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2006年02月28日

『ノモンハンの戦い』シーシキン他著、田中克彦編訳(岩波現代文庫)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 モンゴルの首都ウランバートルの空港に到着して最初に向かったのは、街の中心から南に3キロのところにあるザイサン・トルゴイだった。街を一望できるこの丘の上に、1971年に建てられた記念碑があり、モンゴルとソ連とが協力してナチス・ドイツや日本軍と戦い、勝利したことがモザイク壁画で描かれている。1939年のハルハ河戦争(日本ではノモンハン事件)についても、描かれている。その日は天気が悪かったにもかかわらず、多くの人びとが訪れていた。国内外を問わず、ウランバートルを初めて訪れた人びとが行く場所に、モンゴルとソ連との友好と相互援助を表象するための悪役として、日本が描かれている。

 1939年にモンゴルと満洲国の国境紛争を原因として始まったハルハ河戦争は、4ヶ月の戦闘で双方に2万を超える戦死者がでた。戦死者数については、いまだに諸説があり、はっきりしないが、短期間に多くの死者がでた激戦であったことに間違いはない。ソ連赤軍の頑強な戦車隊にたいして、日露戦争時の203高地を思い出させるような日本関東軍の無謀な突撃が、死者の数を増やしたのだろう。その実態を、ソ連側の視点で描いているのが本書である。前半は、ハルハ河戦争の最初の刊行物となったシーシキン少佐の1946年の論文で、その後のソ連・モンゴル側の基礎研究資料になった。後半は、ソ連の従軍作家シーモノフの回想で、1969年に刊行された。これまで知らされなかった「停戦後の日本兵の屍体処理と捕虜の交換の状況が描き出されている」。そして、何万もの兵士が死んだこの戦争の結果、国境線は「ほぼモンゴル人民共和国の主張どおりとなった」。しかし、「モンゴル人民共和国に対するソ連の軍事的・政治的支配はますます露骨に強固にな」り、「ソ連がモンゴルをソビエト化するためのあらゆる口実を与えた」。いっぽう、満洲国「防衛のために戦ったはずの関東軍は逃走し、満洲国そのものがついえ去った」。

 編訳者の田中克彦は、本書の意義をつぎのように説明している。「日本としてはどうしてもやっておかなければならない基本作業がある。それは、ノモンハン戦争についての、ソ・モ側の基本文献を、誰にでも読めるようにしておくことである。そうしないと、あらゆる研究、あらゆる創作活動は、日本人だけのうちわ話になってしまい、世界史的な意味を持ち得ないからである」。編訳者の日本側からだけでなく、ソ連側からの観点が必要である、ということはよくわかる。しかし、これだけでは「世界史的な意味」にはならない。所詮、ソ連と日本の帝国主義的視点でしか、この戦争をみることができないからである。戦場となったモンゴルと満洲の住民の視点はないのだろうか。

 それにしても、気になったのは、編訳者の「この本を手にする読者のために」の最初のページで書かれている、つぎのパラグラフである。「忘れてはならないことは、満洲側もモンゴル側も相互に代表を出して、より大規模な紛争に発展するのを回避しようとしてねばり強く話しあいを続けたのであるが、それを日本もソ連邦も許してはおかなかった。それぞれは、満洲とモンゴルの、この平和を望む会談の指導者たちを、それぞれの手で処刑してしまった。ソ連側はモンゴルの指導者たちを「日本の手先き」と呼び、日本側は満洲国の代表を「ソ連に密通」しているとして摘発した。その上で、両陣営は、一九三九年五月一一日の衝突をきっかけに大規模な戦闘へと突入したのである」。

 ウランバートルの街の中心から3キロほど東にいったところにあるモンゴル軍博物館まで、テクテクとひとりで歩いて行った。1アメリカドルを払って入館すると(同じく2005年に訪れたミャンマーでもカンボジアでも、博物館の入館料はアメリカドル払いだった)、だれも訪れる人がいないらしく、展示室を開けて電気をつけてくれた。先史時代からの戦争にかんする展示がしてあったが、もっともスペースを割いていたコーナーのひとつが、ハルハ河戦争についてだった。残念ながら、説明はキリル文字のモンゴル語がほとんどでよくわからなかったが、少ない英語の説明文や写真などから、「侵略者日本を撃退した」ことに誇りを感じていることがわかった。モンゴル側の、そして満洲側の視点で、もっとハルハ河戦争について知りたいと思った。

 因みに、靖国神社の遊就館にも「満ソ国境紛争」のコーナーがあり、「ノモンハン事件」について、つぎのように説明してある。「昭和十四(一九三九)年五月、満蒙国境のノモンハン付近で、外蒙兵と満洲国軍が衝突したことを発端に、日ソ(外蒙)両軍が数ヵ月にわたって激戦を交えた。双方共に逐次兵力を増強し、日本軍は七月に歩兵主体の攻撃を実施したが失敗。一方、ジューコフが指揮するソ・蒙軍は、八月二十日航空機、戦車、装甲車、砲兵を大量に投入する包囲殲滅戦を敢行した。日本軍が初めて体験した本格的に機械化された近代戦であった。停戦協定成立の翌日、ソ連軍はポーランドに進軍を開始した」。

 ところで、ザイサン・トルゴイとは反対の丘の上に、2001年10月15日に日本人死亡者慰霊碑が建立された。厚生労働省の戦没者慰霊事業の一環として、1973年以来海外に建立された戦没者慰霊碑の14ヶ所目としてである。戦後抑留され、強制労働に従事し、死んでいった旧日本兵などの遺骨が葬られている。ザイサン・トルゴイとは違い、訪れる人もなく、丘の上にあり街からよく見えるにもかかわらず、モンゴル人が知らないため、なかなか場所がわからなかった。日本・モンゴル友好の象徴として、市街地を日本とモンゴルの国旗が描かれたバスが走っているが、その日の丸ははげてわからなくなってきている。ここにも、表面化していない「歴史認識」の問題があるのかもしれない。

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2006年02月21日

『対馬藩江戸家老-近世日朝外交をささえた人びと』山本博文(講談社学術文庫)

対馬藩江戸家老-近世日朝外交をささえた人びと →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 近世(初期近代)の外交について知りたくて、本書を開いた。日本史研究は、文献も研究者も多く、具体的な事例が示されるのでわかりやすく、勉強になる。本書も、対馬藩江戸屋敷にあった「宗家史料」を使い、日朝関係をとりもった対馬藩の実情が具にわかり、興味深かった。そして、近世という時代のアバウトさも理解できた。

 近世という時代の外交が、国際的に認知されたものでもなければ、当事国同士の了解のもとに行われていたわけでもなかったことが、本書からわかった。著者は、徳川幕府が、「朝鮮通信使を「来朝」と称したように、国内向けには朝鮮を朝貢国扱いしていたことは事実である。しかし、幕府は、実際には朝鮮通信使を非常に丁重に扱っていたし、通信使随員の殺害事件などがおこると必要以上に相手に譲歩しようとした。ここには、相手を下に見ようとする態度を堅持したまま、実際には対等以下の立場にあることを何とも感じないきわめて日本的な姿勢がよく示されている」と述べている。それどころか、当時「朝鮮の文化的優位は誰しもが認めるところで」、「日本の文人たちの目的は、詩文を添削してもらい、また詩文をもらうことで」あり、「江戸の儒学者や僧侶たちの朝鮮の学問へのあこがれ」があったという。この朝鮮の優位は、朝鮮通信使の日本の高官観にもあらわれている。「老中たちについては、「みな一国の安危を一身に荷うといいながら、座して富貴を享け、浅薄にして愚かなこと、木偶の坊のようである」」とし、幕府大学頭「林鳳岡については「その文筆を観るに、拙朴にして様をなさない」と酷評している。朝鮮通信使のなかには、朝鮮の高官は科挙試験合格者であり一定の能力・教養があるのにたいして、「日本の官爵はすべて世襲」であると批判している、というよりあきれている。それだけに、実力のある新井白石や雨森芳洲は、高く評価された。「朝鮮政府のなかに、日本を下に見、さらに対馬藩を家臣扱いする雰囲気もまたあ」り、「日本は武力を持ち、刺激するとやっかいだが、しょせん文化の低い蛮夷の国であるという認識」があった。

 日朝双方が、それぞれの思惑で、徳川の代替わりを基本に行われていた朝鮮通信使の「来朝」は、国境の対馬藩がとりもっていた。1631年、対馬藩の老家老柳川調興が、藩主の「宗氏が国書の偽造を行っていることを幕府に出訴した」。双方が、自国が優位であることを示すことによって、国内政治に利用していたのだから、双方をとりもつ対馬藩で「改竄」する必要があったのである。この「柳川一件」は4年後の1635年に判決が下り、宗氏が勝利し、柳川調興は津軽藩お預けとなった。幕府は、日朝関係の安定を優先したのである。近代の外交文書は、取り交わした双方で同じものであることが基本であるため、訳文に細心の注意を払う。しかし、近世においては、双方が自国に満足のいく内容であればよく、相手が都合のいいように書き直したり、解釈しても自由だったのである。また、近代の外交権は国家の中央権力が独占したが、徳川幕府はその権限を対馬藩に委託した。その対馬藩の内情すら、幕府が充分に把握していなかったことは、つぎの記述からもわかる。「幕府は、対馬藩の貿易の実態をまったくといってよいほどつかんでいない。幕府役人が必要に応じて対馬藩に問いあわせているだけである」。

 修士論文の審査で、遣唐使について読んだ。そこには、日本からの使節をとりもつ中国の地方役人の姿があった。そして、中国人に詩文の題材として詠んでもらい、詩文をもらうことを喜ぶ日本人知識人の姿があった。近世の朝鮮通信使と同じく、外交は国家の中央と中央が直接行っていたわけではなく地方行政に委託していた。また、詩文を介して文化の優劣が明確になっていた。そこには、近代の西欧的外交とは違う東アジアの前近代の外交があり、文化の優劣が国の地位を決めていた。時代や地域を越えることによって、東アジアの前近代の秩序がみえてくる。

 さらに、世界史のなかで近世の外交をみると、ヨーロッパでは1648年のウェストファリア条約の後、国際秩序ができ、近代的な意味での外交が西欧諸国間で行われることになる。そして、アジアに進出したヨーロッパ列強はほかのヨーロッパ諸国を意識して、アジア諸王国との条約を結んでいった。しかし、1689年にヨーロッパのロシアとアジアの清との間で締結された対等の条約であるといわれるネルチンスク条約では、両者の解釈が違い、両国の国境が画定していなかったために、その後の国境紛争の原因となり、1858年にアイグン条約が締結されている。1939年のソ連・モンゴル対日本・満洲のノモンハン事件でも、国境紛争問題が発端だった。イギリス領マレーやビルマとシャム(現在のタイ)との国境画定については、2005年11月29日のこの書評ブログで扱った。どうも19世紀までのヨーロッパがアジアと結んだ条約は、ヨーロッパ側に都合のいい内容になっていたようだ。流動性の激しい東南アジアのような社会では、条約をそれほど重視せず守っていなかったし、文書そのものも残っているものが少ない。ということは、残っているヨーロッパ側に都合のいいように書かれた文書を基にして語られてきた従来の歴史は一面的なもので、見直さなければならない。

 話はガラリと変わるが、今年の大学入試センター試験の結果が公表された。地理歴史でもっとも受験者の多い日本史(B)の平均点が55点で、世界史(B)は66点だった。日本史の平均点が低い理由のひとつは、古代、中世、近世、近現代と時代ごとに出題していることだろう。そこには、時代ごとの自己完結的な閉鎖性があり、歴史のダイナミズムを感じさせる時代の超克もなければ、連続性もない。出題も自然と限られ、枝葉末節を問うことになってしまう。得点より心配なのは、日本史と世界史の問題を見て、学問的に同じ歴史学だと感じる高校生が少ないことだ。さらに、日本史も時代ごとに違う学問分野だと思われてもしかたがない出題形式になっている。平成11年の学習指導要領では、日本史と世界史の教育目標の違いがなくなってきている。一言で言えば、「東アジア世界のなかの日本」の歴史的理解を、日本史教育も世界史教育もともに目指している。とくに近現代史の出題では、世界史と日本史の共通問題があってもいい。本書でみた朝鮮通信使も、日本史(国史)のなかだけでなく、東アジア史のなかで、世界史のなかでみると、もっと奥深い歴史がみえてくる。学問としての歴史学のダイナミズムと世界史認識があって、なぜ歴史教育が現代の社会に必要なのかがわかってくる。それなのに、・・・。

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2006年02月14日

『空間の生産』アンリ・ルフェーブル著、斎藤日出治訳(青木書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 2005年11月10日、国営テレビ局フランス2に出演したサルコジ内相は、暴動に参加した移民出身の若者を「ごろつきだし、社会のくずだ」と発言した。なぜ、このような火に油を注ぐような発言をしたのか、疑問に思った人も多かったのではないだろうか。本書を読めば、その一端がわかるかもしれない。また、この書評ブログで2005年11月22日にとりあげたイレートが、アメリカで受けた大学院教育を「アメリカ流社会科学の頑なさと、ときとして、その無意味さに耐える数年」と評した意味もわかるかもしれない。

 本書の著者略歴によると、著者(1901~90)は「フランスの哲学者、社会学者。公式的なマルクス主義にとらわれず、柔軟な視点で近代社会の全体像を把握する作業を1968年の五月革命後もつづけた成果が本書に凝縮されている」とある。本書初版は、1974年に発行され、本訳書は2000年に刊行された第四版の全訳である。まず、本書は、書かれた時代背景と著者がフランス人のマルクス主義者であるという理解を抜きにして、読んではいけない、と忠告しておく。

 本書は、論理的構成をもって記述されているわけではなく、けっして読みやすいものではない。ⅠからⅦまでの表題のもとに、それぞれ長短12~30の「エッセイ」が雑然と列んでいる。それぞれの「エッセイ」には数字が振ってあるだけで、内容を示すものは何もない。それぞれ問題を設定し、一般に思われがちな結論を否定して、自説を披露するというのが一般的なパターンだが、なんのために議論をしているのかわからないものも多い。すでに議論したことの蒸し返しもあって、理解するのは容易いことではない。「生涯を通して七〇冊近い著書と三〇〇編の論文を著した」というが、本書からは思いついたことをどんどん書いていっただけという感じがする。

 「解説」では、グローバリゼーションなど、先見性を評価することも書かれている。著者のいうグローバリゼーションは、近代の延長線上としての西洋化を基本にしているにすぎないのだろうか。それとも、今日に通ずるものなのだろうか。1970年代まで注目された著者が、90年代になって欧米で再評価されるようになってきたというが、むしろ80年代に評価されなかったことを考えるべきだろう。民族自決や国民統合がさかんに議論された時代から、グローバリゼーション、ディアスポラ、ナショナル・ヒストリーの否定、多文化主義、環境問題などが議論される時代へと変化したことが、評価されなくなった理由だろう。そして、再評価は、新しい議論の原点を求めて、「近代」とは何か、「資本主義」とは何か、が問われたためだろう。

 本書は、すでに「近代」の限界が明らかになりはじめた時期に、いち早くそれに気づき、「近代」の超克のために「空間」という概念を持ち出したという点で、高く評価できるだろう。「社会空間の最初の基盤あるいは最初の土台は、自然であり」、その基盤が「完全に廃棄されたり消滅すること」なく、新たな「空間」が生産され、分裂・分離し、矛盾が生じてきた。その状況を克服するためには、「VI 空間の矛盾から差異の空間へ」と理解を深め、身体から生じてくる「空間の総体」を把握することだという。そして、「日常生活を変容させるための社会的な支持基盤として地球的規模の空間を創出する(あるいは生産する)こと、それは無数の可能性を切り開くことになる。近い将来においてそのような可能性を切り開くのは東洋である」「システムに類似したものとはまったく無縁なのである」と、本書を結んでいる。著者は、近代の諸科学にかわる新たな学際的・学融合的な科学を、「空間の生産」を分析・考察することによって求めたのである。そして、「リズム分析」が「空間の生産についての説明を最終的に仕上げてくれるものと期待」した。

 それにしても、本書の全体像を示しているのであろう「Ⅰ 作品のデッサン」に続いて、「Ⅱ 社会空間」へと読み進んでいくうちに、だんだん腹が立ってきた。一言で言えば、本書は露骨なヨーロッパ中心史観、傲慢な人間中心主義で書かれているということである。本書の目的について、著者は「Ⅰ 作品のデッサン」の「10」の最後でつぎのように述べている。「空間に関して言うと、本書のねらいは、近代世界を説き明かす諸理念と諸提言をたがいに突き合わせることにある。たとえそれらの理念や提言が近代世界を支配していないとしても、この突き合わせは必要である。そして、これらの理念や提言を個々ばらばらの命題あるいは仮説としてあつかうのではなく、つまり微視的な視野での「思想」としてではなく、近代世界の端緒に横たわる前兆としてとりあつかわなければならない。これが空間に関する本書の構想である」と。「(社会)空間とは(社会的)生産物である」という著者は、「空間の生産」は近代をリードしたヨーロッパ人によってなされたもので、それは自然の克服によって達成されたという。そして、ヨーロッパ人によって植民地にされた地域の人びとが築いてきた歴史や文化を否定する記述が、随所に見え隠れする。たまにアジアにかんする記述があるが、ひどくお粗末である。その最たるものは、「タージマハールにおけるスルタン[オスマントルコ皇帝]の墓」だろう。ご存じの通り、タージ・マハールはインドのムガル帝国のシャー・ジャハーンが愛妃のために建てた廟である。[ ]内の訳注は、もっとお粗末である。スルタンはイスラーム諸国の王の通称であり、オスマン帝国はトルコ民族の国ではないから「オスマントルコ」とはよばない。

 著者のようなアジアの知識がなく、ヨーロッパ中心史観の講義を聴かされたイレートのようなアジアからの留学生は、自国の歴史や文化の研究にまったく役に立たないことを学んだだけでなく、反発したことだろう。いっぽう、優越感を感じたフランス人は、同化政策に自信をもったことだろう。そのことが、フランスの学校でのイスラーム教徒女生徒のスカーフ着用禁止や、今回の暴動事件へと繋がっていったとは考えられないだろうか。サルコジ内相が著者のような考え方の下で教育を受けたのであれば、移民出身の若者を「ごろつきだし、社会のくずだ」と発言したこともわかるような気がする。

 そのアジアにたいして知識のない著者が、最後に「可能性を切り開くのは東洋である」と結論しているのは、もうお笑いでしかない。さんざん西洋中心に語っていながら、その結論を西洋に求めることができず、執筆当時ベトナム戦争が終わろうとしていた「東洋」に、そして毛沢東主義に期待したフランス人マルクス主義者を、今日のわれわれはどう評価したらいいのだろうか。マルクス主義的知識がなく、学ぼうとも考えない研究者が多くなった状況で、どう理解したらいいのだろうか。

 本書は、良きにつけ悪しきにつけ、1970年代という時代に、フランス人研究者がどのように近代を理解していたかがよくわかる「好著」である。しかし、著者の考えをいまの時代にまともに受け入れると、時代錯誤でトラブルの元になりかねない。「知識の宝庫」である本書から何が学べ、何が反面教師で、何がトンチンカンなのかが、充分にわかっている人以外は、読まないほうがいい。何が学べるかは、43頁におよぶ「解説」からわかるので、まず「解説」を読むことをお薦めする。もっとも、堂々めぐりする著者の冗舌な議論(おしゃべり)につきあうことができる忍耐のある人は、そうはいまいが・・・。

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2006年02月07日

『図書館力をつけよう』近江哲史(日外アソシエーツ)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 図書館が便利で使いやすくなると、著作権をもっている者にとって、敵になるのか味方になるのか。電車の中で本を読んでいる人を見て、こんな本まで図書館で借りて、「買えよ」と言いたくなることがある。この本を読んで図書館力をつけられると困る、でも最新の図書館事情も知りたい、そんなことを考えながら本書を開いた。

 著者、近江哲史は、略歴によると、「社史・自分史の制作・研究、市民としての図書館利用問題などに関心・関与」とあり、『図書館に行ってくるよ』(日外アソシエーツ、2003年)の著書もある。本書を読むと、「最寄りの図書館に出入りする「初級」から、いろいろな図書館を知り、日々読書にいそしむ「中級」、調べもののため図書館を使いこなす「上級」へ、図書館力をアップし」、やがて「市民の立場で運営に参加、仲間と共に改善提案・実践する「達人」の域に」達することのできる「実践的図書館使いこなし術」が学べるという。しかし、たんなるハウツーものではない。本書の特色は、「中級」にあるだろう。古今東西の図書館、公立図書館から特定の本を集めた私立図書館、内外の小説に登場する図書館まで紹介してある。

 なにか欠けていると思ったら、大学付属図書館がない。今日、国公私立を問わず、市民に開放している大学付属図書館は少なくない。たいていは、登録料(カード作成料)だけで利用できる。とすると、大学付属図書館も、本書でとりあげられた図書館と同じか。ここで考えなければならないのが、司書の問題だろう。本書でも、「一九九九年現在、全国で大学短大を併せて一九四校が司書養成の課程を持っている」「資格を取得した人の数は年間一万人以上に上るが、実際に図書館に就職した人の数は七四校で二一〇人である」「通常、国家資格にはつきものの試験がともなわない」などと、司書のことがほかの本から引用して書いてある。日本では、司書の資格は容易に取得できるが、職に就いている人は少ない。それにたいして、欧米では図書館学の学士号や修士号がないと、図書館員とはよばれないことが多い。たとえば、アメリカではほとんどの図書館員が、図書館情報学などの修士号をもっている。われわれ研究者の専門的な問いにたいしても、手紙やメールで答えてくれるので、ほんとうにありがたい。

 本書でとりあげられたいろいろな問題も、多くは図書館学の専門家がいると解決できるものであって、利用者の「実践的図書館使いこなし術」は必要ない。本書が存在すること自体が、日本の文化的貧困さを証明しているとも言える。本書の副題は、「憩いの場を拡げ、学びを深めるために」である。これが、著者の考える図書館の存在意義だろう。しかし、私立図書館はともかく、公立図書館はこれだけではすまないだろう。社会に基本的情報を提供するという公共性が、もっとも重視されるはずである。とは言っても、公立図書館でも県立図書館と市町村立図書館分室では、その目的も利用者のニーズも違うだろう。大学付属図書館は専門性が問われることになり、一般利用者もそれを心得て利用し、受験生が自習室として使うことは遠慮すべきだ。そのようなそれぞれの公共性、専門性にかかわることができる図書館員を配置しておくことが、まず必要であって、そういう図書館員が本を選択・収集、配架して、はじめて利用者の要求・要望に応える体制を整えることができる。

 そうすると、本書の「初級」「中級」「上級」「達人」は、もっと違ったことになる。たとえば大学付属図書館では、人文科学系の「初級」は差詰めレファレンス・コーナーの存在と自分の専攻分野の図書の配架場所を把握し、利用することだろう。全学共通科目の学習ために利用できるようになることも、忘れてはいけない。「中級」は、自分の大学付属図書館を使いこなし、専門科目のレポートが作成できることだ。「上級」になると、自分の大学付属図書館の長所短所を理解し、他大学の図書館や国会図書館、さらには国内の専門文書館が使えるようになることだろう。この「上級」資格がとれれば、立派な卒業論文が書けるはずである。

 最初に戻って、図書館力は著作権をもつ者にとっての敵か味方かであるが、味方になると考えたい。図書館力を身につけて、読書力と調査力がつけば、さらにそれらの力を高めようとして、本を買うようになるはずである。本がいつも身近にあり、書き込みをしたりすると、理解力がまるで違うことがわかる。そして、本を買うことによって、本にたいする目利きができるようになる。下手な本を買い、読むことは、お金と時間の無駄だからである。その「達人」の領域に達するには、失敗して本を買うという「授業料」も必要となる。

 ところで、専門性が強くなり特定の本となると、それほど多くの読者はいない。大学付属図書館の所蔵図書で、見覚えのある字で書き込みがあったりすると、それまで尊敬していた先生や先輩に大いに失望することになる。図書館の本に書き込みをすることは、マナー以上にその人の人間性を問われることになる。「使いこなし術」以前の問題である。

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