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2006年08月29日

『インドネシア イスラームの覚醒』倉沢愛子(洋泉社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 2003年春、学生を連れて神戸を歩いていた。モスク(イスラーム寺院)の前に来たので、ダメもとを承知で見学を申し出た。突然であったにもかかわらず、快く迎え入れてくれて、たまたまいた留学生が懇切丁寧に説明してくれた。モスクの前の食料雑貨店も、興味深いものだった。学生のなかには、9・11の衝撃が鮮明で、イスラーム教徒を怖いと思っている者がいたようだが、かれらの日常に接することで、モスクに入る前の緊張した顔が、モスクを出るときには穏やかな顔になっていた。わたしの大学の近くには、AOTS(海外技術者研修協会)関西研修センターがある。学生とランチをしに行くことがある。そこで、学生ははじめてハラール(イスラームの教えに照らし合わせて問題がない)料理を目にし、食べてみる。料理も食べているイスラーム教徒も違和感なく、食堂で自分たちと一緒に食事をしていることに気づく。

 本書の著者、倉沢愛子は、インドネシアのイスラーム教徒の日常に目を向ける。かの女をそうさせたのは、「ジャカルタに居を構えて15年」、「既存の理論からは到底理解できないような諸現象を目のあたりにして出てきたさまざまな疑問が」いざなったからである。著者が学んだ近代科学に基づく「近代化論では一般に、近代化が進むと信仰にあまりにも時間やお金やエネルギーをかけることは少なくなっていくと解釈されてきた。しかしインドネシア社会は、反対に近代化や経済開発が進んできたまさにその時期に、宗教色が強まってきたのである」。著者は、この現象を理解するために、「インドネシアに居を構え、そこで生活するなかで感じた数々の変化や戸惑いをひとつひとつ紹介しながら、研究者の目というよりは、一人の生活者の目で、変容しつつあるイスラーム社会を分析して」いる。著者は、自分自身を「イスラーム研究者ではないし、イスラームの狭義や歴史など奥深いところは何も知らない」と謙遜しているが、それこそが著者が近代の研究者から現代の研究者に飛躍しつつあることの証拠だろう。それは、著者が近代的な科学の手法を充分に身につけているからこそ気づいたことだろう。しかし、それは飛躍の第一歩にすぎず、まだまだ暗中模索であることを著者自身がよくわきまえているから、謙遜しているのである。

 本書では、イスラーム主義がインドネシアで急激に台頭してきたことを、出版などのマスメディア、服装、カリスマ説教師など、日常性のなかで具体的に紹介し、考察している。インドネシアといっても、日本の国土の5倍以上、東西5000キロを超え、時差も2時間ある。人口は2億人を超え、民族や言語はいくつあるかわからないような国で、本書のジャカルタの事例がどれだけほかの地域・社会で通用するのかわからないいっぽうで、この事例からいまという時代や社会を読みとることもできる。

 まず、イスラーム主義の台頭という現象は、イスラーム社会特有のものではないだろう。中国の愛国主義の台頭や日本の若者の右傾化も、同じ現代の現象といってもいいかもしれない。グローバル化が進み、社会の平準化が進むいっぽうで、自分たち自身の社会に目を向けるようになり、過度に守ろうという現象が起こっている。環境問題の解決のために、「グローバルに考え、身近なところで行動しようThink Globally, Act Locally」ということがいわれるが、これらの現象は「身近なところで考え、身近なところで行動しようThink Locally, Act Locally」とするものである。そして、イスラームという「身近なところで考え、グローバルに行動したThink Locally, Act Globally」結果が、国際テロ活動といえるかもしれない。身近であるだけに同調者はえられやすく、インターネットを通じて充分な議論と理解のないまま、拡がりエスカレートしていく。

 この「テロ」という本書でも頻出することばについても、考える必要があるだろう。イスラーム教徒は、ウンマという共同体のなかでシャリーア(イスラーム法)という秩序の下で暮らしている。近年、アメリカを中心とする資本主義経済と価値観が、グローバル化の進展とともにイスラーム社会に浸透し、共同体内でイスラームの秩序が守れなくなるという危機感が生まれた。それが、あまりに大きな力で急激であっただけに、イスラーム教徒を動揺させ、「テロ」行為へと走らせたということがいえるかもしれない。しかし、イスラーム教徒側は「アメリカこそがテロ国家」だと主張している。なぜだろうか。

 古い例では、ローマ法によって守られたローマの市民というものがあり、ローマ法が通用しない人びとを「賊」とよんだ。山賊、海賊とよばれる人びとは、自分たちとは違う法や秩序をもつ人びとということができる。逆に「賊」とよばれた人びとからローマ市民をみると、ローマ市民のほうが「賊」ということになる。いま使われている「テロ」ということばも、かつての「賊」と同じように使われているといってもいいかもしれない。ということは、われわれは違う秩序を認めあうということからスタートしなければ、互いを「賊」とか「テロリスト、テロ集団・国家」とか言って罵りあうだけで終わってしまう。かつては、「鎖国」したり「海禁」したり、万里の長城を築いたりして、自分たちだけの社会秩序を守ってきた。しかし、グローバル化しつつある現代では、それは非現実的なことだ。自分たちとは違う価値観や秩序をもつ人びとと、どう友好的に暮らしていくか、「賊」も「テロリスト」も存在しないことを前提にして考えていかなければならない。

 本書は、近代科学で理解できないジャカルタを中心に起こっている現象を、日常生活のなかで把握し、数々の問題提起をしている。その答えを出すのは、近代科学で教育を受けた著者の世代ではなく、異なる価値観や秩序が理解でき、多文化共生社会を生きることができるこれからの世代かもしれない。しかし、その世代のなかに、グローバルな視点でものが見えず、自己中心的な考え方を強めて、グローバルに行動する人たちがいる。地球規模のトラブルの原因になることは明らかだ。まずは、これからの社会に必要なものの考え方、行動のしかたを、平和な多文化共生社会の形成を目指して考えることから始める必要があるだろう。そして、グローバルに考え、地球共同体という広域社会と身近なコミュニティの両方で行動できるThink Globally, Act Glocally人材を、世界中で育てていかねばならない。

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2006年08月15日

『本当に「中国は一つ」なのか-アメリカの中国・台湾政策の転換』ジョン・J・タシク・ジュニア編著、小谷まさ代・近藤明理訳(草思社)

本当に「中国は一つ」なのか-アメリカの中国・台湾政策の転換 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 1996年3月、NHKBS1でフィリピンのニュースを見ていたら、マニラに日本の軍用船が50年以上ぶりに入港したと大きく報じていた。中華人民共和国(中国)軍が、台湾に直面する中国沿岸で軍事演習をはじめ、台湾の高雄と基隆の沖合にミサイル4発を発射したときである。日本の報道は、中華人民共和国軍の演習とアメリカの空母機動部隊の動きを中心にしていた。そのとき疑問に思ったのは、日本の海上自衛隊の動きが報道されなかったことだ。流れ弾が日本の領域に飛んでくるかもわからない状況で、日本が監視船を出していないのはおかしいし、監視船を出しているならそれを報道しないというのもおかしいと感じた。

 あれから10年、中華人民共和国の存在は、軍事面だけでなく、まずもって経済的に大きく発展し、政治力も増し、文化などあらゆる面で、「超大国」ぶりを発揮するほどになった。その存在があまりにも大きくなったために、わたしの専門とする東南アジアにも大きな影響を与え、その陰に隠れて東南アジアの存在が無視されるのではないかと危惧さえ抱くようになった。しかし、その危惧は、台湾に比べるとはるかに小さいことが、本書を読んでわかった。

 本書は、「アメリカを代表する有力シンクタンクの最重要提言!」で、「「一つの中国」政策は時代遅れの虚構である」と主張している。別の言い方をすれば、アメリカが台湾を見捨てれば、「民主主義国家となった台湾」の「民主主義」がなくなり、「アメリカの国益を損なう」ことになるという。「訳者あとがき」によると、本書は2004年3月の台湾総統選の直前の2月に開催されたシンポジウムをまとめたもので、「最大の特徴は何といっても、これまでタブー視されてきた曖昧な「一つの中国」を公然と論じた点」である。「アメリカの政府高官のなかにさえ誤解があるというアメリカの「一つの中国」政策の真の意味」は、「決して台湾の主権を中国に認めるものではないことが、膨大な資料を提示しながら説得力もって詳細に解説されている」。

 本書で何度も出てきて確認されていることは、アメリカ政府は、「中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であるという中国の立場をアメリカは認識」している、ということである。つまり、アメリカ政府は、中華人民共和国政府が主張するような、台湾には国家としての主権がなく、台湾は主権国家中国の一部である、ということは認めていないというのである。そのアメリカの基本的台湾政策が、「経済大国となり、軍事力を増強しつづけ、台湾を脅かしてアジアの覇権を握りつつある中国を前に」、「全体主義、独裁専制国家、領土拡張主義という言葉」を並べて、いわゆる「中国脅威論」が展開されるいっぽうで、「台湾問題をきっかけに中国の民主化を促し、世界に民主主義を拡大するという夢と希望が高らかに語られ」ている。

 この台湾をめぐる問題は、きわめて政治化していて、もはや従来の国際関係では解決しえない問題であるかのようにみえる。そして、それは当事国だけの問題ではすまされなくなっている。近隣諸国の一つである日本にとっても、いつその影響が直接に及ぶかわからない。だからこそ、本書が日本語に訳され出版されたのだ。また、台湾が、「一つの中国」という原則から、中華人民共和国が加盟している国際機関からはじき出されていることは、グローバル化する現代、どのような影響が世界全体に及ぶかわからない危険性がある。たとえば、2003年に「台湾のオブザーバー資格でのWHO参加が否決された」ことは、SARSや鳥インフルエンザなどの伝染病の拡大阻止に影響を与えることを意味している。主義主張を超えた解決の糸口を見つけるために、この分断国家の悲劇の原因をつくった日本に、なにができるのか。本書を読むかぎり、台湾の運命はアメリカの政策で決定されるように思えてくる。それでは、あまりに情けない。日本の「国際貢献」とは、このような問題の解決に努力することではないだろうか。

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2006年08月01日

『脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成』山本博之(東京大学出版会)

脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 まずタイトルを見て、なぜグローバル化時代にナショナリズムをとりあげなければならないのか、なぜ英領北ボルネオというこれまで注目を浴びてこなかったし、これからも浴びそうにない地域の研究をしなければならないのか、と思った人は、近代という古い考え方に束縛されて、新しい時代が見えていない人です。近代は中央集権的な時代で、世界の中心であるかのように見えた「先進国」を中心に研究すればいい、国民国家が基本的枠組みで、その国民国家の中心の首都を研究すればいい、と考えられた。なぜなら、地方は首都をモデルし、「途上国」は「先進国」に追随して、「発展」していくのだと考えられたからである。過去の遺物となり、将来の展望が開けない研究は必要ない、と考えられても不思議ではない状況があった。しかし、もはや現在は近代ではない。

 本書の著者、山本博之は、近代の研究で見過ごされた問題から、現代さらにこれからの世界を見ようとしている。本書でとりあげる北ボルネオは、かつてマレー半島南部、サラワクとともにイギリス領であったことから、現在マレーシアという国民国家の一部になっているが、政治的にも文化的にも独自性を維持している。著者は、北ボルネオ(サバ)を事例に選んだことを、「はじめに」でつぎのように説明している。「サバは外来起源の思想や概念を、時に大きく変容させることで平和的に社会に取り込んできたのである。このように考えれば、サバは諸文明の共生という人類社会の課題への取り組みにおいて「最先端」の試みがなされているフロンティアであるとの見方も成り立つことになる」。だから、本書で「サバにおける外来の思想や概念の受容のされ方を検討する」という。すでに、国民国家を基本とする理論枠組みの限界が明らかになり、それに替わる新たな社会原理が模索されているなかで、著者はナショナリズムが対立や紛争というかたちで議論されてきたのにたいして、「「戦わないナショナリズム」を積極的に評価することを通じて民族アイデンティティが必要とされるしくみを解明」しようとしている。資料としては、表紙のデザインにもなっている、「1950年代末から60年代初めにかけてサバで発行されていた各言語の新聞」をおもに利用しているが、地域研究を専門に学んだ著者は、「文字資料に現れない人々の対応を浮かび上がらせることを試み」ている。

 本書で議論された北ボルネオ社会の3つの民族構成は、自明のものでもないし、民族間の明確な社会的亀裂があったわけでもない。にもかかわらず、北ボルネオには3つの民族が存在するという認識が生まれ、3つの民族政党が結成された。著者は、それを「脱植民地化による建国の過程」を通して検討した結果、つぎのような結論に達した。「サバには建国に際して多数決原理とともに資格としての民族原理がもたらされた。すなわち、ある社会において社会全体に関する意思決定の場に代表を派遣する資格を有すると認知された枠組として民族を捉える見方である。サバでは選挙制度と政党の導入に伴って5つの政党が組織され、これらが建国時に3つの政党に収斂した。そして、この3つの政党が代表する枠組としてカダサン人、ムスリム/マレー人、華人という3つの民族が存在するとの認識が定式化された」。しかし、この「3つの民族アイデンティティは建国の過程で得られた1つの均衡状態であり、固定化されたものとして捉えられない。3つの民族アイデンティティはいずれも明確な境界線を伴うものではなかった。サバでは各政党が厳密に排他的な党員資格を適用することができず、人々はしばしば政党間を移籍し、あるいは複数の政党に同時に登録し、そのためサバ連盟の構成政党どうしで支持獲得をめぐる争いが絶えなかった」。

 こんな「いいかげんな」地域の研究をしてなにになるのだ、とまだ感じている人がいるかもしれない。近代は、温帯の定着農耕民がリードした時代だった。いまグローバル化のなかで、社会の流動化が激しくなってきている。北ボルネオを含む熱帯の海域世界は流動性の激しい地域で、現代は流動的な海域世界の様相を呈してきているということができるだろう。だからこそ、著者は「結論」でつぎのように述べている。「「大国」に直接影響を与えない事例を一地方の特殊な事例にすぎないと見て切り捨てるのではなく、それぞれの地域社会で起こっていることを世界に結びつけて理解する努力を行い、その理解を1つ1つ積み上げていくことが必要だろう」。そして「「自信のない」ナショナリストの役割を積極的に評価することも必要となるだろう」と結んでいる。

 本書は、「第1章 学説史の整理」ではじまり、「第2章 歴史的・社会的背景」につづいて、第3~10章で、北ボルネオを事例に議論を展開し、その成果を踏まえて「結論」をまとめている。ひじょうにわかりやすい構成である。近代に研究が発展した国や地域の研究者にはとうてい理解できないだろうが、本書でもっとも執筆が困難であったと想像されるのは「第2章 歴史的・社会的背景」である。本書を読んで、理解しづらいところがあるとすれば、それもこの第2章が充分に理解できないからということになるだろう。研究蓄積があれば、「歴史的・社会的背景」は、既存の研究成果をまとめ、整理するだけで充分だ。しかし、本研究では、それがない。本来、歴史的背景だけで1冊、社会的背景だけでもう1冊、書いてからでないと、第3章以下が書けないというのが、この地域の研究の現状であろう。それは、北ボルネオだけに限らず、近代に「先進国」と言われた国を除けば、大なり小なり同じような問題に直面する。事例研究に付加価値を付ける「背景」の理解から研究を始めなければならないのだ。当然、このような研究には、時間と幅広い学識が必要となる。そのわりには、研究成果は評価されないのが現実である。いまグローバルな視点が必要だということは、さまざまな分野で主張されている。そのために必要な研究はどのようなものか。近代の延長線上にある研究より、近代を超えるための研究が必要であるにもかかわらず、「近代」にへばりついている人たちがいる。そして、「近代」にへばりついているほうが勉強しやすく、成果も出やすく、評価もされやすい。

 事例研究は、馬力と根気があればなんとかなる。理論研究は、勉強すれば多少はわかるようになる。しかし、「歴史的・社会的背景」は、ちょっとやそっとではわからない。著者は、そのことに気づいたことを「あとがき」でつぎのように書いている。「大学院に進んでサバで暮らすようになると、理念は抱きながらも現実の中でしたたかに生きている人々に出会った。その場しのぎに見える判断が予想外の解決の道筋を生み出す例を見るにつれて、一見理屈に合わないことでも、それが実際に人々によって選択され、それなりに機能していることの意味を考えるべきではないかと思うようになった。ある社会が複数の民族に分かれて国民としてのまとまりを欠くように見えるのであれば、人々がそのような社会を作って維持してきたことの意味を考えてみようと思うようになった」。問題の本質が見えてきたのだ。本書のような研究が、これからますます必要になる。そのためには、「歴史的・社会的背景」を充分に語るだけの事例研究が、まだまだ必要だ。この地域の研究だけでなく、この地域の研究に影響を与える、近代に見過ごされてきた地域や分野の研究が、まだまだ必要だ。

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