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2005年11月08日

『ナショナリズムと宗教-現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』中島岳志(春風社)

ナショナリズムと宗教-現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動 →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 ここに新しい時代の研究がある、そう感じた。著者、中島岳志の専門は、「南アジア地域研究」の枠にはおさまらないだろう。著者の新しさは、なによりも生身の人間と社会が大好きで、にもかかわらずその世界に埋没することなく、客観視することに努めていることだろう。途上国大好き人間のなかには、圧倒的な経済力を背景としていることを忘れ、「なにかしてあげましょう」という善意の安売りや「かわいそう」という同情の目で見て、対等な人間関係を失い、優越感に浸っていることにも気づかず、はまってリピーターになっている者がいる。また、研究者のなかには、生身に触れることを恐れ、人間と社会を研究対象としてしか見ていない者がいる。両者のバランスをとるのはほんとうに難しく、そのことに気づいても、どちらかに偏っていることを認識して、割り切って自分の「スタンス」とするのがせいぜいだろう。わたしも、そんなひとりでしょう。

 著者は、「「文字化された対象」のみを研究の俎上に載せ」、「表舞台に現れる政治権力闘争やアイデンティティ・ポリティクスの側面のみが強調され、末端の民衆の生活戦略や宗教復興的心性などの主体性は完全に等閑視されてきた」先行研究を乗り越えるために、「ヒンドゥー・ナショナリズム運動が展開されている具体的な活動の場に注目し、末端活動員や民衆の主体をとり上げ」、その「多様な主体の多様な欲求が複合的に重なり合いながら運動を展開している」実態を描き出そうとしている。

 本書は、考察の対象とする「現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムを捉えるための理論的枠組みを提示する」ことからはじめ、つぎに「ヒンドゥー・ナショナリズムの歩みを近現代インド史のなかに位置づけることを試みる」。この多少「重く、鈍い」2章の後、著者のフィールドワークの成果が存分に活かされた「軽快な」4章がつづく。多様な「インド」を「ヒンドゥーであること」で一元化を図る試みも、現実のなかではいかに難しいかが、「末端の民衆の生活戦略や宗教復興的心性などの主体性」を具体的に語ることによって見えてくる。そして、「過激なヒンドゥー・ナショナリスト」の姿は、メディアという媒体との相互関係によって生成され、固定化されていっていることを指摘する。

 読後感は、まずインドの「奥深さ、巨大さ、複雑さ」に圧倒されたことだ。著者は、それに怖じけず、怯まず、真っ正面から向きあっている。それでも、なにか物足りなさを感じたのは、最初の「重く、鈍い」2章と後の「軽快な」4章が、最後で充分に結びつかなかったことだろうか。あるいは、「自己の為すべき役割り(ダルマ)を果たす」という思いが、いま経済発展で世界の注目を集めるインドで、これからも有効に機能するのだろうか、わたし自身が不安に思っているからなのだろうか。楽観的になれないものが残った。  もうひとつ疑問に思ったのは、4月に出版されたばかりの同著者の『中村屋のボース-インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)とどういうつながりがあるのだろうか、ということだった。これがつながると、インドとはなにかが、もうすこし見えてくるような気がした。第2章の近現代史のなかの位置づけを、別の角度から見ることによって、新たな「発見」もあるだろう。

 「ときに激しく共感し大声で笑い合い、ときに激しい憤りを覚えながら、私は必死になってインドの人々と格闘してきた」という著者だけに、今後もインドの平和に貢献する執筆活動をつづけていくことだろう。あまりにも楽観的に「国際交流」する「インド好き」や机上の学問に満足している研究者に、刺激を与えるものを期待したい。

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