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2007年07月03日

『中国の歴史8 疾駆する草原の征服者-遼 西夏 金 元』杉山正明(講談社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「唐王朝を揺るがした「安史の乱」は、六〇〇年におよぶ大変動の序奏だった。耶律阿保機のキタイ、李存勗ひきいる沙陀、李元昊の西夏、完顔阿骨打の金。多極化と流動化のはてに、歴史の統合者たる大モンゴル国が浮上する。現代もなお生きる「巨大帝国」誕生のドラマ。」

 この裏表紙の要旨に、「通説をくつがえす新「中国史」」を期待して読みはじめた。しかし、受験勉強の成果として頭に入っている中国王朝変遷とは違い、「草原の征服」王朝名は時代と場所を確認しないと、わからなくなってしまう。てっとり早い一覧表はないかと、裏表紙をめくってみて唖然とした。そこにあったのは、「『中国の歴史』関係略年表」だった。幅6センチのうち「中国」が3.5センチを占め、「北アジア」は1センチにも満たない。ほかに「朝鮮」「日本」がある。この略年表は、全巻共通で、各巻の著者の念いとはまったく関係なく載せてある。だが、この略年表は、本巻の記述内容を台無しにしている。著者は、こういう漢民族中心の王朝変遷の年表的理解をぶちこわしたいと思っているからだ。

 それにしても、そういう著者の試みが、本書で充分に語られたかというと、どうもそうではないようだ。本書は、結局はもうひとつの王朝変遷であり、現在遊牧民世界の各地に建てられている馬に乗った英雄像を語っているにすぎない。著者もそのことに気づいているから、「第四章 失われたキタイ帝国を訪ねて-歴史と現在を眺める」の1章を設け、「キタイ本地」の旅から過去に思いを馳せ、「遊牧民」の歴史研究の「つらさとおもしろさ」を語り、過去の幻想から読者を現実の世界に連れ戻している。そして、著者は、本書を自信たっぷりに書いているように見えながら、おそらく「それでいいのか」と自問しながら、愚痴とも嘆きともとれる文章をところどころに挿入している。長くなるが、抜き出してみよう。

 「おおむねは、やはり中華王朝史観のためである。より正確にいえば、中華本土中心史観というべきかもしれない。」

 「およそ文献史料というもの、とりわけ「中華」なる文明がつくりつづけた漢文記録というものは、おそるべき表現力にみちている。誤解をおそれずにいえば、ギリシア・ローマの文字世界がつくりだす虚構は、それにくらべるとまだしも柔らかく、その度合いも随分と少ないように見える。また、その子孫だと自称するヨーロッパとその亜流たる「新大陸」における文字表現も、創作力と想像力、そして論理という名の構築力は大したものだが、限りなく醜悪なことでも、いとも簡単に美しく仕立てあげてしまえる漢文文献の豪腕ぶりと細緻さにくらべれば、「一籌を輸する」程度の差ではないだろう。屈指に古い伝統をもつペルシア語の文献もまた、虚構は凄まじいし、装飾・粉飾は見事なもので、誇張や捏造にあふれているが、やはり「中華」のそれには及ばない。まして、日本語の記録など、あまりに正直すぎて、この列島には「文明」なぞなかったのではないかとおもえるほどである。」

 「漢文文献のおそろしさは、他に類例がない。美化・聖化しようとすれば限りなくうるわしく、貶めとさげすみ、さらには卑猥に徹しようとすれば、これほど醜悪に表現できるものもない。大きくは、漢字という具体性・伝達性にとみすぎた文字のなせるわざでもあるのだろう。しかし、史料としてみると、これほど「性悪」の記録も、ちょっとない。歴史文献を扱うものにとって、まことに厄介きわまりない記録なのである。」  「キタイ国家についての文献史料が、ほとんど漢文でしるされていることに十分に注意したい。漢文文献が導く「無意識の中華主義」、それは本当にこわい。漢字表現を採ることによって、本来そうではないものも、“漢化”(シニフィケイト)して見える効果は無視できない。この点は、文献史料の質量ともの絶対的な欠乏とならんで、実は重大な留意点である。」

 「もし、中国正史のひとつとして、西夏についての正史がつくられていれば、状況はまるでちがっていただろう。これを逆にいえば、いかに既存の中国史なるものは、中華王朝史観にもとづいているかということである。そして結局、それは正史がつくられたかどうかによる。ようは、「正史」史観といいかえてもいい。ありていにいえば、正史がつくられた王朝ごとの断代史、-それが中国史なるものの骨格をなしている。正史がつくられなかった国家・政権は、過小評価される。さらにひどい場合は、基本的な事実さえわからない。西夏は、まさにその代表格である。」


 東西の文献を渉猟し、駆使してきた著者ならではの「愚痴」である。文献史料の欠陥をわきまえているからこそ、その使い方を知っていると言える。そして、文献史料以外の「史料」の利用と、歴史研究の存在意義について、著者はつぎのように述べている。

 「過去にあったことがらを、ただ「死んでしまった過去」として眺めやるのではなく、人類が歩んできた経験と叡知の宝庫として今に蘇らせ、これからに生かしてゆくことは、とても大切なことだろう。歴史研究というものの存在意義のひとつは、あきらかにその辺りにある。ちなみに、ここでいう歴史研究とは、いわゆる文理の枠などをこえ、利用可能なデータや方法・手段をすべて駆使しておこなう総合学としてのそれである。」

 著者は、「仮想の中華ではなく、現実にあった歴史をこそ、見つめたい」という。近代文献史学がつくりあげた「仮想の歴史」から「現実にあった歴史」を語るには、まだまだ多くの問題があることを、本書は教えてくれる。

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