的に考えるとつまらないものになってしまう。理屈抜きに流行を楽しむのも、いいじゃないか。しかし、問題は、それを悪用する人たちがいることだ。また、問題が複雑になって、単純に容認することができない事態が生じている。答えは簡単である。前者については、だまされないようにすればいい。後者については、充分な知識をもって対処すればいい。だが、現実には、そう簡単にはいかない。

 まずは、いまどのようなことが起こっているのかを知る必要がある。著者池内了は、つぎのように説明している。「占い、超能力、怪しい健康食品など、社会にまかり通る疑似科学。そのワナにはまらないためにどうしたらよいか。また地球環境問題など、科学の不得手とする問題に正しく対処するにはどうしたらよいのか。さまざまな疑似科学の手口とそれがはびこる社会的背景を論じ、一人ひとりが自ら考えることの大切さを説く」。

 著者は、疑似科学がはびこる背景として、「自分の責任を棚にあげて他に転化することが当たり前になって、当事者意識が希薄に」なり、「要求だけして自分は何もしない」事態になっていることを指摘している。「「お任せ」していると、知らぬうちに疑似科学に蚕食されていく」と警告している。

 わたしたちが、「お任せ」する背景も考えねばならないだろう。著者は、テレビなどのメディアに多くの科学者、評論家や専門家が登場し、「検証抜きで、簡単に断定してしまう場合」があるという。なかには、「目立ちがりやの科学者もいるし、自分こそは権威であると自認している科学者もいる。自分の知識をひけらかし、何にでも口を出したがる科学者である」。「一般に、科学者は疑り深いから直ちに結論を出すこと[を]避ける。明らかな証拠がないと、さまざまな可能性を考えてしまい、歯切れが悪くなるのだ。真実に忠実な科学者であるほどその傾向が強い。だから、そのような科学者にはテレビ局から声がかからず、人々に知られることが少ない」。「科学とは、知れば知るほどわからないことが増えてくるものである。自分は何も知らなかったと思い知らされるのが科学者の日常と言える。つまり、科学者は研究を極めれば極めるほど謙虚になる。自分の無知さを知って謙虚にならざるを得ないのだ。その観点から言えば、知ったかぶりをする科学者はもはや研究をストップしており、それまでに得た知識を誇っているに過ぎないと言うことができる。もはや過去の人であり、その知識は時代遅れになっている可能性が高いのだ」。

 日々実験に勤しんでいる現役の科学者は、マスコミに応える暇などなく、つねに疑問と闘っているので、はっきり話せることがないのだ。わたしも現役の歴史研究者なので、マスコミからの問いあわせには、「書いたものを読んでください」としか言えない(たいていは読む気などまったくなく、「かいつまんで教えてください」と言われる。かいつまめるわけがない!)。とすると、正しい科学知識を、だれが一般の人びとに伝えることができるのか。著者は、現役を退いた者が「研究の新しい展開を勉強」することを期待しているが、それだけでは、追いつかないだろう。それぞれの学会が、スポークスマンをたて、学会の公式の見解を述べる必要がある。人びとに害を及ぼす疑似科学について、つねに目を光らせ、警告を発することも必要だろう。いっぽう、無責任な情報を流すメディアを罰するだけでなく、有益な情報を提供することが、いかにメディアにとってプラスになるかを思い知らせることも重要である。複雑系の問題が多くなっているだけに、総合的に考える体制をとることが求められる。個人ではどうしようもなくなっているとも言えるが、著者の言うように「一人ひとりが自ら考えること」が大切だと言うことはわかる。科学とどうつきあっていいのかわからないが、考えることは続けよう。

→bookwebで購入