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2011年04月10日

『ゴヤ』堀田善衞(集英社)

ゴヤ〈1〉スペイン・光と影
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ゴヤ〈2〉マドリード・砂漠と緑
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ゴヤ〈3〉巨人の影に
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ゴヤ〈4〉運命・黒い絵
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「混乱と崩壊のなかで「見る」こと」

東日本大震災からひと月たった。この間ずっと堀田善衞『ゴヤ』を読んでいた。読みはじめたのは震災前の3月初め。寝酒ならぬ寝読みで、布団のなかで少しずつ読みすすめ、全4巻を読了するまで、ひと月かかった。

なんとも奇妙な読書経験だった。ぼく自身がいま生きているはずの社会と、『ゴヤ』というテクストに描かれる社会。その二つの世界が衝突しながら、ふしぎに響きあうのである。それも、美しい音色というのではない。耳をつくようなすさまじい不協和音、頭がガンガンと打ち叩かれるようなビート、心臓を射貫かれるような鋭い音。そういった音どもがモザイク状に立ちあらわれて、けれどもそれらの音に耳を澄ませずにはいられないような、そんな感覚だった。

一方のぼく自身の生きる世界。

そこでは、震災とそれにつづく被災地の混乱があり、原発事故が迷走を重ねて、放射能汚染の恐怖が覆うなか、ますます混乱と不安と疑心暗鬼が増幅されていく。被害の全容がまだ把握しきれていないばかりか、福島原発は収束の見通しがたたず、いまだ現在進行形である。

「東日本大震災」と名前づけられはしたものの、いまだ余震はおさまらず、原発は放射性物質を海にまき散らしている。もはや「東日本」に限らず近隣諸国も含めて、ぼくたちすべてが、顕在的にせよ潜在的にせよ被災しているといっても大げさでないかもしれないような状況がつづく。

他方の『ゴヤ』の世界。

そこでは、18世紀から19世紀初頭にかけてのスペインが、ゴヤという画家を軸に描かれる。それは、ひとつの社会が壊れ、渾沌のなかで憎悪と暴力が増幅してゆく過程であった。

その時代、かつての世界帝国スペインは黄昏を迎えつつあった。王族も貴族も堕落しきっており、そこにフランスやイギリスの軍隊が来て入り乱れる。肝心のスペイン軍は、政府ともどもまるで機能せず、市民はあちこちで虐殺される。それがまた、市民による他国軍の兵士への報復へと連鎖する。ゲリラ戦という戦争形態が生まれ、スペイン全土は戦場となった。為政者はめまぐるしく入れ替わり、そのたびに「正義」の風向きも変転する。

そして画家ゴヤは、そうした社会の渾沌を、いわばまるごと捉える人物として描かれる。「もっとも真直ぐに、いかなる意味でも目をそらすことなく」「ひたすらに現実だけを見て見て見抜いた男」(I巻pp 77-78)。それがゴヤである。

「見るひと」であったゴヤは、同時に辟易するほどのエゴの塊でもあった。荒涼たる敷衍でトードス村からマドリードへ出、まわりを出し抜き、徹底的に利用しながら、出世街道を爆走し、ついに首席宮廷画家という地位を手に入れる。貴族や知識人や台頭しつつあったブルジョアの肖像画から、市民たちの凄惨な姿までをとことん描く。

80歳という当時としてはおそらく驚異的に長い人生のなかで、枯れるばかりか、歳を経るにつれていっそう精力的、エゴイスティックになり、スケールアップしてゆく。ゴヤ自身、そのような一種の巨人であり怪人であった。そしてそのようにして、みずからのエゴと欲望にとことん忠実であったからこそ、そのように時代や社会の肝をわし摑みにする力を持ちえたのであろう。

ふつうに見ればこの本は、近代絵画の先駆者にしてスペイン最大の画家でもあるゴヤに題材をとった小説、もしくは評伝、ということになる。たしかに本書をひとつの物語として読むことはできるし、美術史的・スペイン近代文化史的といった類の知識を得ることもできる。あるいは、ゴヤの人生から生きることの姿勢を学ぶ、というようなタイプの読書も可能であろう。

けれども、この本は、そもそも、みずからを既存のジャンルのどこかに収まることを拒絶したところに自生しようとしている。何かを教えてくれることを期待して読むと、はじき返されてしまうかもしれない。

本書にふさわしいのは、そのように予見に引き寄せて、いわば「いいところどり」をしようというような読みではない。堀田がいうように、美術の、そしてゴヤの核心が「「要は、見ること、である」(I巻p. 286)のだとすれば、本書の読書にふさわいい態度とは、ただ読むこと、であるだろう。

紙の上に印刷された文字を追い、テクストと向きあって、ただ読むこと。それは、そこに綴られている言葉が生みだす一義的な意味を理解することとはまた別に、著者が書き記した言葉の身体性に反応しようとすることである。


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2010年08月31日

『荷風と東京』川本三郎(岩波書店)

荷風と東京(上)
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荷風と東京(下)
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「街歩きと日常」


 川本三郎の街歩きエッセイが好きだ。夜中に灯りをつけて読むのもいいが、旅先の各停車中で読むのもまたいい。じぶん自身の旅と、著者の語る街歩きとが重なりあって、愉しみが二乗される気分になる。

 先日『我もまた渚に枕──東京近郊ひとり旅』(ちくま文庫)を読んでいたら、うちの近所のことが書かれていて、びっくりした。戦後の荷風が市川に住んでいたことはむろん知っていたのだが、このあたりまで散歩圏だったことまでは知らなかった。ぼくが読んだ岩波文庫版の『断腸亭日乗』は抄録だから、省かれていたのだろう。

 そこで、いまさらながらではあるが、川本の『荷風と東京』(上・下、岩波現代文庫)を買ってきた。評価の高い著者の代表作だが、未読だった。読んでみると、これがまた、おもしろい。

 『断腸亭日乗』を徹底的に読み込むというアプローチが、まずいい。さらに着眼点がすぐれている。とことんディテールにこだわるのだ。

 経済生活、かよった店、女性たちとの日々、食生活、庭仕事、そして散歩。散歩といっても、その時間の過ごし方は掃苔から買物までさまざまだ。そのひとつひとつを、こんがらがった紐の結び目をていねいに解きほぐすようにして、整理してゆく。

 荷風が歩いた当時の道筋と街並みとを種々の資料にあたりながら再現してゆく手つきは、手練れの散歩者である著者にして初めてなせる技であろう。

 日常とはまさにこうした些事の集積であるが、「文学」とか「思想」と大上段にふりかぶってしまうと、どうしても軽視されがちだ。しかし荷風と、かれが数十年にわたって日々歩きとおした東京との関係は、特異で非日常的なものというより、荷風という人間のあり方にとって根源的なレベルにあり、それゆえに日常の営みと不可分の形で存立していただろう。したがって、こうした日常の細部を丹念にたどってゆく態度こそが対象にたいする誠実さなのだといえる。

 著者の姿勢でさらに重要なのは、日常の細部をただ枚挙していくだけではない点である。たとえば、巷間いわれるのとはまったく違う手続きをへて、荷風が浅草という街を「発見」してゆく過程を詳らかにしている場面をみてみよう。細部に着目するとき、その向こう側につねに思想を見ようとしていることがわかる。それは細部をどのように読み解くかという批評性にかかわっている。

 戦災で麻布の偏奇館を焼きだされた荷風は、戦後市川に移ってくる。荷風はそこに、かれがもっとも愛した戦前の東京的な風景を見出していったことが指摘されて、本書は閉じられる。その読後感は、従前の荷風のイメージにはおよそ似つかわぬといっていいほど、穏やかで愛情に満ちた豊潤な余韻を残す。その読後感こそ、東京という街と生涯を添いとげたこの文人の長い人生にもっともふさわしいものかもしれない。


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2009年10月25日

『けい子ちゃんのゆかた』庄野潤三(新潮社)

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「日常を描く、日常を考える」

2009年9月21日、庄野潤三は亡くなった。享年88。はかったかのようなタイミングで翌月刊行されたのが、『けい子ちゃんのゆかた』の文庫版(新潮文庫)である。

この作品は2004年に文芸誌に連載され、翌春に単行本にまとめられた。庄野自身のあとがきによれば、子どもたちの巣立ったあとに残された老夫婦の晩年を描く一連の作品群のひとつである。熱心なファンのあいだで「晩年シリーズ」とよばれるこのシリーズは、『貝がらと海の音』(連載1995年、単行本1996年)に始まるのだと、これも庄野自身がしばしば書いているから、本作品は結果的にそのシリーズ最終のひとつ前となった作品だといえる。もっとも見方によっては、『ザボンの花』(連載1955年、単行本1956年)から連綿とつづく、作家自身とその家族に直接取材した作品群を一本の大河ととらえることもできる。半世紀をゆうに越える庄野の文学人生の掉尾を飾る一作だといっても大げさではない。

     *

平易な言葉と表現で書かれたこの作品は、しかし内容をかいつまんで紹介するのがひどくむずかしい。他の多くの庄野作品と同様、粗筋というものがないからだ。描かれているのは、自身がモデルとおもわれる「山の上の老夫婦」の日常生活の細部につぐ細部である。

作家が自身の日常を題材にした小説は、一般には私小説と区分されるだろう。庄野もまた、戦後文学史のなかでは第三の新人に分類され、私小説の系譜に位置づけられることが多い。庄野自身、私小説的なものを擁護する文章を著したこともある。だが、私小説の大半が日常のなかに隠蔽された非日常の告白という側面をもっていたのだとすれば、庄野の書くものはそれと似て非なるものだった。かれの関心はつねに日常の日常性そのものに向けられていたからだ。

「日常」は、庄野がその文学人生をかけて格闘しつづけてきた課題にほかならない。より詳しくいえば、日常の日常性を理念的に再構築してみせることが、庄野の文学的課題だった。

たとえばこの『けい子ちゃんのゆかた』は、予備知識をもたない読者が書名だけをみるならば、あるいはエロティックな内容のものかと想像するかもしれない。ところがその手の要素は、庄野の作品世界にはまったく登場しない。エロスや情念といった類の要素は慎重かつ徹底して排除されている。このことは、庄野の作品世界を貫徹する顕著な特徴である。

「けい子ちゃん」とは、作中小学五年生の孫娘のことだ。とりあげられるのは、孫娘の成長ぶりや、近所に暮らす市井のひとびととの心温まる交歓や夕食後に夫婦でハーモニカを吹くといった日常を織りなすさまざまな日常的実践の「くりかえし」である。そのようすを、庭の木々やそこにやってくる野鳥の姿と交差させることで、老夫婦の晩年を穏やかな日だまりのような光景として描きだそうとしている。

そこでは、ほんらい人間が不可避にかかえながらも社会的に抑圧され、それゆえに通常のブンガクが好んでとりあげてきた暗い側面はきれいさっぱり拭い去られている。だからここに展開されるのは、いわゆる私小説的なものでありながら、同時にそこからもっとも遠く離れたタイプの世界でもあった。庄野作品の「日常」とは、理念にもとづいて世界を再構築するという庄野の意志をどこまでも押しとおしてゆく様相なのである。そのありようは、呵責なきまでに徹底されており、そのため表面上の穏和な相貌に相反して、どこか尋常ならざる迫力──異様さ、といいかえてもよい──を強く印象づける。

     *

いうまでもなく、たとえ作家が自身の経験に取材して執筆したものであったとしても、作家の生活世界とテクスト内部の表象世界とはそれぞれ別の水準にあるものとして扱われなければならない。ところが私小説というジャンルにおいては、少々事情が異なる。両者の素朴な混同こそが、著者と読者とテクストによって織りなされる読書共同体の枢軸であり、その維持に不可欠な滋養分だからである。

庄野の晩年シリーズもその例外ではない。江國香織のような作家がリスペクトを表明し、若い女性たちからは理想の老年像を投影されて、静かな人気を集めた。川本三郎が指摘しているように、そのことは庄野の長い文学人生の掉尾を幸福で満足のゆくものとして飾ったたかもしれない。

しかし庄野のばあい、作家の実生活と作品世界とは、たんに読書共同体における素朴な混同では片づけられない側面がある。ある意味では、両者はたしかに照応関係をなしていたのだ。それは、庄野にとって「日常」とは、かれ自身の理念によって規定され、再制作されるべきものであったからだ。庄野はおそらくは、両者の、つまり実際の生活世界と作品世界という二つの世界あいだに不可避に生起する齟齬を、理念でもって調停し、埋めあわせようとしてきたのではあるまいか。

その傍証を、たとえば『けい子ちゃんのゆかた』文庫版の巻末に収められている、庄野の長女夏子さんによる解説に綴られる、庄野最晩年の介護の日々の記述の仕方に認めることもできるだろう。

     *

庄野は若くして芥川賞をとり、芸術院会員にまでなった。功なり名を遂げた作家といってさしつかえあるまい。反面、庄野文学を正面から論じた批評は意外なまでに限られる。大家ではあるが、もはや文学的には「あがり」、論じるべき余地の残された対象だとは見られていないようでもある。たしかに、晩年シリーズなどはどれもほとんど同じようなエピソードのゆるやかな反復によって成り立っており、読者はじぶんが何作目のどこを読んでいるのかを見失うまでにさほど時間を要しないようなものだ。そこから何か新しい発見が得られるとは、あるいは考えにくいのかもしれない。

しかし、それは不幸なことである。庄野作品の文学的、あるいは社会学的可能性は、ふつうにおもわれているほどにはまったく汲み尽くされてはいない。たとえば、上に述べてきたような、日常にたいする拘泥の苛烈なまでの徹底さひとつとっても、他に類をみない性質のものである。少なくとも、ぼくにはそう思われてならない。

ぼく(長谷川)が初めて庄野作品を知ったのは小学生ころ、光村図書の国語の教科書に載っていた『ザボンの花』である。以来、熱心といえるかどうかはわからないが、ぽつりぽつりと読み継いできた。ぼくが庄野作品から離れられないのは、その徹底した日常への拘り方に関心があるからであるかもしれないと気づいたのは、最近のことだ。ぼくなりの方法で庄野作品へ切り込んでみた。それは、今夏上梓した『アトラクションの日常──踊る機械と身体』(河出書房新社、2009年)の「アトラクション7くりかえす」に収められている。

むろん、この一篇をもって十分な手応えを得たというにはほど遠い。おそらくこれからも、ぼくは折々に庄野作品を読みつづけてゆくだろう。その世界を読み解くことは、わたしたちの「日常」について考察し、これを理解してゆくうえで、かけがえのない手がかりを与えてくれるだろうから。

故人の冥福を祈る。


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