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2007年02月27日

『スータンを縫いながら-日本占領期を生きたフィリピン女性の回想』ペラジア・V・ソリヴェン(段々社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 これまで「フィリピンはスペインの植民地になったことから、カトリックの強い影響を受けた」とか、「日本占領下のフィリピンでは、住民はひじょうに苦しい生活を強いられた」とか、何度も書き、授業などでも話してきた。しかし、その実態は、充分に読者や学生・聴衆に理解してもらえなかっただろう、ということを本書を読んで再認識させられた。実際の日常生活を通して語られる歴史は、まさに「生きた」歴史を感じさせる。しかし、それを語ることはたやすいことではない。本書でそれが可能になったのは、優れたジャーナリストとなった息子や娘の存在が大きい。そして、その事実上の「編者」たちと長年交流をもっている訳者の日本人の読者に伝えようとした力も大きい。

 本書は、帯にあるように「フィリピン知識階級の女性がありのままに綴る妻として母としての半生」を、「あふれる愛の心と生命力」を中心に描いたものである。日本人には不思議に思えるかもしれないが、フィリピン人はフィリピン人であることの満足度がひじょうに高い人びとである。日本と比べれば、経済的に弱く、政治的にもしばしば混乱し、治安もけっしてよくない国に住んでいながら、なぜ満足度が高いのか、本書を読めば、それがよくわかる。カトリックの信仰を軸に、互いに助け合う家族愛、郷土愛、隣人愛、そして人類愛があるからだ。いくら困難にぶつかっても、生きる希望と安らぎを見いだせる社会が、フィリピンにはある。それは、裏表紙にある1947年に撮られた写真のかの女の表情からよく伝わってくる。夫、父、末の息子を亡くし、9人の子どもを抱えて悲嘆に暮れるのではなく、前(未来)を見ていることが顔の表情からわかるだけでなく、腰にあてた手からは自信さえ読みとれる。原題にある「凛々しい」ということばに、ふさわしい人生がみえてくる。そして、日本語の題となった聖職者の服である「スータンを縫いながら」、愛のあふれる日常生活が浮かんでくる。

 そのかの女の「不幸」は、日本占領中におこった。解説者の後藤乾一氏が述べるように、「日本人としては、その筆の運びが抑制されたものであるだけに、なおさら考えさせられる」。それは、瓦礫の山と化したわが家を見たときのつぎの文章から、日本軍がフィリピン人の日常生活から奪い去ったものが、物質的なものだけではなかったことがわかる。「我が家の全財産、夫と私が何年も一生懸命に働いた実りが、私たちが倹約し貯金をして築いてきた生活の土台がすべて失われてしまったのです。さまざまな結婚祝いの贈り物も、家具類も、台所用品も、繊細な陶磁器の大皿も、飾り皿や服飾品も、戦争が始まる前に[夫の]ベニトがクリスマスに贈ってくれたドイツ製ピアノも、すべてが失われてしまっていたのです」。フィリピン人にとって、生活用品は愛の証なのです。だから、かの女はその光景を見たとき、「恥ずかしさも忘れて泣」き崩れたのでした。

 また、日本人にとってなんでもないことでも、フィリピン人にとっては耐えられないことがあった。それは、たとえば、つぎの文章からわかる。「子供でも容赦されないのです。それに加えて屈辱的なことは、許可証を見せるときにいちいち低くおじぎさせられたことです」。フィリピン人にとって、子どもはなにものにも代え難い大切な「愛」そのものなのです。だから、子どもでも容赦しない日本兵には、愛がないと感じてしまう。そして、日本兵にお辞儀させられたことは、自分たちの文化を否定されたと感じた。フィリピン人は、自分たちの文化や社会に誇りと自信をもっている。

 「朝鮮」という植民地に生まれ育った森崎和江さんは、「わたしたちの生活が、そのまま侵略なのである」と記している[『慶州は母の呼び声 わが原郷』新書版、洋泉社、2006年]。それが書けたのは、「朝鮮」人が日本人を見ていたという視線に気づいたからであろう。本書から、フィリピン人は「日本兵の存在そのものを、迷惑で不愉快なもの」として見ていたことがわかる。他者がどう見ていたかに気づくことによって、自己を相対化でき、新たな関係が生まれてくる。

 本書は、研究者が書いたフィリピンの歴史や文化、社会の本からはけっして伝わってこない、フィリピン人の日常性のなかに生きているものを伝えている。こういうフィリピン人の書いた回想録や小説などを読むことによって、机上の学問やインタビュー調査では見えてこない基層が姿を現してくる。訳者自身、著者の長女との長年のつきあいにもかかわらず、著者の「父や義兄の悲運」について知らなかった。そのことで、「どうしても訳して日本の人々に読んでいただきたいと考え」るようになった、と訳者は最後に述べている。日本の占領下のフィリピンについて、わたしたち日本人が知らなければならないことは、まだまだある。

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2007年02月13日

『マゼラン-世界分割を体現した航海者』合田昌史(京都大学学術出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 16世紀にヨーロッパ世界の耳目を集めたマルク諸島(モルッカ諸島、香料諸島)の中心であるテルナテ島は、周囲70キロほどの円錐型の火山島で、現在約10万の住民のほとんどは海岸沿いの集落に居住している。火山はときおり噴火し、火山灰を降らせ、その山頂は雲で覆われていることが多い。その雲の下になる中腹に、フォラマディアヒという集落がある。はじめてこの集落を訪れたとき、歴史の謎がいろいろ解けた。集落の入り口から2本の道が山に向かい、それぞれ両側の石垣の上に家が建っていた。これがかつての「山の都」だと思った。現在、海岸の市場の上に王宮があり、博物館になっている。歴史書を読んでいると、ヨーロッパ人が何度も「都をおとした」という記述にお目にかかる。しかし、なんだか変だと思っていた。日本や中国、ヨーロッパでは、都が陥落すれば国は滅ぶ。ところが、東南アジアの海域世界では都が簡単におちて、王はサッサと逃げて、しばらくしたら帰ってきている。だから、都は何度もおちる。逃げた先が、この「山の都」だったようだ。この集落の周辺には、ドリアンなどの果物がたくさんなっていた。食糧にも、困らなかったのだろう。そして、数十分山道を歩いて行ったところにあるスルタンの墓から、港がよく見えた。ヨーロッパ船の出入りが、手に取るようにわかっていたのだ。途中にも、見晴らしのいい場所が何ヶ所かあった。当時のテルナテの王や住民は、ヨーロッパ人が想像していた以上に、ヨーロッパ人のことをよく観察し、知っていたに違いない。

 本書の著者、合田昌史も、そのことは充分に認識していて、香料の産地であるマルク諸島やマゼランが殺害されたフィリピン諸島のことを理解しようとし、それぞれの研究成果を取り入れている。それでも、著者は「対蹠分界はヨーロッパの第三国を排除し独占的に非キリスト教世界を分配する談合の論理のうえに成り立っており、両国の交渉は決裂に至らないのである」と結論して、ヨーロッパ史の枠組みを超えることはできなかった。それはなぜかを考えることが、今日の学問としての歴史学や世界史認識の必要性を考えることに繋がる。その前に、本書で語られていることを確認しておこう。

 本書の内容と目的は、「はじめに」の最後で、つぎのように書かれている。「本書ではまずマゼラン再評価の土俵たる分界の理念の形成とモルッカ問題の顛末を整理する。つぎにマゼラン登場の背景を概観したうえで、分界の仮説を中心に航海の企画に説得力を持たせた情報の源をたどる。さらに、艦隊の航跡と分界の実験を再構成することによってそこから浮かび上がってくるであろう遠征の隠されたもうひとつの目的に論究し、太平洋横断後における遠征の論理の展開をたどる。最後にポスト・マゼランの分界の行方を見さだめる。以上の考察によって「分界を体現した航海者」としてのマゼラン像を提示したい」。著者の目的は、「おわりに」で「マゼランは、出帆前に仮説としての対蹠分界観を提示し、航海中に先端の知見と技術を投下してそれを検証するという、いわば実験的手法をとることによって世界分割の体現者となった」と結論していることから、達成されたことがわかる。

 そして、わたしは、近代に帝国主義国家に「成長」した国ぐにが、帝国間で勝手に植民地として世界を分割していった歴史的背景を、「おわりに」のつぎの文章から学ぶことができた。「分界に関して、ジェノヴァ人コロンブスとポルトガル人マゼランを分かつ歴史的素因は、一二世紀半ば以降のイベリア半島で未征服地の分配を約したレコンキスタの伝統である。カスティーリャとアラゴンによる分配の談合から排除されていたポルトガルは一五世紀前半、「回復」の埒外における海外進出でローマ教皇の権威によりながら「発見」と征服を正当化する途を開いた。そして、マゼランを生んだ一五世紀後半のポルトガルは、コロンブスを擁する後発のスペインと新たな分配の談合、世界分割をなした」。だが、初期近代(近世)と近代の状況は、明らかに違っていた。そのことを理解することによって、まず本書の著者が、マルク諸島やフィリピン諸島の歴史や社会を充分に理解できなかった理由がわかってくる。

 本書で用いられた初期近代の文書からは、ヨーロッパ世界の論理はわかっても、当時の東南アジア世界の論理はわからない。なぜなら、ヨーロッパ人の書いた文書は、東南アジアの人びとが読むことを想定して書かれていなかったからである。本書で用いられた文書に書かれていることも、東南アジア側から見れば誇張や間違いであろうことが、いくつもある。そのことは、本書でも明らかにされたように、ヨーロッパ人が自分たちの都合のいいように書いたためで、たとえ「宗主国を認めた」と書かれていても、書かれたほうの東南アジアの国ぐにがそれに反論することがなく、またその必要もなかったなら、どのようにでも書くことができたのである。双方が違う言語で書かれた内容が同じであることを確認しあう近代の文書とは、基本的に違うのである。

 さらに重要なことは、流動性の激しい遊牧民世界や本書の舞台である海域世界では、文書記録に基づいて制度的に考えることは臨機応変に対処できないという文字通り致命的な欠点から、文書を重視していない。大切なことは口頭で伝達している。そのことは、本書でもつぎのように記されている。「モルッカ諸島の人々は韻律と伝承で過去を記憶にとどめており、「年代記や歴史〔記述〕をもたず、文書館もない」。ティドーレ国王はポルトガル人との交渉のため使節を派遣した際、「書くことに不慣れであるため」口頭での伝達に信をおいてもらいたい、と懇請していた。ただし、交渉の過程でおそらくはポルトガル人からの強い要望に応えて、モルッカ諸島の諸王権はプリミティブな様式ながらもいくつかの書簡を外交文書として残している。」文書に「不慣れ」で「プリミティブ」だったのは、「口承伝承」に文化的な価値を置いていたからである。文字化してしまえば、間合いも抑揚もなくなり、微妙なニュアンスを感じとれなくなる。その結果、正確さを欠き、文化的にもつまらないものになってしまう。近代では文字化された社会の長所が強調されたが、短所も考える必要があるだろう。「重要なことは口頭で」という海域世界の論理を理解していれば、本書で展開されている議論はまったく違ったものになる。

 東南アジア世界の論理がわかれば、フィリピン諸島の記述でも、矛盾があることに気づくだろう。最近の高等学校世界史の教科書には、マゼランを殺害したラプラプが「王」や「国王」として登場するものがあるが、フィリピン史をすこし知っている者なら、ラプラプは集落の首長であって「王」や「国王」とよぶことに疑問をもつだろう。スペイン侵攻以前のフィリピン諸島には、イスラーム化した南部を除き、「王」とよぶにふさわしい者はいなかったからである。したがって、本書に書かれている「一五日たらずで一万人以上がキリスト教徒になった」ことや、マゼランが殺害された戦闘に数千人の兵士が参加していたことにも疑問をもつだろう。その「大規模な戦闘」での死者が、ラプラプ側でわずか15人、スペイン側でもマゼランを含む9人ないし12人であったことに、疑問を抱かないほうがおかしい。それは、本書で「人口二〇〇〇~四〇〇〇人程度のテルナテ島から二〇〇人の兵士を半年間送り込むのはたやすいことではなかったはずだ」とされたテルナテと比較してもわかることだ。また、多くの現地住民を洗礼することは、カトリックが支配的な当時のヨーロッパ世界にあって最高の手柄である。いっぽう、わずかな現地の住民にラプラプ勢が敗れたことは不名誉きわまりないことで、その事実を隠すためにラプラプが数千の兵力を率いる「王」になったことも充分に考えられる。

 初期近代の文書を扱うことの危険性は、近代に植民地の領域として支配するときの文書と比べればよくわかる。近代の文書からは、現地の支配構造や概念を学んだうえで、ヨーロッパ的近代概念を導入しようとしていたことが明らかになってくる。近代概念を導入できなかった初期においては、現地の支配構造を残したまま間接統治するのが通常であった。16世紀のマゼランの時代に、現地社会を理解して支配しようという観点で書かれた文書は、まずなかったと考えていいだろう。だから、16世紀の東南アジア社会を理解するためには、まず東南アジアの基層社会の理解のうえでないと、ヨーロッパ人が残した文書は使えないということになる。それは、ヨーロッパの文書についてだけでなく、近代にさかんに利用された中国や日本の文書についても、同じことが言えるだろう。表象文化のような研究が、ポストモダンに必要とされた背景には、このような文書の欠点があることが明らかになったからである。

 本書で、著者が現在利用できるマルク史やフィリピン史の代表的な研究書を使いながら、ヨーロッパ史の枠組みを超えることができなかったのは、著者の責任ではない。東南アジア史研究が発達していなくて、ほかの分野の研究者に東南アジア史研究をする意味を伝えていないからだ。著者のように、自分の研究領域の視野を広げることは、ひじょうに重要なことだ。しかし、視野を広げた先の研究が充分でないと、逆に世界史の理解に役に立たないことになってしまう。

 本書から再確認させられたことは、歴史学の発展のために時代や地域を超えて考察することの重要性と問題点、文献史学の発展にはそれぞれの時代の文書の性格を理解すること、そして世界史を語るため(西洋中心史観を克服するため)には、もっともっと東南アジア史のような研究蓄積の少ない分野の研究を進めなければならないということだった。そうすることによって、限られた地域や時代の文書研究の寄せ集めによって「歴史研究が発展している」と勘違いしている分野の研究にも、新たな展望が開けてくるだろう。また、研究蓄積の少ない分野の研究は、すこし研究すれば新たな事実がでてくるために、これまた「研究が発展している」と勘違いしてしまい、すぐに研究の停滞がおこってしまう。近代に支配的だった文献史学を超える歴史研究への道は、まだまだ険しい。

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