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2005年06月14日

『海域イスラーム社会の歴史−ミンダナオ・エスノヒストリー』(岩波書店)

海域イスラーム社会の歴史  →bookwebで購入



   本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。


 5月27日の朝刊第一面に、「ミンダナオ島に日本兵」の記事が掲載されて以来、しばらくマスコミの対応に追われた。イスラーム教徒の居住地区ではない地名が出て、イスラーム教徒ゲリラと一緒に住んでいるなど、情報が不確かで錯綜していたため、そしてなにより、研究者として責任ある発言をするための基本であるオリジナルなデータをわたし自身がもっていないために、マスコミの要望には応えることができなかった。それでも、ミンダナオ島についての歴史や社会についても訊かれたため、何度も長電話でレクチャーする羽目になった。そのとき、ほんとうは「この本を読んでください」と一言だけ言いたかった。

 なぜ、キリスト教徒が支配的なフィリピンで、ミンダナオ島にイスラーム教徒が多く居住し、反政府ゲリラ活動がさかんなのか。本書から、つぎのような答えを導き出すことができる。16世紀にヨーロッパ人が東南アジアにやってくる前後に、この地域はイスラーム化が進んだ。フィリピン諸島南部のスールー諸島やミンダナオ島にはイスラーム王国が成立して、現在のインドネシアやマレーシアとともにマレー海域イスラーム世界を形成した。それにたいして、フィリピン諸島北部のルソン島やビサヤ諸島の低地では、スペイン人による植民地化とカトリック化が一体となって進んだ。その後、1898年に独立をめざすフィリピン革命に介入して、スペインからフィリピン諸島を譲渡されたアメリカ合衆国は、ミンダナオを「約束された土地」として開発に乗りだしたが、成功したのはダバオの日本人移民によるマニラ麻産業だけだった。戦後、北部から移住してきたキリスト教徒主体のミンダナオ開発が試みられたが、生活空間を失ったイスラーム教徒だけでなく、移住してきた一般キリスト教徒もあまり豊かにならなかった。キリスト教徒との経済格差、なにより政治的自律性を失ったイスラーム教徒は、キリスト教徒主導の政府にたいして、1970年ころから本格的に反政府武力活動を展開した。さらに問題を複雑にしたのは、分類・分布がきわめて複雑な多くの小民族が高地山岳地域を中心に分散居住しており、そこに共産主義勢力が入ってきたことだった。ミンダナオは、「紛争の島」となった。

 このような歴史的変遷を経ても、ミンダナオではマレー世界の「村落国家」、すなわち自然集落を基本とする自律した首長制社会が存続しており、中央集権的な構造が成立しなかった。同じことがゲリラ組織にもあって、コマンダーとよばれるリーダーを中心に、それぞれ独自の行動をとっている。情報も中央集権化されておらず、口コミ情報は早く正確なこともあれば、錯綜して訳がわからなくなることもある。異常に多いラジオ局も、その錯綜に拍車をかけることがある。サービス精神旺盛なフィリピン人が、日本人を見てお愛想で不確かな「日本兵」情報をもたらしたことも考えられる。日本のマスコミのなかには、この「騒動」を通して、フィリピンの国状やフィリピン人の民族性を悪く書くものもあった。本書を熟読し理解していれば、もっと違った目で今回の「騒動」を報道したことだろう。

 本書の目的は、温帯の陸域、定着農耕民、男性エリート中心の近代の歴史観から脱却し、今日のグローバル化、多元文化社会の尊重にふさわしい新たな歴史観を模索することにあった。そのため、熱帯の海域、流動性の激しい海洋民が活躍する海域東南アジア東部という歴史的地理世界に注目した。中央集権化し合理的な近代的制度の下で、行動し考えることはわかりやすい。しかし、制度より個々の対人関係を重視する「海域イスラーム社会」に、それを求めることはできない。世界が流動化し、制度と個人との関係が逆転しつつある今日、「海域イスラーム社会」から学ぶことも多くなってきている。今回、マスコミがミンダナオで求めたものは、機能していない近代的制度がもたらしてくれる情報であり、それに翻弄されたといえるのではないだろうか。

 それにしても不可解なのは、なぜこれだけの騒ぎになったのかである。「ミンダナオ島の日本兵」については、終戦直後から今日まで何度も情報がもたらされ、外務省の方でも充分承知していたはずだ。「現地化」し、本人が帰国を望んでいないとも言われていた。年老いて「日本兵」の心境の変化から、この騒ぎになったのならまだわかるが、「日本兵」の存在を利用してなにかを企んでいる日本人がいるとするなら話は別だ。これだけの騒ぎになったのだから、日本人に「愛国」をよびさますという効果は充分にあった、とほくそ笑んでいる人がいるかもしれない。

 今回の「ミンダナオ島の日本兵」騒ぎについて、ミンダナオの歴史と社会から理解したいという人、近代の価値観から解放されてこれからの社会を考えるヒントをえたい人は、ぜひ読んでほしい。

 本書は、第20回大平正芳記念賞受賞作(2004年)である。

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