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2006年10月24日

『可能性としての歴史-越境する物語り理論』鹿島徹(岩波書店)

可能性としての歴史-越境する物語り理論 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 タイトルの「可能性としての歴史」を見て、うれしくなった。しかし、サブタイトルの「越境する物語り理論」を見て不安になった。

 「歴史学の危機」が唱えられて久しい。「危機はまさに好機である」とも言われる。「可能性としての歴史」のタイトルを見てうれしくなったわたしは、歴史学が危機を好機にできない原因を知っている。「越境する」ことができないからである。「可能性としての歴史学」の条件が「越境する」ことなら、不安にならざるをえない。歴史哲学から歴史への問いかけは、これまでも何度かあった。最近では、『シリーズ 歴史を問う』(全6冊、岩波書店、2001-04年)がある。「現場の歴史研究者」は、「歴史認識問題」のようにあまりに政治化した歴史論争に、発言を躊躇している。戦争中に「戦争協力」したことから、発言をしなくなったとも言われる。現実から逃避した歴史学に未来はあるのだろうか。本書が、その疑問に答えてくれるかもしれない。不安を拭って、期待をもって読みはじめた。

 タイトルもサブタイトルも、ともにふたつの意味・意図があって名づけられたことが、「まえがき」で説明されていた。まず、タイトルのひとつ目の意味は、「歴史」を「現在を生きる者にたいし新たな生の可能性を指し示すもの、またそうした可能性として現在にそのつど取り戻されるもの」ととらえる視点に立つもので、「「歴史」とは、過去に生じた出来事としてひとつの完結した事実を意味するにとどまりはしない。さまざまな痕跡や記録を回路として呼び出され、一見自足しているかにみえる<現在>の奥底にひそむ異貌の深層として忽然と姿をあらわし、人びとにこれまでとは別様の生のありかたへと歩を進ませうる、そのようなものであるはずだ」という。もうひとつは、「潜在的可能性をきわだたせようとする主旨から」のもので、「「歴史」についての文学や映像による表現はもちろんのこと、専門的学問として営まれる歴史学研究もまた、「実際に」生じた過去を探求し「ありのままに」確定するにとどまるものではないだろう。過去の人びとが企てながら挫折に終わった未遂の生の可能性、現在の支配的な歴史叙述によっては隠蔽されている生の営みの可能性を、生き生きと現在によみがえらせる潜在力をもっているのではないか。「歴史」という言葉は一般には、過去の事象のみならず、過去の事象についての探究・叙述をも意味している」と、「可能性」を期待する言葉が投げかけられている。ともに、「現在を生きる者」としてなんのために論文を書いているのか、さっぱりわからない「現場の歴史研究者」に読ませたいタイトルの「意味」である。

 そのような「現場の歴史研究者」が読めば、とんでもないことが、サブタイトルの「意図」に書かれていた。ひとつ目の「意図」は、「「歴史の物語り理論」を出発点に論を進めることによって、この理論そのものの<限界>を、ということはすなわち他のアプローチへの<境界線>を、進んで明らかにしてゆこう。そのうえで、それら他の理論的視点-伝統的歴史哲学、メディア論、権力論、社会心理学、「グローバリゼーション」研究など-の成果を、本書の枠内で可能なかぎり参照しながら考察を進めたい」という。多くの「現場の歴史研究者」は、日本史、東洋史、西洋史という枠を超えられず、ナショナル・ヒストリーや古代、中世、近世、近代という「時代」を超えられないでいる。もうひとつのサブタイトルの「意図」である「歴史理論としての自己純化を目指すことはしない」など、国・地域、時代を超えられない「現場の歴史研究者」にとって思いもよらないことであろう。つぎの具体的な説明がわかってもらえると期待できるのは、カルチュラル・スタディーズなど学際・学融合的研究をしている者であろうか。「実際の歴史の個別実証研究や通史的叙述をたえず参照し、歴史家の方法論的見解との対話へと乗り出してゆく。さらには文芸批評や小説作品を素材に考察を深めるなどするなかで、「理論的」とされる問題についても考え進めることを、本書はおよばずながら企てている。とりわけ、「歴史」という主題が、現に生を営んでいる「自己」の問題と不可分であるかぎり、心理学・社会学・教育学などの分野で議論の進捗がいちじるしい「物語的自己性論(ナラティヴ・アプローチによる自己論)」の参照は不可欠であり、その成果をわずかながらも取り入れるよう努めている」。

 著者、鹿島徹は、硬直化した日本における歴史研究の現状について知らないわけではない。充分承知しているから、「虚構としての文学作品のほうが、史資料による実証のみに自己限定する専門研究よりも、歴史というものの本質により近いとすらいえるかもしれない」と述べることができるのである。いまの日本の「現場の歴史研究者」が考え得ることは、「従来「歴史学の補助学」とされてきた考古学・人類学の営みも、文献史学の営みと同等のものとして扱い、しかもそれらを相補的なものとして各成果の総合をはかること」くらいだろうか。というわたしも、それ以上のことが理解できているかどうか怪しい。

 本書を、まず「現場の歴史研究者」が読もうとし、理解しようとすることから、「可能性としての歴史」がはじまり、「物語り的存在としての生を拡散的に豊かにする」ことを意識すれば、「歴史」が「人間に今とは異なる生のありようを指し示す」ことができるようになるだろう。そして、「歴史学研究」が「現在の支配的記述では隠蔽されている生の営みの可能性を現代に甦らせる力をもつ」ことにも気づくだろう。著者の言わんとすることがわからないようでは、著者が『朝日新聞』にも書いていたように、「旧来の文学部が解体され、「歴史」学研究がそれぞれの地域の文化研究へと再編成され」、歴史学の独自性を失うことになってしまう。その「歴史学の危機」を好機にできるか、本書はいろいろ教えてくれている。うれしい「可能性」満載なのだが、その「可能性」の芽を摘んでいるのは「境界」を超えられない「現場の歴史研究者」のようだ。

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