« 『ナショナリズムと宗教-現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』中島岳志(春風社) | メイン | 『キリスト受難詩と革命-1840~1910年のフィリピン民衆運動』レイナルド・C.イレート(法政大学出版局) »

2005年11月15日

『歴史を学ぶということ』入江昭(講談社現代新書)

歴史を学ぶというこ
と →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 「授業で使える」、まずそう思った。本書は、歴史学のテキストとして書かれたものではないだろう。しかし、著者、入江昭の個人の体験から歴史学の基本を学ぶことのできる「第1部 歴史と出会う」、著者の業績から見た史学史である「第2部 歴史研究の軌跡」、そして、これまでの経験からこれからを考える「第3部 過去と現在とのつながり」は、わたしが授業で学生に伝えたいものを、もののみごとに簡潔に記述していた。

 第1部では、まず10歳で敗戦を経験した著者は、「「史実」というものは戦争の結果如何で書き換えられうるものだ、と身をもって実感した」。そして、「国家権力や政治的思惑によって歴史が書き換えられうるからこそ、歴史家はあくまでも自分たちの自由な意思と努力によって史実を追求しなければならない」という「信条の原点」をもった。その8年後にアメリカに留学して、歴史を学ぶことの基本を会得する。それは、「過去の出来事を型どおりに整理することではなく、過去と自分との対話を重ねることであり、その対話の過程で、他人の書いたものを決して鵜呑みにせず、自分でできるかぎり資料を読んで、自分の言葉で理解するように心がけること」だった。

 大学院に進学して「死に物狂いで勉強」し、「歴史を学ぶということは、歴史学の動向を理解することでもある。極端にいえば、ヒストリオグラフィー(歴史研究、解釈)なくしてヒストリー(歴史)はありえない」、「歴史とは過去と現在との対話であるといわれるが、歴史家にとっては、歴史とは過去の位置づけである。そして常に新しい視角を追求しようとしている点で、過去と将来との対話であるともいえる」ことを、少しずつ把握できるようになり、歴史学の重要性、役割についても自覚するようになっていった。

 研究者として独り立ちした著者は、その後40代前半で米国外交史学会会長、50代前半でアメリカ歴史学会会長の要職を歴任することになった。それぞれの退任挨拶では、1978年に「文化的関係としての国際関係」、88年に「歴史学の国際化」についてスピーチし、早くも文化的研究の重要性、一国中心主義的な歴史観の排斥を唱えた。まさに、これらのスピーチで「過去と将来との対話」のための先見性をもった優れた歴史研究者になったことを証明した、ということができるだろう。

 第2部では、著作活動を通じて、戦後のそれぞれの時代に、どういう研究が必要であったかを述べている。研究の一貫した見方は、『二十世紀の戦争と平和』(東京大学出版会、1986年)の執筆を通じて、「文化交流の歴史的な遺産にもっと関心が向けられていいのではないか、という気持ちが強く」なり、『文化的国際主義と世界秩序』(日本語版は『権力政治を超えて』岩波書店、1998年)を書く必要を感じたように、「性善説」に則ったもので、人は平和のために知恵を働かせることができる、というものであった。

 第3部では、より現実的な問題にたいしての歴史研究の役割を問うている。学生に「歴史を学ぶ意義は?」と問うと、「繰り返す過去から学ぶ」という回答が多い。そんな単純なものではないことを、著者のつぎのことばから学ぶことができる。「現在と過去とがどうつながっているのか、現代の世界に起こりつつある事象のうち、どれが一時的な現象で、どれが永続的なのかを見分けるのは容易ではない。ただ、歴史に照らし合わせて、何らかの推察を提供することはできるのではないか。過去から続いている流れが、これからも同じ方向に行くのか、それとも逆流しはじめるのか、過去のどの部分が現代への「教訓」となりうるのか。歴史的な視野を通じて明らかにしうることは多い。そのような問題にかんして、ただ評論家にまかせるのではなく、歴史家も専門知識にもとづいた見方を提供する責任があるのではなかろうか」と問いかけている。そして、歴史認識の問題では、「国のアイデンティティが歴史や伝統にもとづくものである」という一国中心的な歴史観を認めつつ、「現代の世界においてあまり役に立つものではなく、他国の歴史との関連においてこそはじめて意味を持ってくるのだ、という考えも尊重されなければならない」と主張し、「学問の諸分野における国際化が着々と進行しているときに、歴史観だけは変わりえないとするのは、きわめて悲観的、時代錯誤的な宿命論であろう。各国においてそのような宿命論が幅をきかせているかぎり、歴史認識についての歩み寄りは期待できない」と結論している。結局は、「いわゆる歴史認識問題なるものの根底には、現代世界をどう理解するのかという問題が存在している」というのである。そして、現代社会を理解するためには、グローバリゼーションが現代史の根本的特徴となった1970年代に、歴史が新しい段階に入ったことを把握することが重要で、「9・11以後」という枠組みではないと力説している。

 最後に著者は、「歴史家としても、過去を共有するのみならず、将来をも共有するように努力すべきだ」と結んでいる。

 本書を読んで、ひとつ心配になったのは、本書で述べていることは、近現代史を学ぶ者にとって有効であっても、前近代史を学ぶ者には理解してもらえないのでは、ということだった。その危惧は、巻末の「歴史を学ぶための本」の一覧を見て、少し解消された。著者は、学問としての歴史学と、世界史認識を充分にもったうえで、近現代史を相対化していることがわかったからである。著者自身が苦労しただけに、学生にとって厳しいことをいっているかもしれない。しかし、それは自身が身をもって経験して得たものだけに、真実味がある。そして、一見楽観的にみえる著者の未来志向は、いつまでたっても色褪せない「歴史を学ぶということ」の意味を教えてくれる。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/289