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2006年11月21日

『カンボジア史再考』北川香子(連合出版)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書のタイトルの「再考」が、なんとも挑戦的だ。帯には、「アンコール文明もその後の歴史の変遷も、現在の国境を越えた東南アジア史の枠組みの中でこそダイナミックに捉えることができる。気鋭の歴史学者による知的刺激に満ちた研究」とある。期待をもって読みはじめた。

 本書で、著者の北川香子は、「カンボジア史の父」いわれる植民地学者のジョルジュ・セデスが、1960年代に確立したカンボジア史の枠組みを「再考」しようとしている。このフランス人の名前は、学生時代に頭痛薬と同じの名前であることとともに、とてつもなく偉大な歴史家であると教えられた。その印象があまりに強いためか、この大家の通説に挑む日本人歴史学者が出現したことにうれしくなり、誇りにさえ感じた。

 その通説とは、アンコール・ワットに代表される古代クメール文明の繁栄は、14世紀以降衰退するというものである。セデスに代表される植民地学者が確立したこの歴史観は、独立後のカンボジア人歴史学者にも引き継がれ、現在世界的でもっとも参照されている通史でも「ゆらいでいない」という。その通説を、著者の専門である衰退期のポスト・アンコール期の歴史的考察を通して、「再考」しようというのである。

 本書では、それほど多くない文字史料である碑文、漢文史料、王朝年代記、日本・フランス・オランダ・スペイン領フィリピンの史料などによる考察に加えて、自ら歩いて収集した口承伝承で裏付ける作業もしている。前半の古代の繁栄期については、それほど長くない各章で、「通説」「批判」が整理され、現在の研究の焦点が示されている。後半のポスト・アンコール期は、1991年の和平協定成立後に進展した考古学調査の成果を取り入れ、「現在のカンボジアという国家の基礎が形成された時代として、積極的な意味づけのもとに、研究されるようになってきた」ことを背景に、「新たな成果を受けて、従来の植民地史学にかわる、新たなカンボジア史を構築しよう」としている。その試みは、ひとまず成功したといっていいだろう。断片的だが、通史的に語られる最新の研究情報は、事典としても読むことができ、知的好奇心を大いに満たしてくれる。本書の出版によって、「ポスト・アンコール期」という歴史研究の空白が埋まったことの意義は、東南アジア史研究だけでなく、世界史やグローバル史を考える者にとっても大きなことである。

 だが、本書を読み終えて、ため息が出た。その理由は、本書第一章「二、「カンボジア史」の問題点」でとりあげられた「繁栄と衰退」「「被害者」の歴史意識」「史料および研究対象の偏重」「「一国史」研究の陥穽」「「地域史」の欠如」の「応え」が本文中の随所で書かれているが、本書全体として、どのように克服され、また課題として残されているのかをまとめたものがなかったからである。読者に、「序章」(本書では第一~三章)に戻って読み返せばわかる、というのは無理な話である。単行本1冊を書きあげた者ならわかることだが、冒頭であげた問題点は、本文で語っており、繰り返し書くのは、本文を書きあげて精根尽きた著者には、無駄のように思える。しかし、「序章」で書いたことを、著者自身がどう総括するのか、読者は「終章」に期待している。それがないと、本からなにかを学ぼうとしている読者は、読んで学んだことがわからなくなってしまう。

 東南アジア史研究では、単著・単行本が少ないだけに、本書の出版には心から拍手を送りたい。議論より、議論のための基礎的知識を必要としている分野だからだ。本1冊をまとめあげることには、多大のエネルギーを必要とする。単行本を書いたからこそ気づく「苦労」も「新たな課題」もある。それだからこそ、最後に著者自身がまとめる作業をしっかりすることが、つぎへとつながる。とくに、専門であるポスト・アンコール期の考察だけでなく、通史的理解のなかで、「現在の国境を越えた東南アジア史の枠組みの中で」、なにを得、新たな課題をつかんだのか、読者とともに考えることが大切である。本書のように研究蓄積のない分野での出版物は、容易に批判できる。それが新たな出版への弊害になってはいけない。しかし、ちょっと気の利いた助言をする人がいたら、本書の付加価値はひじょうに高まったものと思われる。個人的な話で申し訳ないが、本書を「見て」、改めて、わたしはいい編集者に巡り会ってきたと感謝したい気持ちになった。

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2006年11月07日

『歴史叙述とナショナリズム-タイ近代史批判序説』小泉順子(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書には、タイの歴史をすこしでも知っていれば、ワクワクするような「新たな切り口・視角」があり、タイの歴史・文化の奥深さを知って、改めてタイの魅力にとりつかれることだろう。

 本書は、著者、小泉順子が過去数年間にわたって書いてきた論文を寄せ集めたもので、一見バラバラに見えるが、著者は「全体を通底している問題関心は、この間、筆者を動機づけてきた歴史と現在との対話とでも表現し得る主題である。すなわち、歴史叙述の政治性や近代性を問いながら、批判性、包括性、現代性に特徴づけられる歴史研究の可能性を探り、そこから歴史的視野が持つ意義を考えて」きたという。著者が具体的に問うたのは、「研究史」「史料」「今の自分の視線」の3つであった。

 「研究史」を問う意味は、各章の個別のテーマが、タイの歴史・文化の考察のなかで問うていることからわかる。流行のように、たんにナショナル・ヒストリーを否定するのではなく、なぜナショナル・ヒストリーがタイ史で語られてきたのかを問い、相対化したうえで、歴史の書き直しに挑んでいる。この「研究史」を把握することは、研究基盤の弱い東南アジア史では至難のことで、それは『岩波講座 東南アジア史』(2001-03年)、とくに別巻「東南アジア史研究案内」をみれば明らかだろう。

 「史料」を問うことの意味は、タイ史研究では、欧米や日本、中国の歴史研究をしている者には到底理解できない苦労があることを知っていれば、よりよくわかる。同じ東南アジアでも、欧米の植民支配下に入ったところでは、良い意味でも悪い意味でも近代的な文書資料が残されている。それは、欧米中心の偏ったもので、東南アジア側の歴史研究には、逆にマイナスであるといわれながらも、研究をスタートしやすいという点で大きなメリットがある。それにたいして、タイ史研究では、タイが欧米の植民地にならなかったがために、植民地宗主国が統治のために実施した国勢調査などの統計資料や官庁の公文書が少ない。また、現在においても王の存在が実質的な意味をもつタイでは、王朝史観を否定することは学問上においても難しいことである。第1章の「アユタヤー時代における徭役・兵役制度の「創造」」など、だれも手がつけようのなかったテーマである。史料があっても、それを読み込むだけのタイの歴史・文化の深い理解が必要だからである。

 3番目の「今の自分の視線」を問うたことの成果は、「あとがき」に現れている。著者は「新たに見えてきた課題」として、「第7章において検討した「タイシルク」をめぐる問題が、本書の底辺を流れる歴史的視座の現在的意義という問いを意識した原点であり、また本書から次の課題へと導く架橋となっていることに改めて気づかされた」という。そして、「もっぱらタイ近代史研究という文脈に自らを位置づけて研究課題を考えることに帰着させていたためか、自らの研究活動や、それをとりまく学術の様相を歴史化するという契機を欠いていた研究状況の意味について、深く考えざるを得なかった」。「今後の課題として、広域の地域秩序や長期の時間軸の中で、タイと日本の双方を対象化する視角を意識的に考え、両者の比較研究はもとより、東南アジアや東アジアという地域区分の再考をも含めたより広域かつ動態的な文脈の中にタイと日本を位置づける必要がある」と述べている。本書の副題に「序説」とあるのは、まさに「可能性としての歴史」が見えてきたからだろう。今後の研究の発展に期待したい。

 と、ここで終わりにすればいいのだが、「蛇足」を書かざるを得ない。著者本人が気づき、「あとがき」で述べていることであり、ほんとうに「蛇足」になるのだが、本書を読み終えてため息が出た。その理由は、本書「あとがき」の最後につきる。出版社の編集者が一貫して「タイ史を超えた読者に届けたい」と言っていたことだ。冒頭で書いたように、本書は「タイの歴史をすこしでも知っていれば」という前提で読まなければ、理解してもらえないだろう。編集者は通常最初の客観的な読者であり、しばしば的確なアドヴァイスをしてくれる。しかし、それを素直に理解し、一度書きあげた原稿を手直しすることはたやすいことではない。それにしても、本書がタイ史研究者だけに評価されるようでは、なんとももったいない。著者はその謙虚さから、書くための苦労や本書の価値を自ら充分に語っていない。本書の総括が、「あとがき」の冒頭でちょこっと書くだけでは、著者の伝えたかったことは読者に充分に伝わらないだろう。「終章」を設けて、しっかり書くべきだった。そうすれば、タイ史研究者以外の読者も、本書の内容をもっとよく理解できたはずだ。本書で考察した困難な問題は、東南アジアだけでなく文献の乏しい国・地域の歴史研究の共通の問題でもある。そして、その問題の克服が、文献史学中心の偏った近代歴史学を超えるために必要だ。「歴史学の危機」を好機に変えるヒントが、本書にはあるのに・・・。

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