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2005年09月27日

『いま、この研究がおもしろい』岩波書店編集部編(岩波ジュニア新書)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 テレビや新聞の「子どもニュース」を見たり読んだりすると、ハッとさせられることがある。ものの基本がわかっていなかったからである。基本がわかり最先端がわからなければ、「子どもニュース」の解説はできないだろう。このジュニア新書についても同じことがいえる。それだけ学ぶことも多いだろうと考え、本書を開いた。

 本書でとりあげられた14人の専門家は、それぞれ自分のしていることを「おもしろい」と感じているから、本書の執筆を引き受けたのだろう。その「おもしろい」はなにに支えられているからなのだろうか。まず共通していることは、自分がいちばんになろうとしていることだろう。そして、それが自己満足に終わらず、社会的な評価を得ている。つまり、だれかの役に立っていると実感している。ということは、本書に登場した人びとは、いまの社会になにが必要かがわかっている、ということができるだろう。最先端の科学を研究している人も、平和な社会を構築しようとしている人も、地域密着の活動をしている人も、人びとの生活を豊かで楽しいものにしようとしている人も、それぞれが最善の成果があがり、人びとが喜んでくれることを考えて、日々研究に励んでいる。

 本書全体から感じたことは、まさにいまわれわれが近代から離陸しようとしているということだ。その離陸に必要な知恵・知識を求めて、「おもしろい」研究をしているのが、本書の14人ということができるだろう。さらに、この14人に共通するものはなにかを考えた。まず、根気のある人たちだということだ。近代では、ものごとを単純、合理的に考えようとした。しかし、いまや単純に理解しないでじっくり考え、行動することが必要になってきている。つまり、直感で要領がいいだけでは、通用しなくなっているということだ。つぎに、基礎力・技術力があることだ。その近代科学の基礎力・技術力をもとに、自分の専門からはみ出して、発展・応用することによって、新しいなにかを求めている。ものごとが複雑になればなるほど、基本に忠実にひとつひとつ解決し、積み上げていくことによって、新しいものがみえてくる。また、通説や常識をわきまえながら、それらにこだわらない柔軟性をもっていることも、共通するものだろう。よく世界的な大発明が偶然のものだったといわれるが、通説や常識を信じ切っている人にそのチャンスは訪れない。発想の転換ができるだけの柔軟性は、いろいろなことに興味をもつ「雑学」から生まれてくるのかもしれない。

 そして、大切なことは、「知らない」ということを知ったことが、「おもしろい」研究のスタートになっていることだ。そこから探求心が生まれ、その成果が社会貢献につながると、もう研究は止まらなくなる。しかし、「知らない」ということを知ることは容易なことではない。日々なんとなく過ごしていては、気づかないからだ。研究蓄積のある分野は、これまでの成果を学べ、その限界を知るのに重要だが、そこで留まっていては新しい研究への突破口は開けない。研究蓄積のない、あるいは乏しい分野への挑戦が必要だ。グローバル化と多元文化社会の到来とともに、地域的にも分野的にも広い視野が必要になっている。「知らない」ことを知るためには、まず継続して本を読み、日々のニュースに耳を傾けることがひとつの方法だろう。生身の人や社会に関心をもち、そのなかに入って実際に活動することも、そのきっかけになるだろう。なににでも好奇心をもち、大人が嫌になるほどひつこく訊きまくった子ども時代に戻ることも必要だろう。「知らない」という発見は、「子どもニュース」にあるかもしれない。

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2005年09月20日

『インドネシアを齧る-知識の幅をひろげる試み』加納啓良(めこん)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 わたしの研究室の机の横の書棚には、事典・辞典類が置いてある。椅子に座ったままか立てば、事典・辞典類が取り出せるようにである。歩いて書棚から取り出したり、わざわざ図書館に行って調べなければならないと、結局は調べずじまいで、そのうち忘れてしまう。本書の副題「知識の幅をひろげる試み」のためには、疑問に思ったらいつでも調べることができるように、まずかたちから入る必要がある。

 本書を読むと、著者、加納啓良の研究室や書斎が見たくなった。このどん欲な知識欲を支えている源はなになのか、覗いてみたくなった。とにかく、著者は、事典・辞典類をよくひいている。そのひき方も、半端ではない。いちばんよくひいているのは言語辞典のようだが、各種事典・統計書などをいつも小脇に抱えているような様子が浮かんでくる。しかも、情報を得ると、それをまとめて分析してしまう。
 このような習癖は、著者が専門とする経済学から得たものだろう。それを、「知識の幅をひろげる」ために、おおいに活用している。奥付の略歴には、「インドネシアを中心に東南アジアの経済・社会・歴史を研究」とあるが、本書でもインドネシアを相対化するために、ほかの東南アジア諸国の例が頻繁に出てくる。経済学だけが専門ではなく、社会や歴史にも造詣が深いこともすぐにわかる。そして、その社会や歴史の知識が、専門の経済学にいかされていることは、本書唯一の「学者らしい論考」である最後の「第35話 貿易統計から見た日本・インドネシア関係」からわかる。社会学や歴史学を専門にしていようが、あるいは言語学などのほかの分野を専門にしていようが、本書を楽しんで読むことのできるのは、著者の探求心と事実確認の手法が、ほかの学者の共感を得るからだろう。かつて、同じく東南アジア経済学を専門とする末廣昭『タイ―開発と民主主義』(岩波新書、1993年)を読んだとき、政治・経済の本でありながら、歴史の本としても楽しめた。それは、著者が自分の専門性をいかすための基本として、歴史的、社会的知識を充分にもちあわせており、周辺国・地域との比較も充分におこなっていたからだろう。本書も、インドネシアを例にしながら、もっと広がりと奥行きのある内容だった。

 東南アジアのような流動性が激しく、制度化が必ずしも有効ではない社会では、事典・辞典類、統計資料は制度化の発達した定着農耕民社会のもののように正確ではない。したがって、著者は自分自身でもっと信頼のおけるものをつくろうとしている。そして、近代科学の理論が必ずしも役に立つわけではないことを、著者は知っている。にもかかわらず、著者は、近代科学を基本にインドネシアを理解しようとしている。ひとつの分析視座から理解できないインドネシアを、合わせ技で、あるいはほかの国・地域からの比較で把握しようとしている。理屈ではなく、肌で感じることも忘れてはいない。近代をリードした国ぐにの理論ではけっして理解できないインドネシアの研究には、「雑学」が必要なことを本書は教えてくれる。

 本書を読んで考えさせられたのは、学際・学融合的分野である地域研究を専門とする「新しい」研究者に、本書のような「齧る」ものが書けるだろうか、ということだ。著者は、この「齧る」の意味を、「いろいろな角度から眺めて、多様な味わいをそのままに表現してみようと思ったにすぎない」としている。しかし、それは著者の謙遜であって、この「齧る」をできる者は、そういないだろう。著者の経済学という専門性があって、それを基盤に「齧る」ことができたと、わたしには思えた。本書を超えるようなものが地域研究者から出たとき、新たな「齧る」切り口がみえてくるだろう。

 最後に、「外島」ということばが出てきたとき、すこし首を傾げたことを申し添えておく。これまでも「インドネシア」が語られるとき、実際は「ジャワ」のことしか語られないことがままあった。著者は、けっしてジャワだけのことを語っているわけではない。それどころか、広大なる国土・多様な民族を、いかに「インドネシア」というタイトルの下に語るかに苦心している。にもかかわらず、オランダ植民地時代に使われたジャワ以外の島じまをあらわす「外島」ということばが出てくると、「ジャワ中心史観」かと思ってしまう。いまのインドネシアに、まだ「外島」ということばが通用するのか、そのあたりも知りたかった。

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2005年09月13日

『思考のフロンティア 法』(岩波書店)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 前近代から近代へ法観念が根本的に変わったのであれば、いまわたしたちは近代からどのような新たな法観念に向かっているのだろうか、ということを知りたくて本書を開いた。残念ながら、わたしの期待したものを得ることはできなかった。しかし、本書からいまわたしたちが考えなければならないことを、たくさん教わることはできた。

 本書は、第Ⅰ部で「法の根拠をめぐる理論的考察から出発して、法と暴力、法と正義、法と神話の相互に絡み合ったある起源的ないし前-起源的な場面を経由した後」、第Ⅱ部で「「市民的不服従」「歓待」「死刑」を今日最も緊急な、避けては通れない問題系として取り上げ」ている。著者、守中高明は、まず「はじめに」で、アメリカ合州国の「対テロ戦争」における拘禁政策のために、「国際法のもとで認められるはずのほとんどすべての権利を剥奪され」た人びとがいることを紹介し、本書で「法の「根拠」について、法と「暴力」についてささやかな素描を試みよう」としたと述べている。そして、今日の日本における問題点について指摘している。

 1999年に法制化された「国旗及び国歌に関する法律」は、「戦後という時間を脱色し、かつての植民地主義的帝国主義の記憶を積極的に忘却しつつ、新たな国民国家の編制へ向けて象徴の政治を再-発動させようとする意図が明らかにこめられていた」とし、「職務命令」に従わず「処分」された教職員250名は、「「市民的不服従」の実践者であり、その行動は法に反する正義を表現している」と正当化している。この法制化にたいして、天皇明仁が、「やはり、強制になるということでないことが望ましい」と応答したことは、なんとも皮肉な話だ。また、人権「後進国」である日本は、難民にたいして「「難民条約」の締結国としてあってはならない」ことをしていると指摘している。この国際化、グローバル化についていけない日本の姿は、就職、参政権など外国籍の人びとの社会的権利の大幅な制限にもみられる。そして、死刑について、アメリカや中国とともに存置している、世界的にみても少数派になった日本が、「いつ、国家主権の名において殺人の罪を犯すのをやめることができるのか」と問うている。

 著者は、第Ⅲ部「基本文献案内」を、本書の結論としてふさわしい、つぎのような言葉ではじめている。「今日を生きるあなたが、現実の世界の中で法的思考を実践する際に参照し、携え、立ち戻り、あるいは批判的に乗り越えるための本、法の主体たるあなたがみずからを養うための本である」と。そして、「法はあらゆる分野に関わっており、あらゆるジャンル・形式・語りを要請するのだ。だから、ここから先はあなたの手にゆだねよう。法の姿を捉えるために、おのずと多数化しながら伸びてゆくあなた自身の手に」で終わっている。法は、権力者や国家から離れて、個人のものになろうとしている。それが、近代からの「脱構築」なのだろう。

 本書がわたしの当初の期待に応えてくれなかったのは、歴史性が感じられなかったからである。「思考のフロンティア」シリーズの1冊として、当然なぜ本書が「フロンティア」なのかの説明があるものとばかり思っていた。このシリーズのほとんどを読んでいるが、歴史性のある語りには、奥深さとわかりやすさがある。わたしのいう「歴史性」とは、過去のことを語ることではない。過去のことを語っていても、時代性やときの流れのないものは歴史ではなく、たんなる過去の語りにすぎない。それにたいして、現代のことを語っていても、ときの流れの到達点としての現代を語っているものは、歴史として充分な読みごたえがある。基礎研究としての歴史学の存在意義は、ほかの学問を深く豊かにする効果をもっていることである。

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2005年09月06日

『掠奪の法観念史-中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』(東京大学出版会)

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   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 人はなぜ、平気で他人を殺し、平気で他人のモノを奪うことができるのだろうか。今日でも、わたしたちが生活している社会の倫理観や法律に照らして、理解できないことが多々ある。歴史研究にとって、もっとも重要なことは、その時代・その社会の常識を理解し、その常識に基づいて過去に起こったことを考察・分析することだ、とわたしは考えている。しかし、いまの常識に毒されているわたしたちにとって、それは不可能なことだ。だから、わたしはその時代・その社会に生活していて、状況を把握している人が書いたもの(同時代・同社会資料)を探し、その資料に語らせることによって、その時代・その社会を理解しようとしている。上記のような疑問を自分自身で原史料を用いて明らかにする前に、これまで平気で他人を殺し、平気で他人のモノを奪うことのできる倫理観や法律を研究したものはないのか、探していた。そのようなとき、本書に出会った。

 著者、山内進はヨーロッパ法制史を専門とし、古代・中世・近世ヨーロッパで、戦時における掠奪が「「自明」であり「慣習」だったというだけではなく、その行為をより積極的に正当化する何ものかがあったのではないだろうか」という自問から発して、「騎士的慣習法、教会法や神学理論、ローマ法および自然法と深く関わる学識法を包括する意味での戦争法へと考察を進め」た。その結果、古代ローマにおいてはローマ市民、中世ヨーロッパにおいてはキリスト教徒以外の者は基本的に「敵」で、その生命・財産は「勝者」の自由であったことを明らかにしている。それが、初期近代17世紀になると正戦のもとでの掠奪=捕獲の法的正当性の観念が崩れはじめ、18世紀末から19世紀になって中・近世ヨーロッパ世界に特有の意味・観念の根本的な変革が完遂されることになった、としている。そして、19世紀中葉以降、戦時下における私有財産の尊重を原理的に自明とする条約が結ばれるようになり、1899年のハーグ条約では「掠奪ハ之ヲ厳禁ス」という条項が加えられ、占領地の人民の権利が尊重されるに至った。

 著者は、「掠奪の法観念」を歴史的に描き出すことによって、「中・近世ヨーロッパ世界」を理解しようとした。そのことは、「中・近世ヨーロッパ世界」が古代からどうつながり、近代へどうつながっていくのかを明らかにすることになった。歴史研究が目指す時代と社会の把握を、法制史という専門性をいかして、みごとに描き出したということができるだろう。また、史料を丹念に読みこなし、基本に忠実に考察・分析して、ひとつひとつの疑問を明らかにしている。「難題」を扱うには、いかに基本が重要であるかを、見本として示したような研究である。学ぶことが多かった。

 本書の成果を発展させて考えると、わたしが専門とする海域世界の「海賊」のとらえ方も違ってくる。「海賊」をアウトロウと捉えたのも、近代を通してみた偏見であったことがよくわかった。ある人びとにたいしてひじょうに温情的であった「海賊」が、別の人びとにたいしてひじょうに残酷であったことも、「敵」とみなしたかどうかにかかっていたことがわかった。しかし、「海賊」をロウフルにどう描くか、まだわたしにはわからない。大きな課題をいただいたような気分だ。

 また、近代ヨーロッパに「掠奪の非合法化」が完成したにもかかわらず、その後も「掠奪」は収まらないのはなぜか、これも現代社会の大きな課題だろう。そして、本書で明らかになった戦争の形態の変遷が、いままた変化しようとしている。法観念も、近代ヨーロッパが生み出したものから変わろうとしているようにもみえる。基本に戻って、いま現実に存在しているさまざまな倫理観や法観念を考えることによって、人が平気で他人を殺したり、平気で他人のモノを奪ったりしない社会にしていかなければならない。つまり「敵」のいない社会にしていく必要がある。しかし、いっぽうで過度に人権を擁護すると、平気で他人を殺したり、平気で他人のモノを奪ったりする人を、社会に野放しにすることになる。難しい!

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