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2005年12月27日

『体験と経験のフィールドワーク』宮内洋(北大路書房)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 文献史料に乏しく、あっても研究対象を主体的に語っているとは限らない、海域東南アジアの民族史を専門にしているわたしにとって、フィールドワークは文献史料を補うだけでなく、まったく別次元の歴史観を教えてくれる、もうひとつの「史料」収集手法である。しかし、生態系の観察だけでなく、ときには価値観も考え方もまったく違う人びとと真っ正面から向き合うこともあり、それがトラブルの原因になることがある。外国での調査では、その土地の人びとや社会的状況を充分にわきまえている、良き助言者を見つけることが第一の仕事になる。このことを怠ると、フィリピン南部ミンダナオのような紛争地域の調査では、文字通り命取りになる。わたしのように文献史学に逃げる術をもっている者はまだいいが、臨地研究(フィールドワーク)を中心に調査・研究をおこなっている地域研究者は、どのようにしてこの問題に対処しているのだろうか、あまり知らない。すくなくとも、文章になって公表されたものは、あまりお目にかからない。

 著者、宮内洋は臨床発達心理士である。近年、従来の研究分野に「臨床」という文字を加えたものが、目につくようになってきた。臨床医学に加えて、臨床工学、臨床心理学、臨床社会学、臨床哲学、臨床人類学、臨床政治学に、臨床経済学と・・・。これらすべてを統合すると、臨床人間学になるという。かつては、「客観的・根源的立場」を基本として、調査対象者と一定の距離をおいて観察するのが、調査方法の主流であった。それが、いまや観察者として参加する参与観察から、「主観的・操作的立場」で積極的に調査対象者のなかに入って、社会の「病根」を治療するための提言をするようになっている。専門知識をいかしての提言は大いに意味があるが、それがうまくいかなったときには調査として取り返しのつかない致命傷になるだけでなく、調査対象者に多大の迷惑をかけることになる。調査がうまくいったとしても、研究者が作為的に結果を導き出したという非難を浴びることも、容易に想像される。「臨床」という新たな学問の試みには、まだまだたくさんの問題があるようだ。

 著者は、その数々の問題にすでにぶつかり、本書でその経験を愚直に語っている。本書は、「私は、三つの異なる修士論文を書くという体験をしている」からはじまる。普通ひとつで、たまにふたつという人は知っているが、三つははじめて聞いた。このことは、フィールドワークの成果が、すんなり論文として発表できない難しい問題を孕んでいることを物語っている。このような「貴重な」体験を最初にした著者は、その後も「社会調査」「フィールドワーク」で、いろいろな疑問に直面する。たとえば、調査対象者を「どのように呼べば良いのだろうか?」「もしフィールドワーカーが、フィールドワークで生じる人間関係において、恋愛の当事者になった場合はどうすればいいのだろうか」などが、第二章と第三章でとりあげられる。第四章では、自ら補助教員として教育活動の一端を担いながら、小型ビデオカメラをまわし、「録音・録画機器を用いた」「幼児同士の「トラブル」に見る説明の妥当性について」考える。繰り返し見ることができるために、通常では気づかないことに気づいてしまったのである。そして、最後の第五章「フィールドワーカーと時間」では、「フィールドワーカーとしての寿命」を考える。その答えとして、著者は「フィールドワークにおいて様々な体験や経験を経ることによって文脈を理解する力を高めながら、一方で、初めてのフィールドワークの際に感じた恐れ、脅威、敬意などの感情を忘れることなく保持し続けることが、フィールドワーカーとしての「寿命」を延ばすことに繋がるように思える」と記している。

 「臨床」という手法をとることは、調査者自身が調査対象の一部になるということである。そうなると、「研究者にプライバシーなどない」という「驚くべき主張」にもなる。著者は、それには賛成しないが、「社会調査やフィールドワーク当時の人間関係の痕跡を、どこかに忍ばせておくことは、読者の読解のためにも必要なのではないだろうか」と述べている。本書を読んでいると、「臨床」手法が、考古学の発掘調査と同じく、二度と同じ状況で調査できない「破壊活動」であると感じた。「臨床」は人間関係であるだけに、考古学の発掘調査よりも怖いとも感じた。

 個々人の関係が重視される時代になって、「臨床」という研究手法が有効になったことはよくわかる。しかし、その危険性も充分に考える必要があるだろう。研究手法の確立のためには、本書のような具体的で、愚直な問いかけが必要だと感じた。失敗を自分だけの秘密にしないで、公表する勇気も必要だ。

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2005年12月20日

『刀狩り-武器を封印した民衆』藤木久志(岩波新書)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 著者、藤木久志は、小説や映画・テレビの時代劇に出てくる「丸腰の民衆像」を虚像だという。歴史教科書で常識と考えられてきたことが、なぜ否定されるのだろうか。本書では、豊臣秀吉の刀狩令をまず中世に遡って考察し、江戸時代への影響、さらに近代の廃刀令、戦後のマッカーサーの「刀狩り」まで視野を広げて分析している。そして、日本の「刀狩り」は、徹底した武装解除ではなく、武器の携帯・所持を限定しただけの武器封印の歴史であったと結論している。

 通説に果敢に挑み、ひとつひとつ根拠となる史料をあげて、「刀狩り」の実態を明らかにしていく手法に、実証的文献史学の着実さ・確実さをみた思いがした。しかし、学問としての歴史学を基本に考察・分析をすると、もっと異なった歴史研究の奥深さが浮かびあがってくる。日本近世史では、近年「鎖国」も「なかった」という説が出ている。わたしは、18世紀初めの享保年間に、日生(岡山県)からルソン(フィリピン)やアユタヤ(タイ)に千石船を仕立てて渡航している者がいることや、瀬戸内周辺にキリスト教徒がいたことを示すゼウス像や十字の入った墓があることから、鎖国ばかりではなく、キリスト教禁令も徹底しておこなわれなかったとを感じている。このような通説とは違う事実を、歴史学としてどう理解するのかが、歴史学のいまの、そして将来への必要性を物語るものだと考えている。

 近代からポストモダンへの転換点をどこに置くかは、どこに焦点を置くかで一定しないが、いまが時代の転換点であることは、大方の研究者が認めることだろう。歴史学も無縁ではなく、かつての歴史研究の矛盾と限界が明らかにされるのも、新しい時代の歴史研究への模索からだろう。まず、近代は国民国家を中心とした制度史が発達し、事実として「刀狩り」「鎖国」「キリスト教禁制」にかんする条令があることから、それが史実として理解されてきた。このことは、制度史として正しい。ところが、ポストモダンでは、施政者の視点ではなく民衆の視点が重視され、その制度が民衆の生活にどのような影響があったかが考察されるようになってきた。つまり、社会史的視点で歴史が語られだしたのである。すると、民衆への影響は一部であったり、限定的であったりしたことが、史料からわかってきた。これらの「発見」から、制度史で常識であった「事実」が見直されるようになったのである。同じ事実であっても、その事実を語る時代の価値観が違えば、歴史の語りは当然変わってくる。歴史学が、語られる時代の認識を抜きにしてはじまらないのは、そのためである。したがって、まず時代ごとの歴史認識を知るための史学史の知識が必要で、あわせていまという時代認識も必要なのである。日本近世史の見直しは、制度史から社会史へと、歴史の語りの重点が変わったためであると考えることができる。

 では、「刀狩り」などはなかったといえるのだろうか。つぎに時代区分・時代認識の理解が必要となってくる。これまで「刀狩令」が徹底して施行されたと勘違いしたのは、近代の視点でみていたからである。近代では、司法制度や警察制度が発達して、法律が国民に平等に影響を与えていた。しかし、近世では日本全土で均一に施行されていたわけではなかった。とくに海域世界のような流動性の激しい地域では徹底せず、塩飽諸島のように豊臣・徳川から自治を許されていたところもあった。このように近世(初期近代)は、近代にない斑(ムラ)があり、徹底さに欠ける時代であったということができる。その特性を考えると、制度の不備や不徹底さを指摘しても、制度史という観点と近世という時代を考えると、否定することはできないということになる。このように「あった」「なかった」の論争には、歴史学のしっかりした基本が必要である。

 ところで、「自律した武器封印論」としての民衆の自立性を高く評価した著者も、「いま、その不測の逸脱に身構える時代になっている」と指摘している。民衆の「武器封印」は、国家権力が生命と財産の安全を守ってくれるという了解があって、はじめて実行できるものである。それが保障されないのであれば、民衆は自分自身と家族を守るために、武器を持たざるをえなくなる。ましてや、未成年者が拉致されたり、殺害されるようでは、日本が長年守ってきた「武器封印」が継続できなくなってしまう。民衆の「武器封印」を解く前に、なんとかしなければ・・・。

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2005年12月13日

『比較の亡霊-ナショナリズム・東南アジア・世界』ベネディクト・アンダーソン(作品社)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 東南アジア史研究が、世界に誇れる研究がすくなくともふたつある。ひとつが、アンソニー・リード『商業の時代』で、西洋史でいう「大航海時代」や日本史でいう「朱印船貿易」を世界史の枠組みで考察し、「大航海時代」も「朱印船貿易」も香料貿易など東南アジアを中心に発展した「商業の時代(1450-1680年)」に遅れて参入した一部にすぎないことを明らかにした(日本語訳の『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997-2002年、2巻)は、本書の内容を台無しにした誤訳タイトル)。もうひとつが、本書の著者であるベネディクト・アンダーソン著の『想像の共同体-ナショナリズムの起源と流行』(増補、NTT出版、1997年)である。インドネシアなどを事例として考察した「想像の共同体」としての国民国家の成立過程は、東南アジアのナショナリズム研究だけでなく、世界各国の研究モデルになり、多くの読者を得た。しかし、この近代史研究の「新古典」も、グローバリゼーションが進行するポストモダンの時代にあっては、もはや分析枠組みとして参考にならないという声も聞かれるようになった。その著者が、初版の発行された1983年以降に書いた論文を集めたのが、本書である。著者は、新たな時代に向かって、研究をどのように進化・発展させたのだろうか。

 タイトルの「比較」自体が、近代的な考えである。欧米を中心に発展した近代は、画一化した価値観で合理的にものごとを考える傾向があった。だから、比較することにも意味があった。しかし、社会にはいろいろな価値観があり、それぞれの歴史を踏まえた文化を尊重する多文化社会の到来とともに、単純に比較すること自体が時代遅れになってしまった。その比較の「亡霊」が、今日でも現れるという。期待をもって、読みはじめた。

 本書では、インドネシア、フィリピン、タイの3ヶ国を基本とし、この3ヶ国同士の比較だけでなく、ときに世界のなかで、東南アジアのなかで、そして旧植民地宗主国やアメリカとの比較を通して、3ヶ国のそれぞれの特色が明らかになっていった。比較は、1ヶ国の自分自身の研究を基盤に、ほかの国を考察対象としたほかの研究者の成果を援用するのが通常である。本書は、著者自身がそれぞれオリジナルな資料を基に考察・分析した成果を使っている。それだけでも、驚異である。いったい、いくつの言葉をマスターすればいいのか、考えただけでもゾッとする。そして、多くの章でそれぞれの歴史や文化を踏まえた近現代史や時事問題を扱っているが、それぞれの国にたいする批判がまことに手厳しい。しかし、著者がもっとも批判しているのは、これらの国にたいするアメリカの政策かもしれない。長年入国を禁止されていたインドネシアで、1998年のスハルト政権崩壊後に大学生に向かって挑発的な演説をしたのも、著者の愛情の表れだろう。

 本書は、「第一部 ナショナリズムの長い弧」の「三つの「理論的」論文」で、「ナショナリズム一般の起源、性質、将来という問題を深くふみこんで探ろうとしている」以外は、好き勝手に言いたいことを言っているだけのように思える。博識で、だれにも真似のできない「比較」が、著者を冗舌にさせたようだ。その比較のなかで、おもしろいのは、「どうして資本主義国家の最強国」アメリカの植民地であったフィリピンが、「東南アジアの共産主義ブロック以外の独立国のなかで最も貧しい国になったのだろうか」、フィリピン革命時(1896-1902年)の「あの英雄たちに比肩するような人物が二度と現れないのだろうか」というあたりや、また「植民地化されなかったタイが、アメリカ領フィリピンやオランダ領東インドよりずっとあとになって選挙を実施しはじめたにもかかわらず、西洋式のブルジョワ民主政治に最も近いものを今日保有しているというのは、すくなくとも表面的には皮肉なことである」というあたりだろう。

 「プチブル」という表現も、何度か出てきた。そのことばを忘れたふりをしている世代や、まったく知らず意識しない世代へのメッセージだろうか。この忘れ去られようとしていることばは、東南アジアでも、世界でも、そして日本でも、貧富の差が拡大している現実を思い出させてくれるキーワードになるかもしれない。ちなみに、「プチブル」とは「プチ・ブルジョア」の略で、『広辞苑』(岩波書店)には「中産階級に属する者。ブルジョワジーとプロレタリアートの中間に位する階層。小市民」とある。

 まだまだ皮肉たっぷりに、だが愛情をこめて辛辣な東南アジア論を展開していくのだろう。楽しみにしたい。

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2005年12月06日

『1冊でわかる グローバリゼーション』マンフレッド・B・スティーガー(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 本書評ブログでは、原則としてひとりの著者の単行本を取りあげ、複数の執筆者からなる論文集は取りあげないことにしている。その理由は、具体的な個別テーマを解明することを目的とした論文とは違い、単著単行本では各章で取りあげた個別の問題とは次元の異なるスケールの大きなテーマを扱っており、勉強になることが多いからである。たとえ、単著単行本であっても、本全体の構想がよくわかる序章や終章のない論文の寄せ集めは、たいして勉強にならない。時間をかけて本を読むからには、たんなる事実を知るだけでなく、自分がもっていない違う次元の話やスケールの大きな話から学びたい、ブレイクスルーのきっかけをつかみたい、と思っている。

 本書で扱われているグローバリゼーションは、ひとりの著者によって書くことができるような生やさしいものではない。グローバリゼーションという「概念は千差万別で」、「世界規模での変容を多次元的に捉え、多面的に描き出す」ことが必要だからである。その手ごわい」グローバリゼーションという課題を、著者、スティーガーはひとりで執筆した。短所は、個々の章で扱われたテーマは専門家の眼からすれば不充分な点があることだろう。長所は、ひとりの著者の目を通した一貫した論調で、全体を俯瞰することができることだ。わたしは、その長所のほうを評価したい。方向性が定まっていた近代とは違い、いまはスペシャリストで且つジェネラリストであることが求められている。つまり、自分の専門性を相対化する眼が必要なのである。歴史学においても、かつて「世界史」は二流の研究者か学校教育に携わる歴史の先生が関心をもつものと思われていたことがあった。しかし、いまや「専門バカ」は、学際性や学融合が当たり前になった時代のたんなる「オタク」にすぎなくなってしまう。だからこそ、本書が千差万別の概念を複数の執筆者によるのではなく、ひとりの執筆者によって書かれたことを、まず評価したい。そのことは、著者も充分認識していて、「そうした包括的な知的営為はおそらく、あまりにも長年にわたってスペシャリストに比べてその地位が見劣るとされてきた、学問的ジェネラリストの復活を導くことになるだろう」と述べている。

 本書は、まず「概念をめぐる論争」を整理し、つぎに歴史的にみて「新しい現象」であるのかを検証した後で、個別の次元である「経済」「政治」「文化」「イデオロギー」からグローバリゼーションという複雑な問題を考えている。そして、「グローバリズムに対する異議」を理解して、「未来を評価する」ことで終わっている。たしかに、この構成で「1冊でわかる」ように思われる。しかし、そんな甘いものではないことは、本書を執筆した著者がいちばんよくわかっている。だから、著者は、「今日のグローバリゼーション研究者らが直面しているもっとも困難な課題とは、私たちのポストモダン世界において強まりつつある流動性と相互依存性とを正当に扱うようなやり方で、多種多様な知の脈略をつなぎ合わせ、総合することである」と述べている。つまり、訳者解題のタイトルである「グローバリゼーションへの多次元的アプローチ」が必要なのである。

 本書の参考文献は、原著のものと「日本の読者のために」訳者のひとりが精選したもののふたつがある。後者には、原著で取りあげられなかった「ジェンダー、子ども」についても、簡単な解題とともに紹介されている。驚いたのは、前者の原著者が取りあげた本の多くが、日本語に翻訳されていることである。このことは、このグローバリゼーションが日本にも大きな影響を及ぼし、世界的な動きを学問的にもいち早くつかもうとしていることの表れだろう。その意味でも、本書で基礎的なことを学習し、応用力をつける必要がある。

 その点で気になることがある。学生の学力低下の問題が指摘されて久しいが、当の学生自身がそのことの意味を充分に理解していないことである。グローバリゼーションのなかでは、たとえ日本経済が活況を呈していても、日本の若者が雇用されるとは限らない。いまや、日本企業は直接・間接的に多国籍化し、コスト削減目標もあって、低賃金で優秀な人材を世界中に求めている。日本のニートやフリーターの問題の一端は、若者自身の世界認識の不足と能力不足にあることを肝に銘じる必要があるだろう。日本の教育も、グローバリゼーションと無縁ではない。そして、その失敗はまずその教育を受けた者に顕著な影響が出るが、とくに大学教育に携わっている者がそのことをよく認識していて、このグローバリゼーションに対応できる人材を輩出しようとしているのだろうか。日本の教育の質が、いま問われている。

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