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2006年06月20日

『シェバの女王-伝説の変容と歴史との交錯』蔀勇造(山川出版社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 2006年5月20日、映画「ダ・ヴィンチ・コード」が世界同時公開された。いたずら好きで謎のメッセージを作品に盛り込むことで知られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、後世に格好の謎解きの楽しみを残したと言える。しかし、キリスト教を信仰する者にとっては、「フィクション」ではすまされない内容が含まれており、原書は世界各国で発禁になった。映画も上映を禁止されたり、年齢制限をされたりしている。この話、歴史研究にとって、たんに「フィクション」ですましていいものだろうか。

 フィクションとノン・フィクションの境目は、実に微妙だ。優れたフィクションには、現実では説明のしようのない「真実」が描かれていることがある。逆に、優れたノン・フィクションには、編集や効果などによって現実とは違う「嘘」がある。歴史には、つねに物語性がつきまとう。その語りの効果をあげるために編集・脚色され、しだいに元の歴史事実から遊離してひとり歩きし、後世に伝えられることがある。そのひとつの例が、本書でとりあげられた「シェバの女王(シバの女王)」の物語だ。

 著者の蔀勇造は、本書執筆の動機を「あとがき」で、「我々の歴史は、過去に起こったことだけでなく、起こりもしないのに人々が起こったと信じた出来事によっても動かされてきた。そう考えると、このようなありもしない事柄も、歴史研究の対象として結構重要なのではないかと思えてくる」と説明している。本書では、「歴史の研究といえば、過去に生起した事柄の真相を究明し、それが後の世に及ぼした影響について考察するのが、主たる内容である」という従来の考え方とは違う歴史的考察が加えられている。

 「シェバの女王」の伝説のはじまりは、「『旧訳聖書』に収められた「列王記上」の第一〇章、ならびに「歴代誌下」の第九章にみえる」逸話にある。その「『旧訳聖書』にシェバという国の所在地と女王の名が明記されていないことが、史実性の解明を妨げる一方で、後世この逸話をもとに各地で多様な説話が生まれる要因となった」。本書では、伝説のあらましを説明した後、まず「ユダヤ、イスラーム、キリストの三つの宗教を信奉する人々の間で、この伝説がどのようにかたちを変えたかを順次みてい」き、「ついで、この伝説がもっとも大きな影響力をもつにいたったエチオピアの状況を詳しくみたうえで、これがカリブ海のジャマイカに飛び火した経緯を検討」し、「エチオピアの人々やジャマイカのラスタファリアンにとって、シェバの女王伝説はもはや単なる物語ではなく、彼らの歴史の中核を成す」にいたったことを明らかにしていく。

 本書を読むと、伝説がつくられ、人びとに受け入れられていく様子から、それぞれの地域性や時代性がわかってくる。そこには、地域や時代を超えて、歴史とはなにかを考えさせるものがある。人びとが歴史に関心を示すのは、過去の真実を知りたいからだけではない。歴史を語ることで、その地域・社会でその時代を生きる人びとにとって大切ななにかを語りたかったからである。その歴史は、真実でなくても構わない。そして、その伝説は必要に応じて、変形して伝えられていく。もちろん、必要がなくなり、人びとに忘れさられ、消えていった物語も無数にある。それだけに、今日まで語り継がれる物語の意味は大きい。

 このように史実ではない物語から歴史を読みとることが重要なら、近代の実証主義的文献史学で史料の信憑性を考証し、「嘘」の多い史料を排除したことは、たいへん無駄であっただけでなく、歴史の奥深さに気づかなかったことになる。とくに途上国の口述史料は、先進国側に残る文献史料と矛盾した「事実」とは異なることが語られているとして、軽視されるか無視されてきた。そのため、一方的に先進国中心の歴史が語られ、あるべき世界史が語られず、「知の帝国」の世界史が語られることになった。本書が示した「伝説と歴史の交錯」は、そのような「知の帝国」主義からの歴史の解放をも示唆している。そして、近代の史料考証を超えて、「正確さ」に欠けるとして二級以下の扱いを受けてきた史料を読み解く力を歴史研究者がもつことの重要性を教えてくれる。そうなると、考察すべき文献史料が格段に増え、逆説的に文献史学はますます重要性を増すことになる。さらに、これまた逆説的に、文献史学にこだわることが歴史研究の幅を狭め、学問的世界からも現実的世界からも孤立することになる。

 本書には、近代に創られた歴史像を変えるためのヒントがいたるところに隠されている。それを読者が読みとることができるか、歴史研究という「謎解き」のはじまりである。

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2006年06月13日

『国境を越える歴史認識-日中対話の試み』劉傑・三谷博・楊大慶編(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 日本語版と中国語版が同時に出版された本書は、「近年、東アジアにおける歴史認識のギャップを埋めるため、様々な共通歴史教材が編まれているが、その中にあって、子供でなく、大人の通読に耐えるものを目指し」たという。編者を代表して劉傑は「はしがき」で、「1972年の国交回復以降20年以上も大事にされた「日中友好」」が、「中国社会の急激な変化」と「日本社会の「右傾化」」によって、中国「政府に与えられた日本観は大きく変貌した」と述べている。「敵対の歴史を有する両国民の歴史認識にギャップが」生じたのは、「敵対の経験を持たない両国の戦後世代が未来に向けた信頼関係を構築する新時代が到来した」90年代半ばころからであり、そのギャップを埋めるのは「理性的な対話」だと説いている。そのための基本的文献となるよう、本書は編まれた。

 「それぞれの問題がどういう理由で日中間の争点になったのかを解説すると同時に、争いを解決する道筋を提示することに努めた」本書は、2部13章から成る。「第Ⅰ部「歴史の事実と歴史認識」では、太平洋戦争前までの時期の歴史事象に焦点をあて、今日の日中関係の基層を構成している諸事件と歴史認識の枠組みを分析し」、「第Ⅱ部「和解のための歴史認識を求めて」では、現代において日中間に横たわる課題を取り上げ、今日の展望を見通すよう試みている」。ともに基本に忠実で、対話のための基本的材料を提供している。まずは、本書の試みは成功したと言っていいだろう。ただ、見過ごしがちになるか、意図的に避ける台湾を取り上げたことが、中国側の読者にどのように受け入れられるのか、少々気になった。

 本書から、「おおむね「日本人民も軍国主義の被害者」という思考回路で現在の日本と過去の日本を対話させ」ていた良好な「日中友好」関係が崩れていった原因として、冷戦構造の崩壊やグローバル化などにともなう近代の基本であった二国間関係を中心とした外交が終焉を迎えたこと、また中国の民主化にともなう情報公開や経済開放にともなう中国経済の国際化などがあったことがわかる。ならば、もはや二国間関係だけで、「歴史問題」は解決できないことも明白である。にもかかわらず、本書は日中の問題に限って議論が進められている。かつて日本がつくった「戦争空間」としての「大東亜共栄圏」のなかでの中国の存在は、日々大きくなっている。それは中国への投資、中国製品の海外進出といった経済的なものだけではなくなっている。

 「あとがき」で日本側の編者である三谷博は、「直接に加害もせず、被害も受けなかった世代に、過去認識への確かな手がかりを提供する。それが今、極めて重要になっている」と述べている。その点で、気になるのが、最終章の「13章 歴史対話と史料研究」である。「日本と中国の間の歴史認識の上で立場の相違があるとしても、日本側の世界への発信力が圧倒的に弱いため、世界の近代日中関係史理解は次第に中国側の視点になっていくことは明らかである」。さらに、「東アジア諸国、中国、台湾、韓国は、文書の保存、整理、公開に極めて熱心であり、東アジアで日本がもっとも立ち遅れているということはあまり知られていない。これは1945年以後に顕著だが、それ以前についても同様である」と、日本側の問題をあげている。

 戦争を直接体験した世代から、その体験を直接聞いた世代、そしてそのつぎの世代が、日本でも中国でも中心になろうとしている。そういう「歴史問題」「歴史認識」を客観的にみることができる世代が、判断の拠り所とするのは、これらの問題にかんする材料(資料)をいかに真摯に公開しているかどうかではないだろうか。それは、「第3者」として同じ「戦争空間」を経験したほかのアジア・太平洋地域の人びと、日本との戦争とは直接かかわりのなかった国や地域の「第4者」の人びとに、より顕著になるのではないだろうか。また、日本が戦利品として朝鮮・中国だけでなく、戦場とした各地から奪ってきた文化財があるなら、それを明らかにし、返還することも必要だろう。破壊した文化財についても、考える必要があるだろう。「対話」だけでなく、日本・日本人が信頼を得るために、しなければならないことは、まだまだあるようだ。

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2006年06月06日

『思考のフロンティア 暴力』上野成利(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「思考のフロンティア」シリーズの本を、この書評ブログでとりあげるのも、何冊目になっただろうか。このようなシリーズでは、最初に「刊行にあたって」というようなシリーズの主旨が、それぞれの巻の冒頭にあることが多いのだが、本シリーズにはそれがない。それだけ、各巻の執筆者は自由に書けるわけだ。

 本書の著者、上野成利は、「あとがき」で本書の体裁が「「思考のフロンティア」というシリーズの趣旨にふさわしいかどうかわからない」と吐露している。その理由は、「ここには最新モードの思想などほとんど登場しない」からである。だが、「「フロンティア」とは本来、開拓地と未開拓地との境界領域を意味しているのだとすれば、何がどこまで開拓されているかを見極めることは不可欠の作業であろう。本書が一歩下がった「後衛」の位置に橋頭堡を築こうと考えたのも、故なきことではかならずしもない。もとより少なくとも現在の政治哲学の分野では、上記の思想家たち[H. アーレント、C. シュミット、W. ベンヤミン、M. ホルクハイマー、Th. W. アドルノら20世紀前半のドイツ語圏の思想家]のテクストを読みなおす作業はそれこそ最新モードの一つでもある」と、断言する。

 その裏付けは、「本書の内容の大部分は、ここ数年私が勤務校で行なってきた講義とほぼ同じものである」というあたりにありそうだ。著者は、「最新モード」が基本から出発することをよくわきまえているからこそ、教育においてあえて学生にウケがいい話題性を振りまくようなことをしていない。「学生の授業評価」などを気にした「人気教授」の「おもしろいが、頭になにも残らない」ような授業はしていないようだ。まずは、拍手を送りたい。

 さて、本書の内容であるが、それほどやさしいものではない。「難しいけれども面白い」「この先をもっと知りたい」という学生の声は、著者の授業を実際に受けなければわからないのかもしれない。本書で著者が問いただしたかったことは、「はじめに-ヤヌスとしての暴力-」の最後の方で、つぎのように述べられている。「21世紀になっても暴力の世紀は依然として続いている。それどころか暴力の応酬は限りなく昂進し、いっそう拡大しているような観さえある。しかも、近代の政治の文法に取って代わるような新たな文法は、いまなお見出されてはいない。こうしたなかで私たちに求められている作業とは、ゲヴァルトを自明の前提としてよりよき政治のありかたを探るだけでなく、ヴァイオレンスの次元へと問いを差し戻し、政治的なものの概念を根本から問いなおすことだろう」。

 この問いに接近するために、本書の構成は、つぎのようになっている。「第Ⅰ部「暴力の政治学」では、まずゲヴァルトとしての暴力に焦点を当て、国民国家や戦争という近代の政治現象のなかでいかなる暴力が作働してきたのか、そしてそれが20世紀になってどのように変容していったのかについて、おおまかな見取り図を提示したい。そのうえで第Ⅱ部「暴力の弁証法」では、ヴァイオレンスとしての暴力にあらためて目を向け、統御不可能な法外な暴力がいかにして権力装置の内部に回収されてしまうのかを問い、それを可能にする条件を暴力そのもののうちに探ってゆく。そして最後にこうした一連の考察をふまえて、暴力批判の論理をどのように構想すべきなのかについて、多少なりとも思考を巡らせたいと思う」。

 暴力の質も変化してきている。ブログのトラックバックに、醜い猥褻画像などを送りつけるという攻撃もある。迷惑メールの削除で1日を費やすこともある。相手が見えない陰湿な暴力だ。相手が見えないだけに、インターネットでは無責任な発言、読む人を傷つけ不愉快にさせるものが、否応なしで飛び込んでくる。「いじめ」と同じで、加害者が意識していない暴力もある。「統御不可能な暴力が席捲する世界」に、われわれはいま「どのように向きあってゆけばよい」のか、それを考える1書である。

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