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2006年05月16日

『思考のフロンティア 自由』齋藤純一(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「自由」ということばは、心地よい。それだから「自由」に反対することは、悪いことをしているような錯覚を覚える。しかし、ちょっと考えてみれば、自分の自由のために他人の自由を奪うこともあれば、他人の自由のために自分の自由が脅かされることもある。「自由」とは、やっかいなものだ。だからこそ、本書のように、まともに考えなければならない。

 著者齋藤純一は、「「自由である」とはどういうことかを、それを個人的な問題として位置づけようとする思想や行動に抗して、私たちの<間>にある公共の問題としてとらえ直」そうとしている。そして、多義的な概念である自由を、著者はつぎのように定義する。「自由とは、人びとが、自己/他者/社会の資源を用いて、達成・享受するに値すると自ら判断する事柄を達成・享受することができる、ということを意味する(ただし、他者の同様の自由と両立するかぎりでその自由は擁護される)」と。

 本書は2部と「基本文献案内」からなり、「第Ⅰ部「自由概念の再検討」では、まず、近代の思想家が、「自由への脅威」をどのようにとらえてきたかを概観したうえで、現代において何を自由にとっての脅威と見なすべきかについて検討する」。「「自由の擁護」を主題とする第Ⅱ部では、自由を二つの次元-共約的次元および非共約的次元-に分節化し、それぞれの次元において自由はどのように擁護されるべきかを考察する。さらに、自己統治、安全といったトピックと関係づけながら、現代社会において自由を擁護することの意味を検討する。最後に、自由と公共性の関係を取り上げ、他者の自由を擁護する理由とは何なのか、そして、それを擁護する私たちの責任が何かをあらためて考えることにしたい」と、著者はまとめている。同シリーズの『公共性』の著者だけに、「自由」を「公共性」との関係で考えることによって、擁護しようとしている。

 「他者がその言葉や行為において現われる自由が奪われてはならない理由は、そうした政治的自由が剥奪されるならば、一つの「世界」が私たちの<間>から失われることになるからである。……他者の自由を擁護すべき最も重要な理由は、誰もがそれぞれ「他にない」自由を生き、生きようとするからであり……他者の自由は、私自身の利害関心を超えて、人びとが共有し、関心を寄せる「世界の自由」という観点から擁護される」と、著者が述べるのも、つぎのような背景が今日あるからだろう。「テロリズムへの恐怖が日々の生活に貼りつくようになったアメリカ合衆国では、治安権力に情報の収集、家宅捜査、外国人の処遇などに関して通常の法の支配を大きく逸脱するような権限を与えているし(2002年に制定されたいわゆる「米国愛国者法U. S. Patriot Act」……)、日本においても2004年に施行された「国民保護法」には、「武力攻撃事態」と定義される事態においては「国民の自由と権利に制限が加えられる」ことがありうる旨が記されている」。また、2006年4月には、組織的な犯罪にたいする「共謀罪」を新設する法案が審議入りした。

 アメリカ合衆国との関係でいえば、「自由貿易協定」に反対する中南米諸国の動きが活発になっている。かつて従属理論や世界システム論で語られた、近代の南北アメリカ関係ではなくなってきている。中央集権的な近代システムの考え方が、通用しなくなってきているからだろう。基軸通貨であるアメリカ・ドルを発行することによって、巨額の財政赤字を補うことのできるアメリカの経済力は確かに低下してきている。日本では、「ドル安円高」という表現がよく使われるが、このところドルはフィリピンのような経済力の弱い通貨にたいしてもドル安であり、円もドルにつられて安くなっている。円はフィリピン・ペソにたいして、この1年間で1割ほど安くなった。ほかのアジア通貨もユーロも、ドル・円にたいして高くなっている。アメリカと一緒に「自由」を唱えていると、知らないあいだに孤立しているかもしれない。ドルが基軸通貨でなくなったとき、「自由貿易協定」はアメリカにとっての「自由」ではなくなる。

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