« 2008年07月 | メイン | 2008年09月 »

2008年08月26日

『戦争で死ぬ、ということ』島本慈子(岩波新書)

戦争で死ぬ、ということ →bookwebで購入

 帯に「戦後生まれの感性で、いま語り直す戦争のエキス」とある。いわゆる「戦記もの」の著者で、本書の著者島本慈子が生まれた1951年以降の者は、ひじょうに少ない。この世代の役割は、日常的に接してきた戦争体験世代の「戦争のエキス」を、つぎの世代につなぐことだろう。著者は、それを「何のために?」と問いかけ、「日本のこれからを考えるときの判断材料として、過去の事実のなかに、未来を開く鍵があると思うから」と答え、「誰のために?」にたいしては、「私と同じく、戦争を知らない人々のために」と答えている。

 本書は8章からなる。最初の7章は1945年を中心に「負け戦」のばかばかしさを語り、最後の「第八章 九月のいのち-同時多発テロ、悲しみから明日へ」で、今日の戦争へと読者を引きずりこんでいる。そして、「あとがき」で「本書は、憲法九条改定問題を考えるときの「基礎知識編」として読んでいただきたい、と願っている」。戦争体験世代は主観的に戦争を論じるのにたいして、著者の世代はその主観性を尊重しながらも相対化し、つぎの世代の戦争論へとつなげようとしている。しかも、自分の身近なところから話をすすめ、いま起こっている戦争へと展開している。

 本書は、著者が通った高校の先輩である手塚治虫の戦争描写にはじまり、2001年の「九・一一」で犠牲になった後輩の祈念植樹について語り、1945年大阪空襲のために校庭で犠牲になった先輩へと思い馳せて終わっている。わたしも、著者が卒業してから弾痕が残る校舎で学んだ。そして、手塚治虫の作品に登場する戦争描写を気にし、「生きる」ということのメッセージを感じとっていた。

 いま日本人の多くが、戦争に反対するだろう。しかし、それはきれいごとの反戦論で、わたしたちが無意識のうちに現在起こっている戦争に加担していることに気づいている人は、それほど多くない。わたしたちが払った税金、預貯金、投資、消費活動でさえ、どこかで戦争と結びつき、人を殺すことに使われているかもしれない。本書では、アジア・太平洋戦争中に、無意識のうちに戦争に加担し、人を殺すことに無頓着になっている「普通の人びと」も描かれている。「第五章 殺人テクノロジー」「第六章 おんなと愛国」「第七章 戦争と労働」では、和紙とこんにゃく糊で製造した風船爆弾、死ぬことを強いる「チアガール」、毒ガス製造などが、具体的に語られている。毒ガスを製造していた人は、つぎのように語っている。「毒ガス工場にいた当時は、ガスは人道的兵器だと叩き込まれていたわけだから、これで人を殺すという意識はなかったですよね?」。人間を殺すことに加担しながら、その意識が麻痺する戦争の恐ろしさを、本書は伝えている。

 わたしたちがいま、深く考えもせずに戦争に反対するのは、実際に戦争被害者になることを想定してであって、気づかぬうちに加害者や加担者になっていることに無頓着に「平和」を唱えているだけかもしれない。自分の身に、家族に、愛する人に、「戦争で死ぬ、ということ」が現実に迫る前に、わたしたちになにができるか。今年も「8月のジャーナリズム」で、戦争のことが取りあげられる機会が多くなったが、北京オリンピックのためにかき消されたような気がする。たんに「平和」を唱えるだけの「平和論者」を越えるためには、被害者にならないための戦争反対ではなく、加害者・加担者にならないための戦争反対を考えなければならない。

→bookwebで購入

2008年08月12日

『境界の社会史-国家が所有を宣言するとき』石川登(京都大学学術出版会)

境界の社会史-国家が所有を宣言するとき →bookwebで購入

 地域や社会によっては、ある特定の時代や地域だけを取りだして考察しても、さっぱりわからないことがある。本書で取りあげられている地域に近い西ボルネオの日本占領期に起こった虐殺事件を考察したとき、すくなくとも200年は遡らないと、この事件はわからないと思った。さらに深く考察するためには、できるはずもないが、時代も地域も無限大に拡大しなければならないと思った。しかし、この地域の歴史や文化がわかったとき、同時にある特定の時代や地域的特色もわかると思った。そんな魅力ある地域が、本書で取りあげられているマレーシアとインドネシアという2つの国民国家で分割された島(マレーシアではボルネオとよび、インドネシアではカリマンタンとよぶ)の南西に位置する国境地帯である。

 この地域は、前回取りあげたマダガスカル島へ7世紀に移住した人びとの故地であるともいわれている。よくわからない金石文も残されている。16世紀にやってきたヨーロッパ人は、この地域の金とダイヤモンドに魅せられ、金の採掘に従事するために移住してきた中国人は、18世紀後半から19世紀半ばすぎまで「共和国」を樹立して自治を楽しんだ。「海賊」の巣窟ともよばれた。その後、マレー半島などに移住する人びとがいるいっぽう、オランダやイギリスによる植民地化にしたがって種々雑多な人びとがやってきた。イギリス人の王、ホワイト・ラジャ(白人王)も出現した。いろいろなことが研究の対象になりそうだが、謎だらけで文献資料も充分でなく一筋縄では考察できない地域でもある。

 この国境地帯は、また、わたしに鮮明に記憶に残る情景を焼きつけたところでもある。マレーシア側のクチンからインドネシア側のポンティアナックに飛んだとき、クチンを飛び立ってまもなく険しい山が見え、やがて山/森の向こうに雲があり、雲の向こうにまた山/森があるという、なんとも幻想的な景色が出現した。森の神様が住/棲んでいるとしか思えない情景であった。この山々から流れだす水が滔々と流れる河も、すごかった。大蛇のごとく力強い躍動感があった。自然の迫力をまざまざと見せつけられた思いがした。

 本書の目的は、「第一章 目的と方法」の冒頭で、つぎのように述べられている。「本書は、国家と国民の生成と変容、そしてその過程における国家と社会の関係を考察するものである。まさに無数ともいえる国民国家論が取り上げてきたこれらの問題を、屋上屋を架すことなく、新しい考察の対象と方法のもとで検討することを目的としている」。

 本書は、2部、10章、補遺からなっている。第一部は第二~四章、第二部は第五~十章からなる。「第一部「スルタンの辺境から国家の周縁へ」では、現在のインドネシア、西カリマンタンに隣接する東マレーシア、サラワク州南西部、ルンドゥ地区(Lundu District)国境地帯の歴史の再構成を試みる。ついては国境地帯における国家空間の生成を1841年の初代白人王ブルックによるサラワク王国建国から1963年のマレーシア連邦編入までの植民地史のなかで考察する」。「これに対して、第二部「国境線上の国家と村落」は、主にマレーシア成立後の国境社会の動態をフィールドワークをとおして考察する。第二部の各章においては、テロック・ムラノーという一つのマレー人村落に焦点をあわせ、第一部で描かれた国境の地域史に人々の顔と声を付け加えていく」という。著者、石川登は、この「人々の顔と声」にこだわっている。

 本書が優れた研究書であることは、帯で2人のアメリカの大学に所属する研究者が、つぎのように推薦文を寄せていることから、容易に想像できるだろう。

 「国境の民族誌がトランスナショナル・モダニティの実相を鮮明に描き出す。国境社会における密貿易、国際政治、民族の生成、非対称な労働移動、そしてロケーション・ワークの歴史的分析と現代的フィールドワークを通して、国家生成と資本主義の構造的理解にいたる優れた研究である。 アナ・ツィン(カリフォルニア大学 サンタクルーズ校)」

 「著者は、歴史学、人類学、社会学のアプローチを自由に駆使しながら、研究対象に切り込んでいく。本書は、最初から最後のページまでを貫く詳細な「厚い記述」と深く洗練された理論的洞察を同時に実現した類稀な研究である。 エリック・タグリアコッゾ(コーネル大学)」

 だが、その「類稀」さが充分に伝わってこないのは、「序章」に相当する「第一章 目的と方法」に対応する「終章」がないからだろう。著者が第一章の「本書の構成」で「最終章」としているのは、目次から判断すると第二部の最後の章である第十章のことで、第一部と第二部を統合して議論を深める「終章」ではない。あるいは、ほかの章に比べて短い第十章を、著者は第二部の「最終章」ではなく、本書全体の「終章」のつもりだったのだろうか。また、同じ内容の記述が繰り返され、たまに誤植があると、読者は集中力を欠いて、著者が意図したことを充分に読みとることができなくなってしまう。理解するのが難しい地域の研究成果を、読者にわかりやすく伝えることは至難の業で、この本1冊だけで伝えることは実に難しい。

→bookwebで購入