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2007年02月14日

『自白の心理学』浜田寿美男(岩波書店)

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「「うその自白」と推定無罪」

周防正行が脚本を書き監督した映画『それでもボクはやってない』が公開中だ。ひとりの青年が巻き込まれた痴漢冤罪事件の顛末をとおして、日本の裁判制度のありようを問う作品である。その主張はなかなか明快だ。現代日本の刑事裁判において、推定無罪の原則が事実上機能していないことの告発である。

推定無罪とは、有罪が確定するまでは無罪として扱われること、別言すれば「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の原則のことをさす。ところが現実はその正反対、むしろ「推定有罪」とよぶほかないような態度がまかり通る状況にあるという。いったん警察に捕まり被疑者とされたならば、警察・検察における取調べの段階から、まるで罪人であることがすでに決定しているかのような取扱いをうけることになる。起訴されて刑事裁判となったばあい、無罪が確定する割合はじつに0.005%。つまり起訴されてしまえば、被告人はほぼ確実に有罪判決をうけるわけだ。こうした制度運用上の歪みは、無実の人間を有罪として裁いてしまう冤罪事件を、なかば必然として生みだすことにつながっている。

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浜田寿美男は、冤罪事件のなかでもとくに被疑者の自白に着目し、瞠目すべき業績をあげてきた心理学者である。浜田の著書はどれも興味深く、さまざまなことを教えてくれるのだが、ここではもっとも簡にして要を得たという意味で、岩波新書の『自白の心理学』(2001年)を紹介したい。

自白とは、自己の犯罪事実を認定する言説である。ほとんどのばあい、それは取調室において、被疑者が主体的にみずからが罪を犯した事実を認める意思表示としてなされる。むろん、罪を犯しているからこその自白なのであって、そもそも身に覚えがなければ、自白のしようがない。

先にあげた映画では、加瀬亮演じる主人公の青年が、満員電車のなかで痴漢行為をはたらいたと間違われ、「話は署で聞くから」といわれて警察署へ連れていかれるなり拘留され、厳しい取り調べをうける。取調官は青年が犯人だと決めつけ、かれの言い分には一切耳を傾けない。それでも青年は一貫して「だって、やってないんだ」といって犯行を否認しつづける。実際にしていないのだから、取調官に何を言われようと、否認するのは当然のことだ。本当に犯罪にかかわっていないのだから、取調べ段階で聞き入れられなくても、法廷の審理においてなら、その事実は周囲に理解してもらえるはずだ。こう考えるのが、市民社会における一般的な筋道というものだろう。

ところが、浜田によれば、そうした一般に通有される常識的な筋道は、現実においてしばしば信じがたいほど混線してしまう。その最たる例が、「うその自白」である。うその自白とは、犯罪事実を隠蔽するために虚偽の自白をおこなう、という意味ではない。そうではなくて、何かの間違いで被疑者とされた無実の人間が、まったく身に覚えのない犯罪を「自白」してしまうケースがあるということなのだ。

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「うその自白」のことを聞いたなら、ぼくたちの常識はまず大きな違和感を覚えることだろう。拷問など身体的暴力をともなうというのならいざ知らず、現代の市民社会において、うその自白などということが起こりうるのだろうか。被疑者の知的能力が著しく低かったり、取調べの過酷ゆえに精神に変調を来していたりといった理由による例外的な現象なのではないか。してもいない犯罪を自白するなど、通常であればあり得ない、異常なことではないか。

ところが、うその自白は例外的という素朴な常識的理解こそ、うその自白をせざるをえなくなった当の無実の被疑者の心理過程からかけ離れているのだ。拷問もなく、知的能力に問題もなく、精神に変調を来した形跡もないのに、その自白がのちに虚偽だったと判明するケースのほうが一般的なのだと浜田はいう。すなわち、うその自白とは、「犯人として決めつけられ、取調べの場で追い詰められ、決着をつけることを求められたとき、誰もが陥りうる、ある意味で自然な心理過程」(p. 48)にほかならないのだ。

言われてみれば、なるほど思い当たる。映画で描かれているような、「推定有罪」の圧力の下、身に覚えがないにもかかわらず、周囲は有罪を確信して自白を迫り、こちらの主張はまったく受け付けてもらえない。拘留がいつまでつづくのか見通しもたたない。映画であれば、「推定有罪」の理不尽を浮かびあがらせるためにも、そうした逆境に堪えて「それでもボクはやってない」と否認しつづけることに意味がある。けれども、もしそこで否認しなければならないのが、ぼく自身、あるいはあなた自身であったとしたら、どうだろう。いつまで「やってないんだ」と否認しつづけることができるかどうか。少なくともぼく自身があのような状況におかれたのなら、それでも最後まで否認を貫きとおせると言い切る自信はとうてい持てない。もし貫けなければどうなるのか。やってもいない犯罪を「自白」するほかないだろう。

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無実のひとが取調べ過程で追いつめられ、苦しさのあまり「わたしがやりました」と自白したとしても、それで終わるわけではない。自白した以上、いつどのように犯行を展開したのか、そのストーリーを語ることが要求されるからだ。実際に犯行にかかわっていないにもかかわらず、どのようにして犯行筋書を展開していくのか。この過程はいっそう複雑であり、浜田の分析はおどろくべき様態を明らかにする。

自白調書の記述は具体的で詳細であり、しかも事件の客観的状況に一見もっともらしく合致する。一般的な理解では、こんな詳細に犯行筋書を語れるのだから真犯人に違いないと考えるか、あるいは逆に、取調官の完全な創作を被疑者に信じ込ませたに違いないとうけとめる。だが現実はそのどちらでもないのだと述べたうえで、浜田はきわめて興味深い見方を示す。うその自白にもとづく犯罪筋書は、取調官と被疑者のいわば「合作」としてつくりあげられるというのだ。

うその自白に追い込まれた無実の被疑者は、もはや引き返すことのできないところまで来てしまった以上、じぶんが「犯人になる」道を選ぶ。犯人になったつもりで、犯行筋書を考えていくわけだ。もちろん犯行の実際を知るはずがないので、想像で語る。当然あちこちで辻褄が合わなくなる。いっぽう被疑者を真犯人と確信している取調官は、無実の被疑者のあやふやな自白を、記憶違いや虚偽とうけとり、そのことを指摘する。被疑者のほうはそれをうけて、犯行のストーリーを修正していく。そうして相互のやりとりを重ねることで、客観的状況にある程度矛盾しない犯行物語ができあがるのだ。取調官もまた犯行現場に居合わせたわけではない以上、無実の被疑者と同じ立場にある。となると、自白調書の作成は、市民生活の常識から見れば相当に奇妙な協働作業だといわねばなるまい。なぜなら「犯行のことを知らないものどうしが、取調べの場で頭を寄せあって、ああでもないこうでもないとやっていくなかで自白調書ができあがっていく」(p. 147)からである。

たとえうそであったとしても、いったん自白してしまえば、そのうそは自白調書として実体化され、司法の場においてきわめて大きな意味をもつ。うその自白は、無実の被疑者自身をより悲惨な状況へと追い詰めることになる。

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うその自白について些細な分析を施す浜田の視点の基本にあるのは、「うそ」にかんするひとつの認識である。うそとは一般には、自分勝手な思いで自己の利益のために他者にたいして積極的に虚偽の情報を与えるものという理解であるだろう。「うその個体モデル」である。浜田によればその対極として「うその関係モデル」があるという。つまり、周囲の誰もがあることを一致して確信しているとき、あるいは少なくともそのように見えるとき、他者と対立することを避け、他者に同調してじぶんを偽るのである。そして、あらゆる「うそ」は、この両極のどこかに位置するのだという。

個体モデルにおいて、うそは「だます—だまされる」関係、ないしは「だます—あばく」関係のなかに成立する。ところが、関係モデルにおいては、うそとは「そそのかされ—支えられる」関係のなかで生起する。取調官が、目の前にいる被疑者が本当に犯人だと確信しているとき、ないしは確信したいと考えているとき、その場の力によって無実の被疑者は「そそのかされ」、うその自白をすることになる。そのとき、取調官はだまされるのではない。取調官自身の抱く確信に沿う方向で、うその自白を「支える」ことになるというのだ。

このように見てくれば、著者がくり返し指摘する点に頷くこともできるだろう。すなわち、うその自白をする無実の被疑者が異常なのではない。「異常があるとすれば、それは被疑者の心理ではなく、当の被疑者を囲む状況の側の異常なのであ」り(p. 48)、「常軌を逸した状況のなかで、被疑者はごく正常な心理として「犯人になる」ことを選ぶ」(p. 137)という現実だ。

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だが、うその自白にかかわる協働的な合作過程のメカニズムについての知見は、自白の虚偽を判別する方法へと展開していくこともできるだろう。浜田の研究の射程は、その点を視野に入れている。と同時に、そもそもこうしたうその自白がなされてしまうような状況を生起させるものとして、取調の現場や裁判制度の運用における推定無罪の原則の事実上の不在を指弾している。

推定無罪の原則が機能しない大きな要因のひとつは、取調べの過程が密室化しているため、外部からの検証が困難であることにある。2007年2月13日付け朝日新聞夕刊は、前年7月より日本でも取調べの録音・録画が試みられていることを報じているが、このように密室を可視化していくことは、必要にして不可欠な条件であるだろう。推定無罪の原則を恢復させるためのもうひとつの障壁は、警察や司法の制度に浸透する官僚主義である。映画『それでもボクはやってない』のなかに、無罪判決を出して喜ぶのは被告人とその関係者だけであり、それ以外の誰も──裁判所や警察や国家権力も──それを歓迎しないのだという意味の台詞がある。このような打算と事なかれ主義のなかで、今日も無実のひとが有罪を宣告されているのである。こうした官僚主義を打破する有効な手だては、いまのぼくには想像がつかない。

すぐれた書物とは、著者の意図を越えて、さまざまな立場の読者にさまざまな影響を及ぼすものだ。浜田のこの本を読んで痛感するのは、人間と人間とが言葉を媒介にして相互にやりとりをするという、あたり前すぎるほどあたり前な行為の捉えがたさである。「コミュニケーション」といってしまえばいたって平板なこの行為は、その外見とは裏腹に、一筋縄ではいかない複雑で多層的な営みである。そこに横たわる、常識では計り知れないほどの深遠から、ぼくたちは目をそらしてはならないのだ。



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