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2005年11月29日

『地図がつくったタイ−国民国家誕生の歴史』トンチャイ・ウィニッチャクン著(明石書店)

地図がつくったタイ−国民国家誕生の歴史 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 ここに、もうひとつの優れた「ナショナル・ヒストリー」がある。そして、本書も、優れた訳者(石井米雄)による、一般読者の読みやすさと学問的議論に耐える専門性を兼ね備えた、名訳本であるといえる。

 タイの名門タマサート大学正門を入って右手に、大学創設以来の歴史をたどった一連の記念碑がある。最後の7番目にあるのが、1976年の記念碑である。その記念碑の前を、著者トンチャイと同年齢と思われる人が、手を合わせて通り過ぎていった。本書の謝辞は、つぎのことばではじまっている。「本書は、一九七六年十月六日水曜日の早朝、バンコクのタマサート大学で起こった虐殺事件によって生命を奪われ、肉体的、精神的に傷つけられた友人たち、苦難の人生を送ることになった何千人という人たちの励ましによって書かれたものであり、これをかれらの前に捧げるものである。しかしかれらの犠牲の大きさにくらべれば、筆者のはらった努力は微々たるものに過ぎない」。タイ人の多くは、この「血の水曜日」の多くの若者の尊い犠牲のうえに、今日のタイの民主化・発展があると信じている。当時、タマサート大学の学生自治会副委員長であった著者は、2年間の獄中生活を経て、10年後の1988年にシドニー大学から博士号を取得した。

 著者は、本書の目的を「国民という観念が確認されてゆくプロセスの歴史であり、タイ国民という観念の存在を構成するものは何か、そのアイデンティティが、どのようにして創出されていったかを歴史的にたどることにある」と述べている。なにが問題なのか、日本人にはわかりにくいかもしれない。現在の日本国の領土に多くの日本民族が住んでいる場合と異なり、タイの歴史を語る場合、そう単純にはいかないものがある。なぜなら、タイ民族の歴史を語るのであれば、タイ民族が南下して現在のタイ王国の領土に「くに」を形成したといわれる13世紀以降のことになってしまうからである。それ以前に、現在のタイ王国の領土には、モン人やクメール人、マレー人などが王国を形成し、今日でもその優れた文化遺跡を見ることができる。その優れた文化遺産の継承者が現在のタイであり、バンコクの王宮にアンコール・ワットの模型があるのも、バンコクから西にバスで1時間ほどのところにあるナコーン・パトム(モン人の王国ドヴァラヴァティの都)のタイ最大の仏塔を現王朝が大切にしているのも、その表れである。著者が第一に「国民という観念」を問題にしたのは、このような背景による。

 現在のバンコク王朝は外交権を得て、イギリスと国境線を確定していく過程で、当時シャムといっていたタイ王国の主権を確立していく。最初、「英国人の考えた「国境」と、シャム人の頭にあった「くにざかい」とが、似て非なるものだった」ことに、シャムの宮廷は気づかなかった。「十九世紀の最後の一〇年以前のシャムは「古斧」の形をしていなかった。それは、いくつもの権力単位がとぎれとぎれに布をつぎはぎしたように並び、それぞれ異なった首長をいただいた人々の混住する空間だった」。このことは、東南アジア史研究でよく知られているマンダラ国家論や銀河系的国家論を念頭におけば、よくわかる。そして、バンコク王朝は、地方の独自性(複合的主権)を残しながら、チェンマイをはじめとする地方の首長を平和裡にバンコク王朝に取りこんでいくことによって、現在のタイ王国を成立させ、地図によってその領土を可視化していった。そして、その地図がつくった国民国家である現在のタイ王国の領土に住む住民が、「タイ人らしさ」を考えることによって「タイ人」が出現していったのである。

 現在、地図上、形式的に成立したタイ王国の領土から複合的な主権が姿を消し、実質的な中央集権的近代国民国家が出現しようとしている。しかし、それはタイだけでできることではない。周辺のミャンマー、カンボジア、ラオスとの関係のなかで形成されていくものだろう。すでに、経済的にはバーツが通用するタイ王国の領土を越えた「大タイ」圏が出現しつつあるようにも見える。東南アジア大陸部は、複数の民族が盛衰を繰り返しながら、現在の国民国家が形成されている。それだけに、2003年にタイの有名女優が「アンコール・ワットはタイのもの」というカンボジアへの侮辱発言をしたとの未確認情報から、在カンボジアのタイ大使館が襲撃される事件が発生するなど、微妙な問題が存在する。タイのナショナリズム研究も、難しい問題を孕んでいる。

 本書は、『想像の共同体−ナショナリズムの起源と流行』(増補、NTT出版、1997年)の著者ベネディクト・アンダーソンが高く評価し、日本でも第16回アジア・太平洋賞大賞を受賞した。

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