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2006年02月04日

『なぜ人は書くのか』茂呂雄二(東京大学出版会)

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新しいテクノロジーが登場し、そのテクノロジーが身体化される。その過程でぼくたちは、それまで知らなかったある感覚を経験していくようになる。

キーボード・タイピングはその典型例だ。ある程度習熟してそれなりの速度で打鍵できるようになると、頭のなかとディスプレイが直結され、思考がそのまま文字化されるかのように感じられはじめる。ワープロあるいはパソコンが普及していく1980年代末から90年代前葉にかけて、少なくない数のひとびとがそうした経験をみずからのうちに発見した。それは、なるほど、たしかに日本語執筆の歴史のなかでは初めてのことだった。ひとびとは、ワープロやパソコンによって思考が活性化され、それまでとは異なるステージに飛翔しえたかのように感じた。書くという行為が機械化されることによって、なにか頭がすごくよくなり、それまで隠されていた力が急に引き出されるような気がしたものだった。

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こうした個人の実感を根拠づけるさいに召喚されたのが、いわずと知れたマーシャル・マクルーハンである。マクルーハンは、1960年代、テレビジョンのような電子メディアの地球規模の普及のなかに、印刷術が思考と感覚を枠づけた時代──グーテンベルクの銀河系──の終焉とその再編成の契機を見出した。ある種の技術革新がその社会を成り立たせている思考様式にたいして、あと戻りできない変容をもたらす、という主張である。これにしたがえば、ワープロやパソコンの普及にともなって、書くという行為や、それに連動するはずの思考もまた大きく変容するということになる。

実際マクルーハンや、かれと影響関係にあるウォルター・オングやエリック・ハヴロックといったいわゆるトロント学派の面々は、書き言葉誕生後に成立したとする「文字の文化」を、それ以前から存在する「声の文化」からの決定的かつ、あと戻りのできない離脱であるという意味のことを、さまざまな形で詳しく論じている。ちょうど山脈の分水嶺を越えると水系が異なり、向こうに降った雨水はけっしてこちらの河川にまじわらないのと同じように、話し言葉と書き言葉のあいだは絶対的な断層によって分かたれている、というのである。

こうした「大分水嶺理論」は、ワープロやパソコンといった技術の普及がぼくたち自身と社会とを決定的に変容させつつあるという実感にたいし、「文字の文化」から「電子の文化」への不可逆な移行を示唆する予兆という位置づけを与える根拠としてもちいられたのであった。

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北田暁大が指摘するように、こうした考え方には重大な瑕疵がある( 『〈意味〉への抗い』せりか書房、2004年)。技術の変容による「個人」の感覚や振る舞いの変化を、なんの手続きも経ないまま「集団」ないし「一般」へと地滑り的に接続・拡幅していく俗流心理学が密かに挿入されているからである。

にもかかわらず、大分水嶺理論は今日もなおその影響力をいかんなく発揮し、ぼくたちのリテラシー観や教育観、社会観などいった一般的常識に間断なく燃料を供給しつづけている。メディア・テクノロジーによってぼくたちが決定的に変容する、という考え方は、それを「文字」から「電子」への発展的進化ととらえる視線も、「ゲーム脳」とか「脳内汚染」などというようにそれを堕落として否定的にとらえる視線も、どちらも、技術の変容→個人の変容→社会の変容の三段論法を地盤にするという意味で同根だといわざるをえない。

したがって、認知科学の立場から大分水嶺理論を切り裂いた茂呂雄二の『なぜ人は書くのか』は、出版から15年以上経過していながらも、その価値の光芒はいささかも失われていないといわなければならないだろう。

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茂呂によれば、大分水嶺理論──そもそもこの命名をぼくが初めて知ったのが本書だったのだが──の論理は次のように整理することができる。まず、この理論の下では、言葉は二種類にわけられる。話し言葉と書き言葉である。書き言葉の発明ないし習得は、わたしたちの認知系に重大にして不可逆な変化──大分水嶺越え──をもたらす。そして思考もまたこの二種類の言葉に相関しており、やはり二種類にわけられる。話し言葉は思考を文脈に依存したものに限定する。一方、書き言葉は脱文脈的な思考を可能にする。

これらが共通して前提するのは、書くことや読むことの自律性、つまり読み書きを、それがおこなわれてきた社会的文化的状況から切り離して取り出すことができるとする見方である。さらにそこに、読み書き能力は知的有能さと結びつけて理解されるべきだという考え方が随伴している。

大分水嶺理論の脊梁である読み書きの自律性と脱文脈性とは、いいかえれば、読み書きを、主体による言葉の操作という図式でとらえることである。この立場に立てば、言葉は主体の外部にある。書くこととは、主体の内奥の泉から湧き出でてくる創造を固定することであり、読むこととは、書き手の創造したメッセージを解読して諒解することだといえるだろう。

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これにたいして茂呂は、さまざまな民族誌研究の知見を援用しながら、大分水嶺理論を徹底して覆していく。かれが浮かびあがらせるのは、読み書きを、それが用いられる実践活動の場のなかに置きなおして理解しようとすることの重要さである。そこでは、まず読み書きとはつねに状況に埋めこまれた協働的な営為であることが明らかにされる。書き言葉は、対面・対話状況という一次的な意味での文脈からの離脱と関連しているのではなく、それを別の文脈に置きなおして重ねあわせて豊富化し、新たな文脈へと投企していくことにかかわっていることが指摘されていく。

大分水嶺理論では、読み書きは自律的・脱文脈的・単独的・独白的であると特徴づけられる。ところが、茂呂の見立てではそれらは逆である。読み書きは状況依存的であり対話的であり多声的なのだ。したがって、読み書きを道具としてぼくたちが組みあげるのは、自律した主体による「創造」というよりも、「語り口」である。すでに先行して存在する語り口を引用し重ねあわせ、そのなかから、ひとりひとりに固有である、自身の「語り口」を組みあげていくのだ。先行する語り口とは、他者の語り口にほかならない。他者の語り口という「声」の響きあうなかに、みずからの「声」を見出し、つくりあげていくこと。そのためにぼくたちは、読み、書くのである。

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こうした議論からすぐにわかるように、茂呂を支えているのは、バフチンやヴィゴツキーの言語理論である。茂呂はそこに依拠しながら、機能主義的なそれまでの認知科学を書き換えようと試みているのだが、それは他の領域にたいしても小さくはない可能性を内包しているだろう。

メディア論に引きつけていえば、ひとつにはそれは「文字」から「電子」への不可逆の移行というような、キャッチーではあるかもしれないが少々粗忽な議論というより、むしろメディアとつねに不可分の関係にある「コミュニティ」あるいは「共同性」という問題を考えるうえで、重要な可能性を示唆しているように、ぼくにはおもわれる。

コミュニティを、共有による同一化の過程ととらえる一般的な認識も、あるいは実践のなかでパフォーマティヴに構築される実践コミュニティ論も(前掲した田辺繁治『生き方の人類学』参照)、いずれにおいても、そこで想定されている共同性とは、複数の行為主体間の相互作用という地平を前提としたものである。だが、茂呂の議論が示唆する共同性とは、「書くこと」「読むこと」が本質的に協働的に構成されていくことを示している。つまり、たったひとりで読み書きを行為するときにおいてですら、それらはやはり協働的な営みであることに変わりないのである。

書くこと・読むことは、「わたし」のなかにあるのではなく、「あなた」のなかにあるのでもない。「わたし」と「あなた」、さらにはこの場にはいない「かれ彼女ら」を含めた「わたしたち」のなかにある。わたしたちはつねに、他者とともに読み、他者とともに書く。このような意味における共同性が、メディアという実践の基礎をなしている。