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2007年05月08日

『舟と港のある風景-日本の漁村・あるくみるきく』森本孝(農山漁村文化協会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 盆地育ちで、山が見えないと落ち着かないわたしには、海は別世界のものである。著者、森本孝と同じく、わたしも1980年代から90年代にかけて、瀬戸内やインドネシアなどの島じまを歩いた。日本の海辺は、近代になって騒がしくなった面影を残しながらも、また静かになっていた。本書でも、その様子がよく伝わってくる。

 本書の内容の紹介は、帯に書かれた佐野眞一氏と赤坂憲雄氏の推薦の辞をあげれば、充分だろう。「これは、民俗学者・宮本常一が主宰した伝説の雑誌「あるく みる きく」の常連執筆者だった若き日の森本孝による珠玉のエッセイ集である。森本は高度経済成長が本格的な軌道に入る直前の日本の漁村を、下北半島から沖縄の糸満まで歩き、見て、聞いた風景を抱きしめるように書きとめた。どのページからも潮風の懐かしい匂いと、われわれが忘れてしまったもののかけがえのなさが痛切に伝わってくる。本書を読む者は、それを身につまされる思いで感得することだろう。 佐野眞一」

 「七〇年代半ばから、宮本常一の教えを受けた一人の若者が、列島の舟と港のある風景をもとめて、<あるく・みる・きく>を実践した。漁船と漁具の収集のための旅。こまやかな眼差しが、小さき者たちの豊饒なる世界をとらえた。多様な海の暮らしと生業。多様なルーツや歴史を抱いて、移動をくりかえす海の民。丸木舟による磯漁も、家舟の暮らしも、記憶のかなたに遠ざかる。痛ましい忘却を越えて、未来へとささやかな希望が託される。やがて、これは伝説の書へと成り上がる。 赤坂憲雄」

 「あるくみるきく」というのは、だれにでもできそうで、できるものではない。「あるく」のは、どこをどのように歩くのかが、ポイントとなる。「みる」のは、いつ、どのような角度から見るのか、「きく」のはだれから、なにを聞くのか。経験を積めば積むほど、その難しさがわかってくる。訊かれた人がほんとうのことを話してくれるとは、限らない。その社会にはその社会の「掟」があり、簡単によそ者に話してくれないことがある。ほんとうのことを話してくれても、聞くほうが理解できないこともある。本書から、著者は「あるくみるきく」「術」をもっていたことがわかる。たとえば、著者は丁寧に舟のスケッチをしている。寸法をとり、材質など、細かくメモをとっている。それを見て、漁師のほうから声をかけてくる。「話がわかる人」だと、思われたのである。日常生活の苦労話は、なかなかよそ者にはわかってもらえない。だから、よそ者には話しても無駄だと思って、訊いても答えてくれないことがある。その漁師は、そういう「日常生活の苦労話」がわかってもらえることを、著者のスケッチから読みとったのである。

 本書で書かれていることは、わたしが歩いた海域東南アジアとの共通点も多い。山のなかで舟を造っていたり、漂流物が生活のなかで重要な位置を占めていたりしているところは、同じである。しかし、大きな相違点は、陸にどれだけ頼っているかだろう。「海の民」といってもさまざまで、一般に語られるのは、陸に依存をしたり、陸と接点をもったときの姿である。「海の民」の自律性が語られることは、あまりない。とくに本書で語られている「失われつつあるもの」とは、その自律性だろう。そして、著者が1970~80年代に見た日本の海辺の風景を、ある意味で海域東南アジアでは現在も見ることができる。海の文化は、日本だけでなく、世界中から失われつつある。本書で描かれた時間と空間を相対化することで、「風景」をもっと奥深く読みとっていけるだろう。

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