« 2007年08月 | メイン | 2007年10月 »

2007年09月25日

『新安保体制下の日米関係』佐々木隆爾(山川出版社)

新安保体制下の日米関係 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、1935年生まれの著者、佐々木隆爾の「体験」を、客観的に見つめ直した書である。「六〇年安保闘争」時に「こわごわデモに加わった」著者は、半世紀を経て、「あの年に結ばれた日米安保条約(「新安保条約」)は一字一句も変えられないまま、今も生き続けて」いるにもかかわらず、「つぎつぎと姿を変えていく新安保体制という不思議な生き物を、歴史家として、また同時代人として把握しなおし」ている。そして、「その変化の様相を」「後世に語り伝えたいと書き上げ」、「行間にこめられた熱い思いを読みとって」欲しいと願っている。この「熱い思い」を、若い読者がどれだけ読みとることができるか、日本の将来がかかっている。

 本書を読み終えて、大きな流れとして、ふたつのことが読みとれた。ひとつは、「新安保体制下の日米関係」は、まさしく世界史、とくに東アジア史の文脈で読みとらなければならないということだ。「③-ベトナム戦争と沖縄返還協定」では、沖縄返還がベトナム戦争と密接に結びついていたことがよくわかる。そして、現在の基地返還問題も、日米間の問題だけでなく、世界や東アジアの国ぐにの理解が必要な国際問題であることがわかってくる。

 いまひとつは、戦後アメリカと同一歩調をとってきた日本が、いまやただたんに追随するだけでなく、独自の世界戦略をもつ必要あるということだ。「⑤-米軍再編下の日本」を読むと、日本が独自の戦略をもたないが故に、アメリカの戦略に翻弄されてきたことがわかる。すでに遅きに失したとはいえ、「世界のなかの日本」を抽象的にではなく、具体的に示すときがきている。そのことは、独自の軍事力をもつことではない! すでにおこなわれている「環境問題」への取り組みや、人権、貧困といった世界規模の問題に、日本という国家がどう貢献するかを明らかにしなければならない。軍事力抜きの「世界平和」を主張できるのは、「戦争の放棄」を謳った憲法をもつ日本だからこそである。

 それにしても、本書を読むと、日本の戦後は、良くも悪くも、アメリカとともにあったことがよくわかる。アメリカの庇護下のお蔭で、日本は軍事費を極端に抑えることができ、その分、経済発展のために国家予算を使うことができた幸運に恵まれた。そのいっぽうで、在日米軍の経費を分担する「思いやり予算」が1978年から正式の計上され、年々増額されて、90年代初頭には70%、アメリカ兵1人当たり2万ドルに達したことに驚かされた。湾岸戦争のときに、わたし自身、内定していた科学研究費が減額された経験がある。そこまでして、自国に外国の軍隊を駐留してもらう必要があるのか、疑問に思う人がいても不思議ではない状況になっている。

 本書に書かれているとおり、日本は日米安保体制下で「戦争協力」してきた。日本が独自に軍事力抜きの「世界平和」を構想したとき、アメリカはどこまで「協力」してくれるだろうか。1997年に「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」にサインしなかったアメリカだけに、日本の要望に応えてくれるとはかぎらない。同盟関係は、一方的にではなく、相互に理解、協力し合うことによって、より深まる。そして、これからの2国間の良好な関係は、近隣諸国など国際的な理解のなかでしか長続きしない。否、国際的な理解抜きの2国間の良好な関係は、新たな国際紛争の火種になるかもしれない。日米関係も、新たな時代を迎えている。

→bookwebで購入

2007年09月11日

『東アジアのグローバル化と地域統合 新・東アジア経済論〈3〉』平川均・石川幸一・小原篤次・小林尚朗編著(ミネルヴァ書房)

東アジアのグローバル化と地域統合 新・東アジア経済論〈3〉 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書は、2001年に初版が出版されたテキストを、全面的に書き改めた第3版である。執筆者総勢26人の内、半数近くが日本人ではない。また、「大学に職を持つ者に限らず、東アジアの経済に関係を持つ実務家などが多く執筆している」。この2点は、極めて重要なことである。東アジア経済は、すでに机上の経済論では把握しきれないところにきている。従来の政治的なかかわりだけでなく、文化的なかかわりなど、複合的に連鎖しあって動いているからである。東アジアのそれぞれの国・地域出身の研究者との共同研究は不可欠で、実態のわからない「学者」に、めまぐるしく変化する経済を、大学で講義することなどできなくなっている。本書の編者たちは、東アジア経済の現状と大学教育の現状を、よく理解しているからこそ、優れたテキストを作成することができたのだろう。こういう体制がとれている分野は、教育においても研究においても発展することは間違いない。

 本書は、「とりわけアジア通貨・経済危機とその後の変化に注目しながら、1960年代以降の東アジア経済がどのような経路を辿って現在に至り、どこに向かおうとしているか、また向かうべきかを確認すること」を目的とし、「東アジアの経済発展と企業活動」「グローバリゼーションと東アジア」「21世紀 東アジアの課題」の3部、15章からなっている。要領よくまとめた導入部の「序章」と今後を展望した「終章」は、本書の全体像を理解する手助けになっている。また、「コラム」は、補足になるだけでなく、読んでいて楽しいものもある。

 本書のような共同研究の成果を批判することは、難しいことではない。執筆者が多いために全体の統一が、基本的なことでさえとれていないものがある。執筆者にさまざまな人を加えたために、力量も関心も違い、玉石混淆になっている。しかし、それは、研究状況が違い、書きやすいものもあれば書きにくいこともあるためであり、国や地域、テーマによっては研究資料を集めることさえ、困難な場合がある。本書は、自習用のテキストではなく、教員とともに「考える」ためのテキストである。そのことは、「あとがき」で明確につぎのように説明されている。「本書では、「アジア」を単なる地理的概念と捉えるのではなく、理念的には新しく創造する共生の地域社会として捉え、そうした理念の下に、実践的にも日本人に限らずアジアの国籍を有する研究者や、実務家が共同研究に参加して、テキストを作成している。また、知識を教えるのみでなく、学生と共に考えるという姿勢を明確にしようと努力した。」本書から、これからの時代の共同研究のあり方や授業のあり方がみえてくる。

 気になったのは、「東アジア」という地域の統合について、経済面以外ではどうだろうか、ということである。政治的な面では、かなり議論が進んでいる。文化的な面では、ドラマ、映画、音楽、漫画など、新たに創造された大衆文化で「統合」が進んでいる。それらにたいして、基層文化や歴史についての相互理解は進んでいるのだろうか。順調に進んでいたEUの拡大が、トルコの加盟に際して大きな壁にぶちあたった。「ヨーロッパ性」が問われたからである。東アジアの自生的統合の原理はどこにあるのか。政治、経済、現代の大衆文化だけでなく、総合的な「地域性」というものが問われるだろう。しかし、そのための研究は、あまり進んでいないように思える。それがわかると、本書ももっと理解しやすくなる。

→bookwebで購入