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2006年01月31日

『臨床の知とは何か』中村雄二郎(岩波新書)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「臨床」ということばを、『広辞苑』(第五版、1998年)で引くと「病床に臨むこと」とあり、「【臨床医学】基礎医学に対して、病人を実地に診察・治療する医学」と続いている。12月27日アップのこの書評ブログで述べたとおり、近年この「臨床」ということばが、「情報」「環境」「地域」などのキーワードとともに、近代科学の上に付くようになった。医学に端を発した「臨床」ということばが、なぜ医学以外にも使われるようになったのか、その源を知りたくて本書を開いた。

 著者、中村雄二郎が「臨床の知」ということを言い出したのは、1983年のことだという。著者を「その提唱へと」「促したのは、近代の学問や科学があまりに<機械論>モデルに囚われているのを痛感するようになったことであり、また、近代の学問や科学そのものが脱皮しようとして、在来捨象されてきた場や相互作用などを取り込もうとする動きが見られるようになった」からである。そして、「人類の運命を大きく変えた人間の所産はほかに例がない」ほど影響力のあった近代科学が、「あまりにつよい説得力をもち、この二、三百年来文句なしに人間の役に立ってきたために、私たち人間は逆に、ほとんどそれを通さずに<現実>を見ることができなくな」り、「文明の危機、地球の危機」をもたらしているという。

 「臨床の知の考え方が批判の対象とするのは、なんといっても近代的な<科学の知>」であり、著者は「科学の知が、達成されるに応じてどのような点で不都合になったか、を明らかに」していく。科学の知は「(1)普遍主義、(2)論理主義、(3)客観主義」の三つの構成原理からなっており、それらに対応して「臨床の知」は著者が「(1)コスモロジー、(2)シンボリズム、(3)パフォーマンス」とよぶ構成原理からなっている。そして、「科学の知は、抽象的な普遍性によって、分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化するが、それに対して、臨床の知は、個々の場合や場所を重視して深層の現実にかかわり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読み取り、捉える働きをする、と」まとめている。

 最後に著者は、脳死や臓器移植などの医学的臨床の問題をとりあげ、具体的に「臨床の知」の有効性を語り、「あとがき」で本書は「医学的な臨床に限らず、もっと広い範囲で現代の新しい知のあり方を探り、新しい知のモデルの構想をめざしたものである」と結んでいる。

 同じく医学関係者である養老孟司も『毒にも薬にもなる話』(中公文庫、2000年)で、臨床諸学について語っている。初出は1991~93年だから、本書の初版と同じ時期だ。養老は、「「臨床学」は、私の造語である。「人間の考えることは、いずれにせよ脳の機能である」。そういう観点から諸学を見れば、学問はどう見えるのか。この作業を一般化して、臨床学と呼ぼう」と書き出して、「臨床時間学、臨床歴史学、臨床経済学、臨床哲学、臨床生物学的歴史学、臨床中国学、臨床歴史学的実在学、臨床政治学」について論じている。

 どうもこのふたりが考えている「臨床」の意味は、違うようだ。今日、人文・社会科学で考えられている「臨床」は、本書の著者の考えに近い。著者は、「序文」で「文化人類学と比較行動学という二つの領域と関係づけて、<フィールドワークの知>と名づけてもいいのである」とも言っている。フィールドワークは、「臨地研究」とも訳される。理論から入っていく演繹法より、まず現場を見てから考察する臨床・臨地的帰納法の手法が、重視されるようになってきていることは理解できる。しかし、元祖の臨床医学と基礎医学のバランスがとれて、患者にたいして有効な診察・治療ができるように、臨床学(臨床人間学)も基礎諸科学とのバランスのなかで成り立つ学問であろう。たとえば、わたしの専門とする歴史学では、従来の歴史学を「基礎歴史学」とよぶなら、「基礎歴史学」の充分な知識のうえに「臨床歴史学」という新しい学問を考える必要がある。いっぽう、「基礎歴史学」は「臨床歴史学」を意識し、理解したうえで研究をすすめる必要がある。そうでないと、従来の歴史学は、学問として無用視されることになる。

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