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2008年04月22日

『ビルマの民族表象-文化人類学の視座から』高谷紀夫(法蔵館)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「脈絡」、本書で何十回と出てくるキーワードである。著者、高谷紀夫は直接説明していないが、この「脈絡」ということばの意味がわかれば、本書で著者が意図したことがより明確にわかってくる。

 1989年6月、現政権は国名をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに変更した。国名として「ビルマ」を使うか「ミャンマー」を使うかは、研究者にとって本質を問う重要な問題だが、すでに20年近くがたち、ものごころがついたときから使っている学生には「ミャンマー」のほうがなじみがある。本書では、もうひとつUnion(連邦)のほうも重要な考察対象になっている。

 著者は、「最終章 結論」で、つぎのように説明している。「ビルマの民族表象を文化人類学的に問う本書は二つの軸を設定してきた。“シャンによる「シャン」の表象”と、“ビルマによる「シャン」の表象”である。その意図は、多民族国家ビルマ/ミャンマーの周辺を含むビルマ世界に関して民族間関係の脈絡における民族表象とその文化動態を考察するためには、二つの軸を「合わせ鏡」としてその構図を明らかにすることが動態論的に有効であると考えたからである。」

 ミャンマーでは1983年以来、国勢調査がおこなわれていないが、その25年前の調査で「ビルマ族が全国民の69%で、次いでシャンが8.3%、カレンが6.2%をそれぞれが占め」、「全民族数は135と報告」された。シャンが人口数で第一の「マイノリティ」であるが、著者はつづけて、なぜ「シャンをめぐる問題は、ビルマ世界を成り立たせている構造を考察する意味では特に重要と思われる」のか、5項目にわたって説明している。

 また、著者は、「本書で扱う事象は、19世紀後半の英領ビルマの成立期から、植民地当局の施策を経て、今日のビルマ(現ミャンマー)連邦政府による文化政策・民族政策の実施にいたるまで、持続的に進行してきた国民統合と国民形成の過程の中で生成する「民族」のマジョリティとマイノリティ双方の自己意識の形成過程ないしその現象に深く関わる。基本的にそれ以前の歴史に踏み込むことを意図しない」と限定している。

 冒頭に戻って、なぜ著者が、「脈絡」ということばを多用するのか。それは、「軍事政権下で非ビルマ文化に関する一次資料を収集する機会がほとんど認められなかったというきわめて現実的な問題が関係している」。「1990年代に入って、軍事政権側は、経済開放政策に転換し、研究者に対する門戸も次第に緩和され、シャン文化をめぐる事象を直接観察できるようになってきたが、多くの少数民族が恒常的な政情不安を抱える辺境地帯に居住している現状では、まだ制限が多い。その意味では、本書で扱うシャン文化は、部分的なものに留まっているかもしれない」と、著者は吐露するが、それが逆説的に資料にあふれた国民国家の枠にとらわれた研究では気づかない視座で考察することを可能にしている。それが、「脈絡」の多用になったと考えられる。

 著者は、限られた資料から最大限のものを導き出そうと、いろいろな「脈絡」から考察している。そのキーワードのふたつが、「ポリティクス」と「ポエティクス」。ミャンマーという国家の少数民族政策とそれに対応するシャンの「自治」活動、そしてそれぞれの立場からの「語り」を考察することによって、「シャンのビルマ化」「ビルマのビルマ化」「シャンのシャン化」がみえてくる。また、ミャンマーだけでなく、タイや中国領内にいる「シャン」とよばれる人びとや近年の「難民」の考察から、東南アジアの基層社会がみえてくる。

 著者の研究手法は、資料が豊富で現地調査を容易におこなうことができるテーマに傾きがちな「ずる賢い」学生・大学院生・若手研究者に、資料が乏しく現地調査が容易にできないテーマの研究からなにが得られるか、その重要性を教えてくれる。また、著者がどのようにして「四半世紀におよぶフィールドワークにより、仏教儀礼や精霊信仰、国家による民族政策、文化保存運動など、多岐にわたりビルマ世界の構図を解明」しようとしたのか、その軌跡をたどることによって、文化人類学者の苦悩と喜びを学ぶことができる。そして、著者自身がフィールドから得たものが計り知れないものであったことは、「序章」と「最終章」のことばからわかる。「フィールドで出逢ったすべての人々へ……」

 著者が研究で得た成果を、どのように大学の教室で還元しているのかがよくわかるものとして、高谷紀夫責任編集(広島大学大学院総合科学研究科編)『ライヴ人類学講義-文化の「見方」と「見せ方」』(丸善、2008年)も出版された。こういう教育工具は、専門書を執筆した研究者の手によるものだと、より説得力がある。

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2008年04月08日

『日本・デンマーク 文化交流史 1600-1873』長島要一(東海大学出版会)

日本・デンマーク 文化交流史 1600-1873 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 日本とヨーロッパの文化交流史は、すでに多く語られてきた。しかし、日本人一般がイメージするヨーロッパとは、「大航海時代」に活躍した国ぐにや近代に列強となった西ヨーロッパ諸国が中心で、ある一面しか観ていないのではないか。そんなことを、本書を読みながら思った。

 わたしにとって、デンマークは気になる存在だった。17世紀の文書を読むと、デーン人がところどころに出てくるからである。17世紀のアジアを理解するにも、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスとは違った視点で観るために、デーン人はどのようにアジアを観、交流をもっていたのかを知りたかった。本書に出会って、その一端がわかった。

 本書の内容は、章のタイトルをたどっていくだけで、日本・デンマーク関係史がわかってくる。
  第一章 遠くにあって思う国
  第二章 近くまでは来たものの
  第三章 見ただけ行っただけ
  第四章 拒絶から許容へ
  第五章 絆を結ぶ
  第六章 共同事業の始まり
  第七章 神話の誕生

 本書は、2国間関係史を基本とし、著者、長島要一は「デンマーク人の日本と日本人を見る視点と、日本からデンマークを見る目を一六〇〇年から一八七三年までに区切って対比させ、両者がお互いの鏡に映した像を記述してきた」。すでに、デンマーク語版を2003年に出版していることから、日本人に自己満足させるだけの交流史ではないことがわかる。

 日本と日本人は、1867年に徳川幕府が結んだ最後の条約として修好条約を締結し、11番目の条約国となるまで、デンマークを意識することはなかったという。それまで日本を訪れたヨーロッパ船には、その国の船員だけが乗っていたわけではなかった。世界周航をとげたスペイン艦隊の隊長が、ポルトガル人のマゼランで、航海記録を残したピガフェタがイタリア人であったように。日本人が出会ったデンマーク人は、ロシア船、オランダ船、フランス船に乗ってきたため、日本人はデンマーク人と気づかなかった。

 本書を読むと、さらにデンマークの存在が希薄だった理由がわかってくる。1622年から39年までにインドのコロマンデル海岸の根拠地トランケバーに送られたデンマーク船は、合計13隻にのぼったが、そのうちコペンハーゲンに戻ってきたのは、わずか4隻でしかなかった。同じころ毎年10隻以上を東インドに送って巨額の富を手に入れていたオランダ東インド会社と比べて、とるに足らない存在だったからである。

 しかし、デンマークの存在が浮き上がってくるのは、中立国として戦時に貿易をおこなうことができたときだった。ヨーロッパで大戦が勃発するたびに、デンマーク東インド会社は好景気になり、和平が訪れると沈滞した。このことをアジアの視点からみると、デンマークの存在によって、ヨーロッパでの大戦の有無にかかわらず、ヨーロッパ・アジア間の貿易が途切れることなく続いていたことがいえる。デンマークの存在は、この継続性という意味において、大きな役割を果たしていた。

 われわれは、デンマークの存在を世界史に加えることによって、従来よりヨーロッパ・アジア交流史をよく理解できるようになった。マイナーだと思われがちな歴史を加えることによって、歴史の大きな流れがより相対的に見えてくる例を、本書は示している。

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