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2005年09月29日

『複製技術時代の芸術』ヴァルター・ベンヤミン(晶文社)

複製技術時代の芸術 →bookwebで購入

「メディアは「遊び」である」

 迷ったとき、行き詰まったとき、見通しが利かなくなったとき。そんなとき、幾度も読んだ本をまた開いてみたくなる。ぼくにとって、それはしばしばベンヤミンの著作だ。先日も「複製技術時代の芸術作品」を再読した。

 「複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである」というキーフレーズでよく知られるこの論文は、芸術作品が技術的に複製可能になる過程を、作品のもつ権威や鑑賞の一回性の喪失と捉え、それにともなう芸術とひとびととの関係が、礼拝的価値から展示的価値へと劇的に変容することを示したものだ。

 この論文が書かれたのは、1930年代半ばのことだ(三つの稿がある)。ハリウッド映画をはじめとするアメリカ産の商業映画に「大衆」が熱狂した時代であり、同時代の知識人たちも映画に注目していた。そのなかにあってこの論文が特異なのは、(たとえばホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』のように)文化産業による搾取や文化の低俗化のプロセスとして嘆息するのではなく、まさにそうした事態そのもののなかに、社会の決定的的な断層を読みとり、新しい複製技術の内側から社会を再編成していく理論的可能性を見出していたことにある。

 古典中の古典ともいうべきこの論文にかんしては、すでに無数の言が積み重ねられている。ただぼくには、この論文のいちばん基底のところで、よくわからない点があった。システムへの隷属とその内破的変革といういかにもベンヤミンらしい弁証法的な構図は、いったい何によって担保されているのか。

 だが、今回はたと気がついた。「遊戯」(シュピール)だ。一回性が肝要だった従来の芸術は、自然を制御することをめざしていた。ところが、映画のような新しい複製技術の根源は遊戯性にある。かれはちゃんとそう述べている。ベンヤミンはこの言葉をわりあいあっさり登場させているけれど、これはもしかしたら「アウラの喪失」よりもずっと重要な指摘かもしれない。

 遊戯性、遊びの感覚。それは「儀式」とか「正義」とか「権威」とかといった目的に奉仕する合目的なものではない。遊戯とは、広い意味での何らかのルールにしたがってゲームを遂行していくことであり、しいていえば、戯れ遊ぶことそれ自身を目的にするものだ。と同時に、ゲームの遂行とは、そのルールを逸脱し、ズラし、書き換え、新しいゲームを編みだしていくことでもある。ルールとは(ヴィトゲンシュタイン=クリプキが述べたように)つねに無根拠なものだからだ。

 複製技術において志向されているのは自然と人間との共同の遊戯であり、いまや芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することにある。映画という新しい技術のシステムと密接に関係する新しい知覚や心性を、まずここに適合させていくことで、逆に、いまはそのシステムの奴隷となってしまっている現状を変革していくことを可能にする。それがベンヤミンの見立てなのだ。ベンヤミンは、メディアの根源に「遊び」を見出した最初のひとであるということができるだろう。

 「遊戯」という言葉にぼくが反応してしまったのには理由がある。ぼくはいま、仲間たちと一緒に、メディアを「実践すること」の地平から組みたて直すことを試みようとしている。それは、大学院生時代から参加してきた「メルプロジェクト」 (MELL: Media Expression, Learning and Literacy) の活動のなかで考えはじめたことだ。もしベンヤミンがいうように、複製技術の根源に遊戯性が坐しているのだとしたら、その遊戯性は、メディアにかかわる実践とも深く関係しているはずだ。そこから、メディアとひとびとの関係を解きほぐし、再編成していくことの契機へとつなげられるのではないか。

 なお「複製技術時代の芸術作品」には複数の邦訳がある。もっともよく知られている晶文社版の著作集での佐々木基一訳が単行本化されているので、それをあげておいた。久保哲司訳(『ベンヤミン・コレクション1近代の意味』ちくま学芸文庫、所収)は、もっとも新しい訳。個人的には野村修訳(『ボードレール他五篇』岩波文庫、所収)が好きだが、いずれも良い訳だとおもう。



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