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2007年06月05日

『女ひとり玉砕の島を行く』笹幸恵(文藝春秋)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書に登場するのは、普通の日本人である。その普通の日本人が、六十年以上も前に戦争で亡くなった戦友・肉親の面影を求めて、南太平洋の「玉砕の島」を訪ねている。中には、あまりに幼かったり、戦死後に生まれたりしたために、戦死者本人を直接知らない人たちがいる。それでも、戦死者はそれらの遺族の戦後の生活に大きく影響し、今でも「生きている」。だから、慰霊の旅に出ることは当然のことなのだ。

 その遺族・戦友とともに戦跡を巡ったのが、「団塊ジュニア」世代の著者であった。いわゆる「戦記もの」の執筆者は、従軍記者や作家に始まり、戦争体験者からその遺族の世代に移っていった。そして今、著者のような戦争体験者の孫の世代が戦争を語り出した。

 このことは、これからの日本にとって大きな意味を持つ。著者は、慰霊巡拝の旅の経験から「慰霊碑建立には現地の島民たちの感情にも配慮が必要である」と理解した上で、「現代を生きる私たちが真摯に過去と向き合うこと、そして祖国のために死んでいった兵士たちに、感謝と追悼の念を持つこと。それが自然に行われるようになって初めて、この国の「戦後」は、終わるのではないだろうか」と結んでいる。
 戦争に関しては、ある特定の人々との交流があると、感情移入しやすく、客観的に見えなくなってしまう危険性がある。だから、いかに全体像を把握し、相対的に見ることができるかが重要になる。しかし、著者のように、戦争について「わからないこと、想像できないことが多すぎる」として、かつての戦場を自分の目で確かめ、その足で歩くことができる人はそういない。

 ガダルカナル島に行くには四十万円はかかるし、普通の人が訪れることができない硫黄島に行くことは困難である。まずは、「慰霊団の看板娘」が掘った「戦後の底」をのぞき見て、これから生きていくための「戦争論」を考えてはどうだろうか。そして、戦場となった国や地域の人々との対話と交流について考えてみようではないか。

     ※

 上記のような書評を、時事通信社に頼まれて執筆した。短時間に字数制限のなかで、語ることは難しい。すこし補足説明をしたい。

 「戦記もの」の出版点数は、想像以上に多い。たとえば、フィリピン関係で、現在インターネットで検索できる点数は、1,000点を超える。その出版点数は1980年代から90年代半ばにピークを迎え、年間50点を超えることもあった。その背景には、戦争体験者だけでなく、その弟や妹、子どもたちが定年を迎え、慰霊巡拝に参加して、その記録を出版するようになったからである。しかし、戦後50年の1995年を機に、出版点数は急速に減少した。そして、いま本書の著者のような世代が、「戦記もの」を書き出した。このことは、この世代(わたしは「ポスト戦後」世代と呼ぶ)が、日本が戦場とした国や地域の同じ世代と、これからどうつきあっていくことができるか、その試金石になるだろう。もし対話と交流がうまくいかなければ、日本は孤立してしまう。

 本書を読んで気になったのは、すくなくとも数百万円はかかっただろう取材費と、なぜ硫黄島に「硫黄島基地隊の隊員に対する講演(戦史教育の一環)の講師」として、著者が行くことができたのかということだった。多少本が売れてもまかなえる金額ではないし、どういう理由で自衛隊は著者を招いたのだろうか。読んでいても、1974年生まれの女性にしては古風な表現が出てくる。巡拝旅行をともにした老人のことばが移ったのだろうか。

 戦争にかんしてバランスよく語ることは、ほんとうに難しい。個々の実体験や個々の立場で主張しはじめると、それぞれがもっともな意見であるだけに収拾がつかなくなってしまう。純粋で無知な人ほど、ひとつの意見にはまり、偏った思いこみに陥りやすい。「首相の靖国神社参拝問題」などを含む「戦争論」で、意見が真っ二つに分かれるのも、そんなところに原因がありそうだ。

 そこで、わたしは研究書や啓蒙書だけでなく、1,000点を超えるフィリピンにかんする「戦記もの」の現物確認をおこなった。その結論は、なにを目的に戦争を語るのかを明確にする必要がある、ということだった。そして、「ポスト戦後」を生きるために、戦場となった国や地域の人びととの対話と交流をどうするか、を基本に戦争を考えることにした。このことは、「戦後」が終わらない人たちを見捨てることを意味している。矛盾していると思うかもしれないが、そういう人たちに淋しい思いをさせないためにも、「戦後」を早く終えねばならない。

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