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2007年05月22日

『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』関恒樹(世界思想社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書を読み終えて最初に感じたことは、著者、関恒樹の真摯で謙虚な研究姿勢と、その人柄によって「海に生きる人びとの日常的実践を描く」「語り」の民族誌が可能になったのだろう、ということだった。

 「本書の基本的な目的」は、「東南アジア多島海域において、その生活世界がいかなる論理を持ち、そこに住む人々によってどのように組み立てられ、構成されているのか、その点を微視的なエスノグラフィーに基づいて明らかにすること」であった。「より具体的には、海域世界において人々はいかなる生計戦略を展開し、同時に地域社会の秩序を構築しつつ、その中での自己の位置、あるいはアイデンティティを見出そうとしているのか、その点を日常的実践という概念をキー・ワードとして明らかにしてゆくこと」を試みている。さらに、「島嶼部東南アジアの他地域に関して議論されてきたような伝統的王権や国家などの絶大な権力に結び付いたことがなく、壮麗な儀礼や体系的コスモロジーを伴うこともないような力の観念にあえて注目し、そのような一見「非真正」かつ「文化深度の浅い」観念が、実際には人々の活発な相互交渉や積極的な日常的実践を触発し、支え、そこから人々のアイデンティティが形成される状況を描くことが可能であることを示す。その意味で本研究は、「文化の真正さ」という言説には取り込まれない視点から民族誌を書くことの一つの可能性とその方向性を提示する試みともいえる」という。

 以上の著者の目的・試みから、近代という時代を超える民族誌を期待させる。この種のテーマでは、1968年生まれの著者と同世代にもっとも大きな影響を与えたであろう鶴見良行の著作は、参考文献一覧に見あたらず、著者と同世代の人類学者の成果が比較の対象としてあげられている。鶴見良行の業績は、ある意味で近代への異議申し立てであった。本書は、著者らの世代が、「近代」を意識しない新しい民族誌のあり方を問うた研究としても読むことができるだろう。

 「本書は第Ⅰ部と第Ⅱ部によって構成され、本研究が取り組む二つの問題が各部において論じられる。すなわち、第Ⅰ部においてはセブアノ漁民の生計戦略の実践としての島嶼間マイグレイションが論じられ、第Ⅱ部ではそのようなマイグレイションの過程で構築される人々のアイデンティティ構築のための日常的実践がビサヤ民俗社会における力の観念との関連において論じられる」。そして、結論は終章で3つの論点にまとめて提示する、と「序章」でつぎのように述べている。「第一点目は、本書第Ⅰ部において検討するセブアノ漁民の生計戦略の日常的実践が、従来の「移動ネットワーク社会」という島嶼部東南アジア社会を見る一つの枠組みに位置づけられた時に持つ意味についてである。第二点目は、本書第Ⅱ部において明確化するビサヤ民俗社会における力の観念とアイデンティティ構築の様態を、先に説明した「実践コミュニティ」という概念が内包する分析枠組みに位置づけて検討する。最後に、第三点目としてアイデンティティ構築の実践に従事する行為主体の性格を、近年の人文・社会科学において議論されるエイジェンシー論を援用することで明確化し、さらにその視点が従来のフィリピン低地キリスト教徒社会における社会関係の議論に対して新たな可能性を示唆しうることを指摘する。」

 本書は、2004年3月に提出した博士学位論文を加筆・修正したものであるだけに、整った形式のもとに議論がよく整理されている。通読して、「本書の基本的な目的」は、ひとまず達成されたことがわかる。しかし、課題も多く残されたようだ。まず、「フィリピン低地社会」と「ビサヤ海域社会」との「文化的差異」がよくわからなかった。また、その「差異」からなにを読み解き、どういう意味(だれのため、なにのため)をもつのかがわからなかった。たとえば、「サイド・ライン」とよばれる「漁場において漁獲が引き上げられる度に、漁師たちが各自持参したプラスチック・バッグに若干の魚を取り置く行為」は、「フィリピン低地社会」の農村での慣行である「落ち穂拾い」に似たものを感じる。「低地社会」や「海域社会」の基本的論理はなになのか、どの枠組みで議論するのかを明確にしないと、読者は混乱してしまう。

 つぎに、「グローバル、ナショナル、そしてローカルの様々なレベル」というが、ローカル以外のレベルは漠然としていて、具体的記述はなかった。グローバルな影響も、ナショナルな影響も、具体的なことはわからずじまいだった。ローカルのレベルも「語り」が中心で、地方政府の文書や地方新聞などは、あまり利用されていない。フィリピンの地方に異常に多いラジオ局の情報も、重要な資料となるだろう。NGOの活動が活発なフィリピンで、なにか資料的価値のあるものはなかったのだろうか。「語り」は、意図的に語らないこと、無意識に忘却したこと、客観的に理解できないことなど、虚実ない交ぜの「資料」である。そのような「資料」を使って、学問的議論へと昇華させることが、どれほどむつかしいことか。その重要性を知っていればいるほど、使いにくくなるのが現実である。まさに研究者の力量が問われるからである。著者も、そのことを充分に知っているからこそ、時間をかけてじっくり研究対象に向きあっている。

 新しい民族誌には、多くの困難がありそうだ。しかし、それを克服するだけの著者の地道な研究姿勢と、同世代の研究者の連帯があると感じられた。著者と著者の仲間の今後の研究に注目したい。

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2007年05月08日

『舟と港のある風景-日本の漁村・あるくみるきく』森本孝(農山漁村文化協会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 盆地育ちで、山が見えないと落ち着かないわたしには、海は別世界のものである。著者、森本孝と同じく、わたしも1980年代から90年代にかけて、瀬戸内やインドネシアなどの島じまを歩いた。日本の海辺は、近代になって騒がしくなった面影を残しながらも、また静かになっていた。本書でも、その様子がよく伝わってくる。

 本書の内容の紹介は、帯に書かれた佐野眞一氏と赤坂憲雄氏の推薦の辞をあげれば、充分だろう。「これは、民俗学者・宮本常一が主宰した伝説の雑誌「あるく みる きく」の常連執筆者だった若き日の森本孝による珠玉のエッセイ集である。森本は高度経済成長が本格的な軌道に入る直前の日本の漁村を、下北半島から沖縄の糸満まで歩き、見て、聞いた風景を抱きしめるように書きとめた。どのページからも潮風の懐かしい匂いと、われわれが忘れてしまったもののかけがえのなさが痛切に伝わってくる。本書を読む者は、それを身につまされる思いで感得することだろう。 佐野眞一」

 「七〇年代半ばから、宮本常一の教えを受けた一人の若者が、列島の舟と港のある風景をもとめて、<あるく・みる・きく>を実践した。漁船と漁具の収集のための旅。こまやかな眼差しが、小さき者たちの豊饒なる世界をとらえた。多様な海の暮らしと生業。多様なルーツや歴史を抱いて、移動をくりかえす海の民。丸木舟による磯漁も、家舟の暮らしも、記憶のかなたに遠ざかる。痛ましい忘却を越えて、未来へとささやかな希望が託される。やがて、これは伝説の書へと成り上がる。 赤坂憲雄」

 「あるくみるきく」というのは、だれにでもできそうで、できるものではない。「あるく」のは、どこをどのように歩くのかが、ポイントとなる。「みる」のは、いつ、どのような角度から見るのか、「きく」のはだれから、なにを聞くのか。経験を積めば積むほど、その難しさがわかってくる。訊かれた人がほんとうのことを話してくれるとは、限らない。その社会にはその社会の「掟」があり、簡単によそ者に話してくれないことがある。ほんとうのことを話してくれても、聞くほうが理解できないこともある。本書から、著者は「あるくみるきく」「術」をもっていたことがわかる。たとえば、著者は丁寧に舟のスケッチをしている。寸法をとり、材質など、細かくメモをとっている。それを見て、漁師のほうから声をかけてくる。「話がわかる人」だと、思われたのである。日常生活の苦労話は、なかなかよそ者にはわかってもらえない。だから、よそ者には話しても無駄だと思って、訊いても答えてくれないことがある。その漁師は、そういう「日常生活の苦労話」がわかってもらえることを、著者のスケッチから読みとったのである。

 本書で書かれていることは、わたしが歩いた海域東南アジアとの共通点も多い。山のなかで舟を造っていたり、漂流物が生活のなかで重要な位置を占めていたりしているところは、同じである。しかし、大きな相違点は、陸にどれだけ頼っているかだろう。「海の民」といってもさまざまで、一般に語られるのは、陸に依存をしたり、陸と接点をもったときの姿である。「海の民」の自律性が語られることは、あまりない。とくに本書で語られている「失われつつあるもの」とは、その自律性だろう。そして、著者が1970~80年代に見た日本の海辺の風景を、ある意味で海域東南アジアでは現在も見ることができる。海の文化は、日本だけでなく、世界中から失われつつある。本書で描かれた時間と空間を相対化することで、「風景」をもっと奥深く読みとっていけるだろう。

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