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2005年12月20日

『サンタクロースの大旅行』葛野浩昭(岩波書店)

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「サンタは昔、ブタの橇に乗っていた!」

クリスマスという社会現象には以前から多大の関心がある。だから、この季節になると血が騒いで仕方がない。前世はトナカイだったのではないかとおもうほどだ。じじつ、昨年はさる研究会でトナカイの着ぐるみを着て「クリスマス・ソングの文化研究」というような発表をした。

トナカイといえばサンタクロースである。でっぷり肥って白髭をのばし、赤い服を着て、トナカイの牽く橇に乗ってやってきて、よい子にプレゼントを配るやさしいおじいさん。こうしたイメージを共有しないひとは、いまの日本ではほとんど存在しないだろう。サンタクロースは、だれもが知っているこの季節のアイドルだ。本書『サンタクロースの大旅行』は、そのイメージがどのような歴史的プロセスを経て形成されてきたのかを手際よく教えてくれる好著である。

サンタクロースのモデルは、紀元4世紀に実在したキリスト教の司教、聖ニコラウス。いまのトルコあたりに住んでいた。えっ、サンタクロースの本場はフィンランドじゃなかったの? という疑問は当然湧く。まさにサンタクロースが政治的・社会的力学の歴史的産物であるゆえんである。そのフィンランドでは、サンタのおじさんが乗った橇は、トナカイではなく、ブタが牽いていた。

著者によれば、聖ニコラウスという聖者のイメージは、日本でいえば秋田のナマハゲみたいなものだった。両者とも、年の変わり目に人間の世界にやってくる神々であり、その神々が仮面仮装のおどろおどろしい姿をしており、子どもたちを脅かしたり褒美をくれたりするのだった。このことは、キリスト教がさまざま民俗信仰や、社会や文化のなかで折衝をくり返すなかで、聖ニコラウス像が形成されてきたことを意味している。ところが、今日世界で共有されるサンタクロース像からは、もともと聖ニコラウスがもっていた魔性や残忍性の部分がきれいに殺菌消毒され、ただただひたすら気前がよくてやさしいおじいさんに変身した。その変身を決定づけることになった直接の起点は、20世紀前半のアメリカ資本主義だった。「わしは、どこへだって出かけるぞ」。1943年にコカコーラ社の広告に登場したサンタのおじさんは、こう宣言したとおり、世界中を駆けめぐることになった。コーク片手に。

アメリカ資本主義の伝道師であり、消費社会の啓蒙家である20世紀アメリカ的サンタのおじさんは、世界各地でどのように迎えられたのか。1951年のクリスマスには、フランスのディジョンで、サンタクロースが火刑に処された。聖職者たちによって決定されたこの行為は、第二次世界大戦後の「アメリカ化」から伝統的なクリスマスのイメージを守るために、わざわざ子どもたちが見守るなかで挙行された。だが、こうした排斥の蛮行は、聖職者たちの目論見とは裏腹に、クリスマスという儀礼の永遠性を明るみにすることになった、と人類学の巨人レヴィ=ストロースは記している(「火あぶりにされたサンタクロース」『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房に所収)。アメリカから輸入されたクリスマスの習俗にたいして、フランスのひとびとは一方で批判を口にしつつも、もう一方ではそれがどこに由来するかなどあまり考えず、むしろみずから積極的にそれをたのしむようになっていた。

日本についてはどうだろうか。わたしたちは、日本のクリスマスには宗教心のかけらもなく、消費主義に蹂躙されたただの商売にすぎないなどと訳知り顔で批判する。と同時にその一方で、クリスマスをたのしんでもいる。勤め帰りに不二家のお店にケーキを買いに立ち寄ったり、子どもたちへ贈るプレゼントを物色したり、彼女をつれていくレストラン選びに余念がなかったりする。山下達郎の名曲「クリスマス・イヴ」はだてに20年連続してオリコンのチャート入りをしているわけではないのだ。そして、小さな子どもたちには、サンタクロースの来訪を信じ込ませようとするだろう。

一見すると矛盾するかのようなこの二つの事象は、しかし矛盾ではない。わたしたちはクリスマスという習俗を利用したりされたりしているというよりも、習俗それ自体を生き抜いているからだ。

たしかにわたしたちのクリスマスは、20世紀的な消費社会のなかで再編成されたものにちがいない。その意味では、わたしたちのクリスマスは、最終的には資本の枠組みに回収されていく消費行為以外のなにものでもない。この枠組みで考えるかぎり、わたしたちが感じるクリスマスのたのしみは、あくまで、その枠組みのなかでそう感じさせられているにすぎない、ということになるだろう。わたしたちは、あらかじめどこかでだれかによってあつらえられたクリスマス的社会構造のなかで、ただ消費行動に走らされている操り人形のようなものだ。

けれども、それだけではない。あらゆる実践がそうであるように、わたしたちは、クリスマス的習俗世界に投げ込まれていると同時に、みずからをその世界に投げ込もうとする。だからクリスマスの実践は、あたえられた枠組みを再生産するばかりではなく、それをズラしたり編みかえたりしていく契機となりうるのだ。だからこそ、ブタがトナカイに入れ替わったり、陰と陽をもつナマハゲ的な冬の鬼が、寛容で気前のよいおじいさんに変身したりしうる。

こうした実践の営みは、むろん今日も不断につづけられている。本書のなかでは、サンタクロースを主題にしたテーマパークや(日本にもある)、サンタクロースが国家事業化しつつあるフィンランドのようすなど、観光人類学的な知見も紹介されているが、これらもまた、サンタクロースという既存のイメージに身をまかせつつも、それを内側から編みかえていく例だといえるだろう。

だから、本書が教えてくれるのは、たんにサンタクロースの由来物語というだけではない。クリスマスという習俗とサンタクロースというひとつの人物像を契機として、人間がそこにどのような意味をつむぎだそうとしてきたのか、その営みが織りなすダイナミクスにほかならない。千年以上におよぶこうした営みの末裔としてわたしたちは、今年もまたクリスマスを生きるのである。

メリー・クリスマス!


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2005年12月14日

『知的生産の技術』梅棹忠夫(岩波書店)

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「「技術」と「思想」」

ここしばらく日本語ワープロ、いわゆるワープロ専用機について調べていた。ワープロ専用機は世紀転換期を境に相次いでメーカーが生産を止めてしまい、いまではほぼパソコンに吸収された格好になっている。第一号の製品が発表されたのが1978年(発売は翌年)なので、四半世紀ほどの歴史をもつことになる。80年代は、ワープロ専用機の市場が形づくられ普及していった時期にあたり、その過程で、「ワープロ啓蒙書」とぼくが名づけた性格の書物がいくつも出版されている。

この手の啓蒙書は、操作の仕方を教えることを目的としたマニュアル本とは、似て非なるものである。むろん啓蒙書にもそうした操作方法のようなことも書いてはある。だが、それはあくまで表層の一部分でしかない。その真髄は、ワープロの普及啓蒙という「ミッション」をになうという絶対の使命感に裏打ちされた語り口と身ごなしにある。全編を貫くのは、ワープロが、たんに事務効率向上に寄与するにとどまらず、文化的・文明的に真の革新をもたらすものだという不動の信念にほかならない。ついつい、宣教師や一八世紀的知識人といった啓蒙の歴史を連想してしまうのも無理からぬところだ。

ワープロ啓蒙書の言説空間は中高年男性の語りに支配されている。一歩先んじている少数の中高年男性による、出遅れているその他多数の中高年男性のための言説であって、それを支えているのが新書という出版形態である。で、ここでワープロ啓蒙家たちの参照軸となったのが、梅棹忠夫の名著『知的生産の技術』である。

1969(昭和44)年に出版されたこの本のなかで梅棹は、メモの取り方から文章の組みたて方までに言及しつつ、日本語を機械で「執筆」することについて、「ペンからタイプライターへ」と題された一章を割き、自身の遍歴を披露した。梅棹は手書き執筆を嫌ったものの、漢字かな混じりの日本語文は西欧のようにタイプライターで気軽に執筆するわけにはいかなかった。そこで初めのうちは、ふつうの欧文タイプライターでローマ字で文章を書いた。ついでカタカナの活字を搭載したカナモジ・タイプライターに移り、最後はひらかなタイプライターの活用するにいたった。そしてカタカナとひらがなが打てるタイプライターが理想だが、それではタイプライターのキーが収まらない。これを解決する方法を編みだせば一大発明だ、と結ばれている。

ワープロ啓蒙家たちが反応したのはここである。かれらの目には、日本語ワープロの登場はまさにその「一大発明」だと映ったのだ。そして個人で買うにはまだ高価だったワープロを購入し、慣れないキーボードに向かって打鍵法を習得した。そして、住所録とか蔵書目録とかをいろいろと打ち込んだり、ワープロを自前の秘書に見立てたり、メモをならべかえて文章をつくっていく仕方などを享受/教授しつつ、「知的生産」とその啓蒙にいそしんだ。ワープロ啓蒙家たちは、梅棹と問題領域を共有し、それを発展させつつあった。そのつもりであっただろう。

ところが、かれらワープロ啓蒙家たちの期待を裏切って、梅棹はのちに日本語ワープロ専用機を批判する。その論点は、日本語ワープロの普及によって固い漢語をやたら乱発する日本語文が氾濫し、結果日本語の平明化を反動的に助長することになったというものであった(梅棹忠夫『日本語と事務革命』くもん出版、1988年)。

両者は、このように、見事にすれ違ったのだった。

その理由はどこにあるだろうか? 梅棹が「執筆」の機械化を実践するようになった理由をよく読みなおしてみよう。なぜタイプライターか。それには事務能率的な理由だけでなく美学的な理由があるという。前者は手書きより速くて楽という点に尽きる。後者は複雑だ。日本では文字は美的鑑賞の対象であるばかりか、筆跡は人柄を反映するという迷信すらある。少なくとも筆跡に個性は拭いがたい。分身を見ているようで気持ち悪い。だから個性を消すために、「手紙でもなんでも、字を書くかわりに機械をたたく」ことにした、というのだ。

つまり、梅棹の関心が向かっていたのは、タイプライターによって打ちだされてくる文字の脱個性の美しさであり、ローマ字タイプによって言葉の選び方に慎重となったことであり、わかちがちを心がけることによって文体が簡潔明瞭になったことである。すなわち「奇妙なことだが、字を書くための筆墨類としては、タイプライターという、もっとも非伝統的な種類の道具のおかげで、わたしはかえって、日本語の伝統のなかにふかくのめりこんでいったのである」。別の言い方をすれば、梅棹の関心は、タイプライターのうえを素通りしていた。そして、執筆されるべき文章に向かっていた。タイプライターはあくまでツールにしかすぎず、この機械そのものには相対的にさして大きな関心を振り向けてはいなかった。

ローマ字タイプであれカナモジやひらかなタイプであれワープロのかな入力であれ、それがたんに当時の技術的制約のなかで最大限可能になったという意味での「先端的」な実践にすぎないのだとしたら、それはどこまでも眼前のテクノロジーや日本語のあり方を所与の前提とした枠組みのなかにとどまるだろう。多くのワープロ啓蒙家の視線は、テクノロジーに収斂していた。漢字かな変換を可能にする電子的なテクノロジーと、キーボードを打鍵して「執筆」するという身体のテクノロジー、そしてそれら二つのテクノロジーの接続である。かれらはそうしたテクノロジーの「快楽」を唱えはしたが、眼前の日本語文の成り立ちそのものについてはなにもクリティカルな言葉を残していない。その射程の違いが、梅棹と、「梅棹フォロワーズ」たるワープロ啓蒙家とのあいだに横たわる決定的な断層だった。梅棹の実践は、より「合理的」で「論理的」な日本語表記法の確立という志向に裏打ちされていた。だから、ローマ字論やカナモジ論といった、日本語にたいし、その表記そのものに改変の可能性を突きつけていく試みと一体だったのだ。

『知的生産の技術』は、執筆当時の技術的風景が根こそぎ変わってしまった今日でも、なお古びることなく読み継がれている。それを可能にしているのは、梅棹のいう「技術」が、徹底して「思想」と不可分一体となった実践であるからだ。そのしなやかな強靱さが、本書の魅力の源泉を満たしている。

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