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2008年08月12日

『境界の社会史-国家が所有を宣言するとき』石川登(京都大学学術出版会)

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 地域や社会によっては、ある特定の時代や地域だけを取りだして考察しても、さっぱりわからないことがある。本書で取りあげられている地域に近い西ボルネオの日本占領期に起こった虐殺事件を考察したとき、すくなくとも200年は遡らないと、この事件はわからないと思った。さらに深く考察するためには、できるはずもないが、時代も地域も無限大に拡大しなければならないと思った。しかし、この地域の歴史や文化がわかったとき、同時にある特定の時代や地域的特色もわかると思った。そんな魅力ある地域が、本書で取りあげられているマレーシアとインドネシアという2つの国民国家で分割された島(マレーシアではボルネオとよび、インドネシアではカリマンタンとよぶ)の南西に位置する国境地帯である。

 この地域は、前回取りあげたマダガスカル島へ7世紀に移住した人びとの故地であるともいわれている。よくわからない金石文も残されている。16世紀にやってきたヨーロッパ人は、この地域の金とダイヤモンドに魅せられ、金の採掘に従事するために移住してきた中国人は、18世紀後半から19世紀半ばすぎまで「共和国」を樹立して自治を楽しんだ。「海賊」の巣窟ともよばれた。その後、マレー半島などに移住する人びとがいるいっぽう、オランダやイギリスによる植民地化にしたがって種々雑多な人びとがやってきた。イギリス人の王、ホワイト・ラジャ(白人王)も出現した。いろいろなことが研究の対象になりそうだが、謎だらけで文献資料も充分でなく一筋縄では考察できない地域でもある。

 この国境地帯は、また、わたしに鮮明に記憶に残る情景を焼きつけたところでもある。マレーシア側のクチンからインドネシア側のポンティアナックに飛んだとき、クチンを飛び立ってまもなく険しい山が見え、やがて山/森の向こうに雲があり、雲の向こうにまた山/森があるという、なんとも幻想的な景色が出現した。森の神様が住/棲んでいるとしか思えない情景であった。この山々から流れだす水が滔々と流れる河も、すごかった。大蛇のごとく力強い躍動感があった。自然の迫力をまざまざと見せつけられた思いがした。

 本書の目的は、「第一章 目的と方法」の冒頭で、つぎのように述べられている。「本書は、国家と国民の生成と変容、そしてその過程における国家と社会の関係を考察するものである。まさに無数ともいえる国民国家論が取り上げてきたこれらの問題を、屋上屋を架すことなく、新しい考察の対象と方法のもとで検討することを目的としている」。

 本書は、2部、10章、補遺からなっている。第一部は第二~四章、第二部は第五~十章からなる。「第一部「スルタンの辺境から国家の周縁へ」では、現在のインドネシア、西カリマンタンに隣接する東マレーシア、サラワク州南西部、ルンドゥ地区(Lundu District)国境地帯の歴史の再構成を試みる。ついては国境地帯における国家空間の生成を1841年の初代白人王ブルックによるサラワク王国建国から1963年のマレーシア連邦編入までの植民地史のなかで考察する」。「これに対して、第二部「国境線上の国家と村落」は、主にマレーシア成立後の国境社会の動態をフィールドワークをとおして考察する。第二部の各章においては、テロック・ムラノーという一つのマレー人村落に焦点をあわせ、第一部で描かれた国境の地域史に人々の顔と声を付け加えていく」という。著者、石川登は、この「人々の顔と声」にこだわっている。

 本書が優れた研究書であることは、帯で2人のアメリカの大学に所属する研究者が、つぎのように推薦文を寄せていることから、容易に想像できるだろう。

 「国境の民族誌がトランスナショナル・モダニティの実相を鮮明に描き出す。国境社会における密貿易、国際政治、民族の生成、非対称な労働移動、そしてロケーション・ワークの歴史的分析と現代的フィールドワークを通して、国家生成と資本主義の構造的理解にいたる優れた研究である。 アナ・ツィン(カリフォルニア大学 サンタクルーズ校)」

 「著者は、歴史学、人類学、社会学のアプローチを自由に駆使しながら、研究対象に切り込んでいく。本書は、最初から最後のページまでを貫く詳細な「厚い記述」と深く洗練された理論的洞察を同時に実現した類稀な研究である。 エリック・タグリアコッゾ(コーネル大学)」

 だが、その「類稀」さが充分に伝わってこないのは、「序章」に相当する「第一章 目的と方法」に対応する「終章」がないからだろう。著者が第一章の「本書の構成」で「最終章」としているのは、目次から判断すると第二部の最後の章である第十章のことで、第一部と第二部を統合して議論を深める「終章」ではない。あるいは、ほかの章に比べて短い第十章を、著者は第二部の「最終章」ではなく、本書全体の「終章」のつもりだったのだろうか。また、同じ内容の記述が繰り返され、たまに誤植があると、読者は集中力を欠いて、著者が意図したことを充分に読みとることができなくなってしまう。理解するのが難しい地域の研究成果を、読者にわかりやすく伝えることは至難の業で、この本1冊だけで伝えることは実に難しい。

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