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2012年09月17日

『評伝ナンシー関 「心に一人のナンシーを」』横田増生(朝日新聞出版)

評伝ナンシー関 「心に一人のナンシーを」 →bookwebで購入

「サブカルという枠組みから抜け出すために」


 本書を最初に書店で見つけたとき、軽い警戒感を抱いた。あのナンシー関の「評伝」だって?それはちょっとおかしくないか? ナンシー関と言ったら、テレビの表層を読み取ることに長けた批評家として尊敬されてきたはずだ。どんなにうまい役者や歌手だったとしても、どんなに立派な人格の人間だったとしても、テレビはその深みを持った技能や人格を裁断して、薄っぺらな四角形のなかに閉じ込めてしまう。だからナンシー関は、そうしたテレビの向こう側に深みを持った人間の暮らしや人格を読み取るのではなく、テレビの表層自体において彼らがどう生きようとしているかを感じ取ろうとした(そして彼らの顔を消しゴムの表面に彫った)。だから、ナンシー関論を書こうとする者もまた、彼女の仕事の表層にとどまって批評するべきではないのか。私はそう信じてきた。

 本書の著者・横田増生も、そうしたナンシー関の思想を彼女自身の自己解説の評言「顔面至上主義」を引いて、的確に紹介している。「テレビに映った時につまらなければ、それは『つまらない』である。何故、見せている以外のところまで推し測って同情してやらなければいけないのだ。そこで私は顔面至上主義を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが『顔面至上主義』なのだ」(本書、242頁。『何を今さら』からの引用)。だから繰り返すが、ナンシー関について書く者も、彼女の文章とハンコを「目を皿のようにして」見て、それ以外の素顔を「推し測って」はいけないのではないか。私はそう思ってきた。

 ところが本書は、彼女と親交のあったリリー・フランキー、いとうせいこう、えのきどいちろう、大月隆寛、町山広美、川勝正幸といった物書き連中や、各雑誌・書籍の担当編集者といった仕事関連の知人たちだけでなく、妹や母親など家族や古くからの友人、それに小・中・高校時代のクラスメートにまでインタビューして、まさに「評伝」の名にふさわしく、ナンシー関の知られざる「素顔」に迫っていこうとする。小学校時代はどんな生徒だったか、海外旅行ではどんな風に振る舞ったか、カラオケ好きはいつ始まったか、なぜ3年もかけて運転免許を取ったのか、デブであることを本人はどう思っていたか。そういった彼女の批評とは一見無関係な領域に踏み込んで、彼女の人間像を「推し測って」いく。

 だから本書は当然私にとってつまらないものになったかと言えば、予想に反して実に面白かったのである。そうした綿密な取材を通して明らかにされたナンシー関の等身大の「素顔」は、むしろ彼女の文章と消しゴム版画だけにこだわった私などが作り上げてきた「天才」神話を相対化して、新しいナンシー関像を作り出し、それをある歴史的環境のなかに置くことに成功したように思う。例えば、所ジョージ、ビートたけしのオールナイトニッポンや『ビックリハウス』に投稿して採用されては喜んでいた青森の女子高校生が、東京に出て来て『ビックリハウス』の編集部に消しゴム版画をお菓子の缶に詰めてやってきたもののどう売り込んでよいかわからずにろくに口もきけなかったという挿話は、単にナンシー関が成功にいたるまでの個人的苦労話というよりも、サブカルチャーが若者の等身大の生活の延長として輝いていた、70年代半ばから80年代前半までのメディア文化的風景(投稿文化)を見事に描き出しているように思えた。

 小学校時代、友だちの教科書にパラパラ漫画を描いてやって楽しませるナンシー。中学時代、郷ひろみファンの友人に、紙粘土で「お化けのロック」のキャラクターをつけた黒いフェルトの巾着を作ってプレゼントするナンシー。プロになってからも、飲み会の席でいつもインクセットとジャイアント馬場や皇室の消しゴム版画を持っていて、初対面の人でもあいさつ代わりに押してやるナンシー。こうした数々の挿話は、ナンシーの消しゴム版画が、暮らしの手垢にまみれた有名人のイメージを批評的に具象化することによって(先生の物真似をして級友を喜ばせるときと同じように)周囲を喜ばす友愛的な付き合いの感覚に満ちていることを改めて教えてくれる。

 だからそれは、公共の場で美の才能を競いあうような、近代的な意味での芸術作品とは決定的に違っている。消しゴムという身近な道具を使って、誰もがメディアで知っている人物の顔をデフォルメして彫ってハンコとして押し、厳しい目で観察した人物評を書いて周囲の人を喜ばすこと。むしろそれは人類学で言う「野生の思考」とでも呼ぶべき、具体的な知恵に満ちた、暮らしに根差し、暮らしを批評的に揺るがしながらも、そこから離れて自らを光輝かせるよりも、暮らしのなかに再び飲みこまれていくことを望んでいるフォークアートのようだ。だからそれは、ウォ―ホールがマリリン・モンローのイメージを使ってポップアート作品を作るのとは違っている。

 このようなナンシー関のフォークアート性が本書で見事なまでに明らかになったのは、著者がナンシー関を尊敬していながらも、まるごと彼女そっくりにサブカルチャーに浸ってこなかった(あるいはそう偽ってないから)だろう。著者が本書の中盤で、自己告白的に書いていることが実に興味深い。「これまでサブカルチャーと縁遠かった私は、この本を書く準備をするうちに、はじめてムーンライダーズを知り、ナンシーが愛したという『ジャブ・アップ・ファミリー』やアルバム『火の玉ボーイ』などを繰り返し聞いた。正直言って(中略)どこがいいのだろうか、と戸惑う気持ちは今でも変わりない。ナンシーが愛読した『ビックリハウス』や『スタジオボイス』を読んでも、その魅力が十分に分かったとは言い難かった。」(167頁)

 つまり横田増生は、ナンシー関を深く尊敬しながらも、彼女がそれに憧れ、そこに所属していた80年代的なサブカル文化圏からは批評的な距離を置いて、正統的なインタビュー調査・資料調査でナンシー関の人生と仕事を調べ直した。それが、「オレはナンシー関のことをわかってるぜ」といったような気分を無理に突っ張り通すようなサブカル批評とは異なった、反メディア的で友愛的なナンシー関像を生み出した。それは私たちが、70年代以降日本社会に若者文化・メディア文化として繁茂し、現在明らかに凋落の過程にありながらも相変わらずそこから抜け出せないでいる「サブカルチャー」という文化的枠組みから抜け出すための大いなるヒントとなっているような気がした。いかにして私たちは「サブカル」の遺産を受け継ぎつつも、それを風通しの良い広場に持ち出したらよいのか。それを真剣に考えてみたいと思わせてくれた。だから、実に良い本だった。


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2010年10月05日

『中国文化大革命の大宣伝(上)』草森紳一(芸術新聞社)

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「「革命」に抗って、具体的に観察し、書くこと」

草森紳一は、どこまでも具体的に語ろうとする。ある一つの平凡な出来事に関する執拗なまでに詳細な描写が、いつの間にか抽象的・論理的な思考に結び付いていくところに彼の文章の独特の魅力がある。例えば、児童遊園(公園)を子供向きに設計する大人たちの欺瞞を暴くことを企図した連作エッセイ集『子供の場所』(晶文社、1975年)を読んで驚くのは、草森が公園で偶然に見かけたにすぎない一つの出来事をああでもない、こうでもないと延々と細かく思い返しつつ掘り下げていく、その文章の独特のうねり方である。

  例えば。小学校の校庭でゴムボールの投げっこをしていた三人の低学年の少年たちを彼が何気なく見ていると、ひとりがボールを取り損ねて小さな池へと落してしまうというアクシデントが起きる。しかし彼らはすかさず機転を働かせて、手で水を掬っては波を作って向こう岸へとボールをたどり着かせることに成功する(つまり、アクシデントへの対応それ自体が遊びなのだ)。と思う間もなく、その過程で池の中にボウフラを発見したので、子供たちはボールのことを忘れたかのようにボウフラと戯れはじめたという。
このさりげない出来事の繊細な観察を通して、草森は大人がいかなる計画を持って校庭に池を備えたとしても、決して子供がこのようにボールを池に落とすことも、ボウフラが池に沸いているのを喜ぶことも予想しなかっただろうと述べる。子供の遊びの自在性は、必ず大人の企みを超えるところに現れるのであり、だからいかなる子供向けの空間設計も欺瞞的である。これが草森の主張である。

しかし、このような主張が説得性を持っているのは、決してそれが論理的に正しいからではなく、草森自身がそれを、文章を自在に書くという行為として、いままさにそこで実践しているからである。草森は、児童遊園の分析を、子供たちが一般的にどう遊んでいるかを網羅的、実証的に探ることによってではなく、ただ彼が偶然遭遇したにすぎない一回限りの出来事の固有の表情を文学的に掴みとる作業によって行っていく。つまり草森は、ボールからボウフラへと関心を移行させてしまう子供のように、自由自在に思考を働かせながらこの文章を書いているのだ(むろんそれは決して子供のように気楽な遊びではないけれど)。

『中国文化大革命の大宣伝』という、雑誌『広告批評』に10年余りにわたって(1989年から1999年)連載された後に、2008年の著者の死後に編まれた上下2巻で1000頁を超えるこの大著においても、基本的な視座や方法は『子供の場所』の場合と同様である。ここでもまた文化大革命は、それをいかに人びとが経験したかという個々の具体的な出来事の描写を通して(ここでは直接見るわけにはいかないので、さまざまな体験者たちの回想録を利用して)延々と論じられていく。だから、文化大革命は毛沢東によって仕掛けられた権力闘争にすぎなかったのだ、といったような抽象的な大文字の結論からは最も隔たった自由な場所で、あくまで小文字で具体的な出来事として革命の諸相が描かれている。逆に言えば、文化大革命の可能性を大文字で切って捨てる人びとの思考の暴力性は、大文字のイデオロギー(毛沢東思想)に囚われた人びとが自分たちの具体的な生活を破壊していった文化大革命という暴力性に通じるところがあるということだ。つまりそれは、決して私たちと無縁ではない。

実際、本書を読みながら私が何度も思ったのは、これは実際に日本ですでに起きてしまったのかもしれないという奇妙な既視感である。文化大革命は、毛沢東の四旧打破(旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣)のスローガンに応じて、中学生を中心とする紅衛兵(子供たち)が、デパート、クリーニング店、高級レストラン、理髪店、写真材料店、古本屋、骨董屋、漢方店といった商店の看板を取り壊したり、通りや市場の歴史ある名前を「革命大路」などと改名したり、教会や寺院を破壊したり、墓地を荒らしたり(氏族支配の象徴として)、ブルジョワ的とみなした大人たちを路上や檀上に集団で引きずり出しては侮辱し、狼藉を加えたりといった、既存の旧文化を徹底的に破壊する残忍で暴力的な運動だった。

日本でも同時代に大学生を中心とした若者が、既存の社会秩序を破壊したいという欲望に根差したような暴力闘争を確かに起こしたとはいえ、このような子供たちによる大規模な文化破壊があったわけではむろんない(むろん下放もなかった)。しかし同じ60年代から70年代にかけて、大衆的なメディア文化の圧倒的な隆盛が生じ、そのイメージ文化の影響下でそれ以前の伝統的な日本文化が私たちの暮らしから縁遠いものに見えるようになっていったことも間違いあるまい。その後、古臭い演歌や大衆演劇などの文化よりもユーミンのアメリカ流ポップスやトレンディドラマの消費生活の方がよほど自分たちの身体や生活に馴染んだ文化になってしまったということは、私たちは無血の「文化大革命」に知らずして成功(?)してしまったということを意味してないだろうか。私たちはメディア文化という観念的イメージの罠にはまって、伝統的に受け継がれた文化的現実の具体性を生きることができなくなっている。それは日本の文化大革命の悲劇ではないのか(これは草森さんが書いていることではないですが)。

だから本書の主題としての、空虚な広告宣伝としての文化大革命というところを読んでいても、私が思い浮かべたのは、やはり日本のことだった。例えば「大寨に学べ」というスローガンで有名な、人口わずか五百人足らずの小村・大寨にまつわるエピソード。この農村が飛躍的な生産力の向上に成功したということで、政府がモデル農村として世界中に宣伝した結果、この村には一日二万人が聖地詣でとして訪問するようになってしまった。そこで政府は五百人収容のホテルを建てて、そこに泊まった客は劇場で生産力アップを解説した映画を見せられ、段々畑で働くやらせの農民を眺め、貯水池やダムを見物する。かつて洞窟に住んでいた農民たちも2階建てのアパート暮らしに変わる。つまり村全体の生活が、宣伝映画のセットのようにただの空虚なイメージになってしまったのだ。

確かに、何と空虚なことよと思う。しかし私はこれを読んですぐに、同じ『広告批評』がかつて面白がって紹介していたTV番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』のことを思い出してしまった。閑古鳥が鳴いている商店街にCMディレクターの川崎徹が訪れて復興計画を練りあげ、たけしの招き猫人形などを設置し、番組の現地収録をテレビで予告すると、観光客がその日の前後にどっと何万人と訪れることになる。しかし番組が放映されなくなると、たちまち元の閑古鳥商店街に戻ってしまう。むろんこの番組が狙ったのは、そうした空虚なメディア文化現象としてのテレビそれ自体を嗤うことである。テレビによる人気とは何と空虚なものかとテレビ自体が批評するところに面白さがあったわけだ。

しかし現実にいま全国の自治体が行っていることは、こうした空虚なメディア文化に頼って自らの地域を観光地化したり、名産品をでっちあげたりすることに他ならないだろう。つまり、私たちはまさに空虚なイメージの罠にはまりこんで、誰も抜け出すことができないかのようなのだ。誰もが冗談でもいいから自分の街が映画セットのようになることを夢見ている。とするならば、「大寨」というシミュラークル農村は、決して他人事ではない。中国が文化大革命を通して示した空虚なイデオロギー的現実は、いまや私たちの資本主義の文化そのものなのだ。

そのほか、毛沢東がパキスタン外相からもらった果実マンゴーが聖遺物のように全国を巡回して蝋による模造品まで作られたという挿話や、『毛沢東語録』の暗唱のスピード競争大会が開かれて、逆さまに暗唱する達人までが現れてしまったという挿話や、「二万五千里「長征」紀念マラソン」と称して、学校一周八百メートルをクラス四十七人が回るのを総計していって三か月で二万五千里というノルマ達成の早さを小学生たちが競ったという挿話など、いずれも私は単純に笑うことはできなかった。いま私たちが資本主義的競争のなかで、それぞれの会社が人びとに課しているノルマもまた同じくらい空虚なものに感じているからだ。例えばいま偶然手元にあるのだが、「アルコール度数0.00%」の偽ビールをアイディアとして思いつき、製品として作り出し、そのような宣伝文句を考えていく過程は(本人たちは成功していると思っていることも含めて)、ただ空虚というしかないだろう。私たちの現実は文化大革命のように空虚な宣伝的現実なのではないか。そんなことばかり考えてしまった。

・・・むろん、草森紳一はそのような挿話を一つ一つ丁寧に、その空虚な馬鹿馬鹿しさを実際に生きぬいてしまった人びとの視座に立って、笑いつつ、呪いつつ、しかしあくまで具体性をもって丁寧に描いていく。そしてそのことを通して、文化大革命という観念の罠を払いのけようとする。だから読者はここで決して全体像としての「文化大革命」とは何だったのかを知ることはできない。どこまでも具体的な悲惨を読み続けるのである。その作業を10年間も続けるという草森の執念には今さらながら驚くしかない。


(注記1)なお、『子供の場所』に関しては、大竹昭子氏の「目玉の人草森紳一と写真 相手に見られずに見ていたい(その2)」http://members3.jcom.home.ne.jp/kusamori_lib/medama2.htmlに素晴らしい紹介を読むことができる。この書評空間の同氏ブログでも、追悼文の意味を込めた『随筆 本が崩れる』(文春新書)の書評を2008年6月の頁で読める。
(注記2)正直言って、まだこの大著の下巻の最初の方までしか読んでいません。上巻への批評としてお読みください。


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2010年09月18日

『「アンアン」1970』赤木洋一(平凡社新書)

「アンアン」1970 →bookwebで購入

「負け組としての『アンアン』」

 『アンアン』と言っても、私には今まで反感を持ったという記憶しかない。70年代に『アンアン』(平凡出版)と『ノンノ』(集英社)という大判の女性グラビア雑誌を手にした若い女性たちが、その雑誌のモデルたちと同じ洋服を着こみ、その雑誌に紹介された通りに鎌倉や京都に旅行し、そして記事で紹介された店で買い物や食事をするという何とも主体性のない姿を、当時の人びとが「アンノン族」と揶揄したのを聞いてしまったからだと思う。ロマンチックなイメージで現実に覆いを被せて消費しようとする女性たちの姿といい、メディアが紹介した店に観光客が押し寄せるメディア消費社会のメカニズムといい、その後現在まで続くこの社会の風景を作り出した起源として、1970年の『アンアン』の創刊は確かに事件だった。

 だから私は『平凡パンチ』と『アンアン』の両方の創刊に編集社員として関わったという著者・赤木洋一が、60年代の平凡社の雑誌作りをめぐる挿話を回顧的に描いた連作である、『平凡パンチ1964』(平凡社新書、2004年)と本書『「アンアン」1970』(平凡社新書、2007年)をまとめて手に取ったときも、どこか嫌々ながらという警戒心があった。表紙カバーのそで部分に「パリのエスプリ漂う新しい女性誌作りに、天才AD堀内誠一をはじめとする気鋭のクリエイターたちが大奮闘!」とか「女性誌のあり方を変えた『アンアン』誕生の現場が甦る!」といった宣伝惹句が書いてあるのを見て、ますます嫌な感じがしてしまった。こっちは、この書評ブログでここ数回、70年代の関西的手作り文化の本を何冊か紹介して、『アンアン』が同時代に作り出したようなイメージ消費文化を批判してきたつもりだったのだ。だから「敵情視察」といったような構えた気分で私はこの2冊を手にするしかなかった。

 ところが読んでびっくり。そこには予想とはまったく違う光景が広がっていて、私の警戒心はみるみる解けていった。赤木洋一と言うこの著者の人間観察力とエピソードの描写力が実にしっかりしていて、ぐいぐいと引っ張られるように面白く読めてしまう。何より回顧談というのに自慢話をしないのがいい。確かに成功者たちの若かりし姿が描かれているのだが、決して後からそう見えるような成功者として彼らを神話化して描くことがない。まだ成功するかどうかわからない不安と混沌に満ちた創刊時の状況を、自分にとって恥ずかしい軋轢や失敗までをも含めて冷静に描き出していく。いや実際に70年に創刊してから、評判はいいのに全然売れずに赤字に苦しんでいた最初の2年間のことだけが書かれ、73年以降会社を支える雑誌に大化けしていく成功した『アンアン』のことにはほとんど触れようとはしないのだから、著者の姿勢は潔いほどだ。だからこれは、いわば負け組としての『アンアン』の物語である。

 例えば創刊の噂を聞きつけた『装苑』(文化出版)の編集者に、「ファッション誌を出すんですって? おたくに型紙の校正ができる編集者がいるの?」と言われたというエピソード(41頁)。その頃の洋服は、洋装店で仕立てるか、ミシンを使って自分で縫うものだった。当然ファッション雑誌には、読者が自分たちの服を作るための型紙が必須だった。むしろデパートなどで陳列されている既製服は、「実用」とか「野暮」というイメージしかなく、「ブラ下がり」と呼ばれて侮蔑されていた。著者もパリの取材では自分ひとりのためにモデルが入れ替わり出てくるオートクチュールを経験する。そちらこそがファッション文化の王道だった。つまり『アンアン』が提起しようとしていた若い女性向けの既製服文化は、まだ社会のなかに占めるべき位置を持っていなかったのだ。だからこそ最初は、読者がついてこられなくて売れなかった(実際、まだ雑誌に掲載しても売られる服の数が少なかった)。

 むろん、だからこそ『アンアン』は先駆者だったのだ、と後からは見える。そしてその成功に反感を持って人びとは「アンノン族」などといった揶揄の言葉を投げかけた。しかしそのような『アンアン』の一般的イメージこそ、まさに私が敵視しようとするメディア化された空虚なイメージにほかなるまい。しかし逆説的なことに、そうした空虚なイメージ文化の勝者『アンアン』を描いた本書は、私のそうした神話的イメージを解体するような具体性の力を持っている。

 そういう力を本書に与えているのは、(先述したが)赤木洋一のしっかりした人物観察力だと思う。例えば、堀内誠一に連れられて、パリから連れてきた専属モデル・ベロとスタイリスト・原由美子(原敬の孫)の四人で鎌倉の澁澤龍彦邸を突然訪ねたときの描写を見てみよう(155-6頁)。

 ・・・澁澤さんは気さくな、と言うか人柄の良さが顔に出ているようなヒトだった。著書などから想像していた気難しい学者タイプ、というぼくの予想はまったく外れたというわけだ。/堀内さん以外の三人とは初めて会ったのに、形式的な挨拶は何もない。かといって三人が無視されているわけでもない。何と言ったらいいのか、最初からウチワのヒト、とでもいうような扱いなのだ。(中略)/酒が出てしばらく飲んでいるうちに、澁澤さんが遠来のパリジェンヌを歓迎すると言いだし、立ち上がってオペレッタを歌い始めた。楽しそうに、軽妙に。

 思わずどこまでも引用を続けたくなってしまう。そのときその場でしか味わえない、独特の雰囲気が見事に描写されているからだ。このようなかけがえのない場の空気や時間こそが、『アンアン』によって流通していく、鎌倉だのルイヴィトンだのパリだのをめぐる「メディア・イメージ」によって失われてしまった、もう一つの文化だと言えるだろう。そうしたもう一つの文化を味わう力を、本書は教えてくれる。もう1冊の『平凡パンチ1964』でも、岩堀喜之助、石原裕次郎、伊丹十三などの飛び切りの挿話が楽しめる。両者を併せて読まれることを薦めたい。
 


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2010年08月27日

『肴(あて)のある旅─神戸居酒屋巡回記』中村 よお(創元社)

肴(あて)のある旅─神戸居酒屋巡回記 →bookwebで購入

「居酒屋という街の文化を味わい尽くす」

 絶品である。実に味わい深い本だ。そして何とも不思議な読書体験だった。いったい何でこんな本を私が読まなければならないのだろうと何度も訝りながらも、あまりの面白さについつい頁が進んでしまい、気が付いたら読み終わってしまった(旨いお酒みたいに)。
 なぜ不思議なのか。何せ本書は、著者・中村よおが自分の地元の街・神戸でいつも日常的に愛用しているさまざまな個性的な居酒屋の紹介が、八島食堂中店(元町)、藤原(二宮)、高田屋旭店(王子公園)といった具合に延々と書いてあるだけの本だからだ。本の最後には紹介された店の住所・連絡先の一覧表も掲載されているのだから、本書が飲酒店のガイドブックの役割を担っていることは間違いない。ところが私はといえば、千葉に住んでいて、神戸に行く機会などほとんどないのだから、ガイド本としては私にはまるで意味がないのである。だからここに紹介された、料理が旨くて雰囲気が良さそうな居酒屋の数々に私は今後も行かないだろう。だから読んだって意味ないぞと私の脳は繰り返し私に向かって言うのだが、私の身体は、麻薬の快楽に取りつかれたかのように読みたい欲望を断ち切ることができなかった。

 では、何がそんなに気持ちよいのか。第一に、店の場所の紹介の仕方がいい。

 阪急電車の王子公園駅東口を南側に降りて、東へ少し歩いたところからさらに東に向かって続く水道筋商店街。駅の方から歩くと六丁目から始まるその商店街の東の端である一丁目にこの店はある。(高田屋旭店一色屋(王子公園))

 居酒屋の場所が、その店へ実際に歩いて行く人の身体感覚から紹介されているだろう。「東へ少し歩いたところ」から「さらに東に向かって続く」という表現では、その場所に行ったことのない人間にはよく分からない。しかし、実際にその場所で道案内するときや、同じ地元の人間が会話するときのように、その街のイメージを共有している人間の間ではいかにも通じやすそうな表現だろう。こういう表現で居酒屋の場所を説明されると、いま私が飲みに行くときにやっている、グーグル・マップで鳥瞰図的な視点から示されたポイントを目指して、紙を片手に見知らぬ道をうろうろしていることが悲しく思えてくる。なんて私は街の文化を知らない田舎者なんだ、と。
 第二に、中村の飲み方のスタイルもいい。友人たちと飲んだり、仕事の打ち上げで飲みに出かけたりといったふつうの飲み方だけでなく、一人で昼間から「おやつ代わりのちょっと昼酒」(118頁)と、ちょっと後ろめたい飲み方をしていて、それが実に楽しそうなのだ。

 僕も休日や、午前中で仕事が終わった日の遅い昼の時間、この店に来て、いつも大鍋でぐつぐつ旨そうに煮えているおでんで、昼間のことゆえ、よそではまずたのまない小瓶ビールをやり、しじみ汁と、もう一品、野菜の煮つけとかをもらって「小」よりまだ小さい「極小」のご飯で締めるというように過ごすのを至福の時としていた。(皆様食堂(三宮))

 この引用箇所の後、そのうち段々と大胆になって、昼間でもビールが大瓶になり、いかの塩辛をたのんでご飯をやめるようになって「飯」というよりはただの「酒」になってしまったという話が続いて、実にユーモラスで可笑しいところだ。ただのアル中だろ、という突っ込みを入れたくなるのだが、「安心した。居合わせたお客さんの全員が飲んでいた」という後ろめたさの記述がかろうじて封じてくれる。そして代わりに、中村が人生をゆったりと楽しんでいるさまがじんわりと伝わってくる。そこがいい。

 むろん、神戸という街の特殊事情も忘れてはなるまい。神戸には、「正宗屋」とか「金盃」といった酒の銘柄の名前がついた「宣伝酒場」(というのだと初めてこの本で知った)が多い。蔵元から直に酒を仕入れて、それを安価に提供して、その蔵元の酒を宣伝する飲み屋というわけだ。いまでは蔵元との関係は切れているにもかかわらず、その名前をそのまま使い続けて「正宗屋新開地店」とか「元町金盃」とか「高田屋旭店」といった、時代遅れの不思議な名前の店として生き残っているらしい。それもまた今日の趨勢とは正反対に、街の伝統を感じさせて味わい深い。

 要するに、中村よおは本書で、自分の地元の文化をたっぷりと味わうということを実践しているのである。下記の引用を読めば分かるように、彼自身そのことに自覚的であるように思う。だから本書は、ただのローカルなガイドブックであることを超えた、普遍的な魅力があるのだ。
 
 本来『文化』というのは、かしこまって対峙するものではなく、金盃ですごすひとときのように、毎日の生活のなかで自然に触れていくべきものという気がする(137頁)。

 中村は70年代にフォークシンガーとしての活動を始め、関西で地道にライブ活動を行ってきた歌手にしてDJにして音楽評論家である。私は前回紹介した『「プガジャ」の時代』(ブレーンセンター)の中で紹介されていた彼の旧著『バー70‘sで乾杯』(ビレッジブックス)をネット古本屋で購入して読んでいたく感心し(関西のライブハウスやロック喫茶などを楽しそうに紹介している)、その勢いで本書を買ってしまった。手作り感覚で自前の文化を作り出し、それを享受するという関西文化の神髄が中村の著書には脈打っている。もっと生きることの快楽に対して貪欲であっていいんじゃないか。それが文化ではないのか。そう私は叱られているようにさえ感じた。

(追記)
関西のすごい書き手を発見したと喜んでこの文章を書いたが、ブログにアップする前にちょっと不安になったので、念のため坪内祐三の大阪もの2冊を調べてみたら、ちゃんと「中村よおさんの新しいエッセイ集は、予想通り素晴らしい」という本書への賛辞(『大阪おもい』、ぴあ)があった。とても悔しい。




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2010年05月29日

『「プガジャ」の時代』大阪府立文化情報センター編(ブレーンセンター)

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「西風は東風を圧倒する。東京の情報消費文化は張子の虎だ。」

 この書評ブログでは度々、帯の宣伝文に偽りあり、と文句をつけてきた。だが本書の帯に関しては、短い文章で本書の内容が紹介されていて見事である。赤い帯に白抜きの横書き文字で「1970~80年代、大阪に熱くおもろい情報誌があった。『プレイガイドジャーナル』。」とドーンとコピー文が真ん中にあり、その右脇に少し小さく細い文字の縦書きで、「若者たちは親しみを込めて『プガジャ』と呼び、それを持って街に出た。今や伝説となった『プガジャ』をつくっていた人々の、情熱と涙の人間ドラマ!」と本書の魅力と性格を短い文章で一挙に説明し、さらに下のほうに小さな文字で、「[新なにわ塾]適塾や懐徳堂の伝統を受け継ぎ、大阪が歩んできた道を<光と影><栄光と挫折>の両面から振り返ろうとする市民講座」と本書の成立事情を正確に紹介している。

 もはやこれだけで要にして勘を得た本書の紹介になっているだろう。さすがに情報誌の編集・製作をめぐる本というだけあって、小さなスペースにさまざまな文字情報が所狭しとばかりに詰め込まれていて、ちょっとこの帯を眺めただけで、70年代末から80年代にかけて情報誌文化が爆発的に普及していった、あの時代の感覚のようなものが私の身体のなかから蘇ってくる。

 私は関西育ちではなかったので、『プレイガイドジャーナル』は読んでいなかったが、1979年から83年までの東京での大学生活の期間中、映画狂として『ぴあ』と『シティロード』(後者が東京の『プガジャ』にあたるだろう)の2誌をいつも携帯して、まだ当時はたくさんあった名画座や自主上映会の上映情報を細かく調べて、一日に2箇所、3箇所と東京中の低料金の映画館を渡り歩いたものだった。私のようにむやみとたくさん映画を見たい「おたく」にとっては、『ぴあ』のように無数の情報をクールに正確に並べてくれる雑誌が重宝だったが、同時に、情報誌でありながら「映画星取表」など批評性のある記事を載せてホットな文化発信者たろうとしていた『シティロード』の姿勢にも大いに共鳴した。『シティロード』には「情報」という言葉には還元できないような、自主製作や自主上映の映画(私自身も製作にも上映にも関わっていたくらいの大ブームだった)と同じような手作り文化の香りのようなものが漂っていて、それが心地よかったのだと思う(『ぴあ』の側もPFFという自主映画作品のフェスティヴァルを開いていたのだから、手作り文化の発信者の側面を捨てていたわけではなかった)。

 本書は、その『シティロード』の手作り文化的な性格をもっと濃くしたような、関西の情報誌『プレイガイドジャーナル』の編集に携わった人々が、自分たちが自主映画や芝居やライブの企画や運営に関わりながら、安い給料をものともせずに情報誌を手作りで作っていた現場の空気感を、市民講座というアットホームな雰囲気の講演会によって蘇らせようとした試みの記録である。語り手は、春岡勇二を中心にして、森晴樹、村上知彦、ガンジー石原、山口由美子、小堀純の6人。

 では『プレイガイドジャーナル』とは、どんな情報誌だったのか。むろん映画館、自主上映、コンサート、芝居、演芸、美術展などの一ヶ月間の予定が掲載されているという意味で『ぴあ』と同じイベント情報誌であった。ただし、『プガジャ』は『シティロード』と同様に、コラムやインタビューの頁が充実していた。私の手元に、1983年の5月号が一冊だけある。この号の目玉は、寺山修司へのインタビューで、本書中の村上知彦の話によれば、雑誌が出た5月に亡くなったのでこれが寺山修司の生前最後のインタビューになったそうだ(前回の『作家の値段』に続いてまたも偶然、寺山の死の話題だ)。コラムや漫画などの主たる連載執筆陣を見ると、蛭子能収、大森一樹、北中正和、ひさうちみちお、北村想、いしいひさいちといった楽しいメンバーで、そのほかに映画欄には、曽根中生監督のインタビューがあり、演劇関係では「第一回キャビン85戯曲賞」(日本専売公社の後援である!)の結果が発表されていて、別役実、佐藤信、秋浜悟史らの選評が載っている。まさに日本のサブカルチャーが爆発的に大衆化していくその瞬間のオーラのようなものに満ちているだろう。街へ出れば、映画、芝居、コンサートなど必ず何か面白いことが起きているという幸福な感じが雑誌全体から伝わってくる。

 だが私が本書『「プガジャ」の時代』を読んで感心したのは、そうした草莽期のサブカルチャーの生き生きした時代感覚というポイントだけではない。それは確かに面白いのだが、私がちょっとしたショックを受けたのは、第3代編集長(76-80年)山口由美子と82年から参加した春岡勇二の次のような会話である(212頁)。

春岡 この前、ギャーさんもおられたときに、あのころは、東京よりも関西のほうが面白かったって、二人で口をそろえて言いはったじゃないですか。
山口 そうよ。あの時代は絶対そうだった。私は大学へ入るとき、東京に行こうか迷っていたんだけど、東京に行かなくてよかったって、ほんとに思ったもん。

 断っておくが、私は84年から4年間大阪に住んだにもかかわらず、関西文化にまったく馴染めなかった人間だ。とりわけ大阪人たちが、東京を敵役にして口にする大阪ナショナリズム的な言説には心の底から辟易した。だから東京より関西が面白いという物言いに首肯したことはこれまで一度もない。しかし、73年に旅行会社とタイアップして、シネマテークが見たい、ヌーヴェルヴァーグの空気を吸いたいと読者35人参加のパリ旅行を敢行し、74年には同じ企画でロサンゼルスに行ってフリーマーケットを見てそれを日本に導入したという山口たちが、そんな狭い了見で「関西のほうが面白い」などといっているはずがない。ここで「関西のほうが面白かった」と言われていることは、いわゆる、東京対大阪というような二項対立の問題ではないだろう。「つまり、六〇年代の終わりから七〇年代にかけて、やりたいことは自分たちでやっていけばいいやん、という感じになったわけですよね」(213頁)。そう。自分たちが文化を作っている(手作りである)という自負心が決定的に重要だったように思うのだ。

 そう思ったとたん、何だか私は腑に落ちてしまったのだ。そういわれれば、私の大阪時代とは、関西ローカルの深夜テレビ番組に衝撃を受けた4年間だった。84年から88年にかけて毎日のように見ていた、関西ローカルの芸人や素人たちがお喋りするだけの番組群は、その後決して味わうことのできないような、絶対的な面白さに満ちていた。それは、岡林信康の『くそくらえ節』のような関西フォークや、大森一樹の自主映画作品『暗くなるまで待てない』やいしいひさいちのマンガや、他ならぬプガジャと同様の、手作り感覚の面白さが80年代テレビにも生き残っていたのだと思う。

 逆に言えば、80年代後半以降の東京のサブカルチャーは、そうした関西の手作り的なノリを失ってシステム化したことでつまらなくなったのだと思う。バブリーな東京の情報消費文化は、東京という街の暮らしから離脱して田舎者文化になってしまったから面白くなくなったのだ。ここで田舎者性というのは、いわゆる田舎とは何の関係もない。自分の暮らしから離脱して、有名なスポットしか知らないから田舎者になってしまう。『モヤモヤさまぁーず2』という東京の反-スポット主義的な街歩きテレビ番組を見れば、東京のど真ん中に大阪人のように面白いオジサンがうようよいることが分かる。私たちは、そういう東京の街の豊かなありようを知らない田舎者たちがメディア空間のなかに人工的に作り上げた、情報スポットマップを鵜呑みにすることで、暮らしと地続きの街のなかに文化があるという事実を見失っていったのだろう。

 メディア文化は街のなかにあるときにこそ面白い。それは関西であろうが、東京であろうが関係ない。いやその街に住んでいない人間であっても、そういう文化は絶対的に面白い。その当たり前の事実を、この『「ぷがじゃ」の時代』は思い出させてくれた。

追記
 本書113頁に、村上知彦の印象的な話がでてくる。1982年12月号に、村上春樹に季節に合わせて「クリスマス」という題名の掌編小説を書いてもらったという(『ニューヨーカー』っぽく)。ついでに、その後、チューハイの広告のために、大森一樹との対談までやってもらったのだという(126頁)。「プガジャ」のそんないい加減な依頼に応じていた村上春樹の話は興味深い。『ノルウェイの森』のベストセラー化は87年である。それ以前には、街の手作り文化のなかに村上春樹がいたのだ。ところで『プガジャ』の「クリスマス」だが、私の知る限りでは『象工場のハッピーエンド』(新潮文庫86年)所収のものだと思うのだが、ここには初出情報がなく、巻末対談で安西水丸に向かって、これはエッセイ集だと村上はいっている。えっ、掌編小説じゃないの?ほかにあるのだろうか。いや、手作り文化という出自を無意識的に抹消しているということはないか。



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2009年10月28日

『豆腐屋の四季 ある青春の記録』松下竜一(講談社)

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「テレビに出ることの喜びと恥ずかしさを取り戻すために」

 本屋の文庫本新刊コーナーで、本書が平積みにされているのを見た瞬間、鈍い予感が身体のなかを走った。これは何だか、とんでもなく面白そうだぞ、と。本書について何かの知識があったわけではない。帯に「永遠のベストセラー」とあるが、聞いたこともない。むろん、松下竜一という著者の名前には見覚えがある。私のなかでは、70年代から活躍してきた反公害運動のルポライターといったところだ。その著者の本が、「講談社文芸文庫」という文学臭がぷんぷんするところから出ているというミスマッチに、私は興奮したのだと思う。帯には「貧しさと恋の歓喜を短歌と文に綴った永遠のベストセラー」(鵜呑みにすれば、気持ち悪い本だ)とある。まったく内容を想像できず、ただドキドキして頁も開かずに平台に戻してしまった。実際に買ったのはその10日ほどあとだ。読んでみて、やはりとんでもなく面白かった。

 著者が本書を書いたのは、プロの物書きとなる前、大分県中津市で父親の豆腐屋を継いで生計を立てながら、朝日新聞西部版の朝日歌壇の常連として歌を投稿していた、1967年から68年にかけてのことだ。何の出版のあてもないまま、「小さな平凡な豆腐屋の、過ぎゆく一年の日々を文と歌とで綴ってみようと」決意し、そこから一年にわたって短い随筆を書き継いで行って一冊の本として自費出版された(翌年、講談社から出版されテレビドラマ化されることになるが、書いている最中はむろん分からない)。その数々の短歌と随筆から、彼の暮らし向きが見事に浮かびあがってくるのが素晴らしい。早朝2時、3時には起きて豆腐を作り、一日に4回もバイクで近くの漁港町の豆腐店にそれを卸しに運ぶという、貧しい暮らしの記録である。しかし同時に、愛する幼い妻(19歳)と共に働き、その妻が妊娠して子供を授かる日までの、幸福な生活の記録でもある。

真夜孤りの心おのずと優しくてくどの子蟻ら逃がして点火す
豆腐五十ぶちまけ倒れし暁闇を茫然と雪にまみれて帰る
臨月のかがめぬ妻に靴下をはかせてやりぬあした冷ゆれば

 暮らしのなかから生まれてくる感情をそのまま言葉として定着させたような素晴らしい歌の数々だ。深夜一人で豆腐作りをしているときの孤独感と小さな生き物への共鳴(「くど」は竈のこと)、雪のなかで転倒してせっかく作った豆腐を無駄にしてしまうときの悔しさ、臨月の妻の身体への気遣いなどがそれぞれストレートにこちらに伝わってくる。ちょうど私たちが楽しい気分になって、ふと口笛を吹いてその楽しさをメロディーとして表現して自分の感情を確かめるときのように、ここでは自分の日常生活にちょっとした彩りを与えるために短歌が歌われているように見える。それは制度化された芸術や文学が、いまここの平凡な暮らしから私たちを離脱させようとする超越的な「美」の力を持っているのとは正反対だろう。鶴見俊輔の概念を使えば、「限界芸術」と言ってもよい。だから著者は、取材に来た新聞記者に答えて「ぼくは、自分が文芸をやっているのだとは思いません。ただ、日々の生活記を歌や文の形で残そうとしているのみです。ぼくにとっていちばん大切なのは、日々の現実生活そのものです。それを充実する手段として記録に励むのです。歌人の歌には生活の根が読み取れません」(205頁)と言うのだ。
 
 こうした考え方を持つ著者は、人々の暮らしのなかの生き生きした会話を奪うテレビを憎んでいる。「家庭の夜が、こんなに悲しいものであったはずはない。夜の窓とは、ほのぼのと暖かい家庭の象徴ではなかったか。生き生きと家族の対話と笑い声が漏れ来るものではなかったか。今、窓から漏れ来るのは、テレビの音とそれに反応する無気力な笑い声なのだ。家庭の笑い声はどこに行ったのだ?」(97-98頁)、と。だから著者は、妻がテレビを見ることを原則的に禁じ、できるだけ夜の時間を二人で語り合ってすごすよう努力する。メディア空間に侵略されない、人間の生き生きした自律的な暮らしを守ろうとする。1970年代になって私たちの社会生活がすっかりテレビに覆われていく直前の、美しい抵抗として著者の暮らしは維持されている。

 だが、そうだろうか。本書が素晴らしいのは、メディアによって私たちの日常が空虚化する以前の人間の土着的な暮らしのありようを、限界芸術としての歌と随筆によって描写しているからだろうか。それはおそらく違うだろう。むしろ私が本書でいちばん感動するのは、彼の歌の素晴らしさと暮らしぶりがメディアによって注目され、彼ら自身がラジオやテレビに出演し、新聞記事に紹介され、有名人になっていく過程がここに率直な喜びと共に描かれているからである。騒動は妻の新聞投書から始まる。結婚式のときに私家版として作った夫の歌集が11部残っているのでお分けします、と家庭欄で呼びかけたところ、数日のうちに800通もの応募が来てしまったのだ(夫妻は600部の増刷と100円ずつの徴収で対応することを決める)。そして新聞社やラジオ局、テレビ局などが取材や出演依頼にやってくる。むろん暮らし第一主義者の著者は、「いかに私の歌や文がもてはやされようとも、この羞恥心だけは失いたくない」(204頁)と自分を戒める。だが私はそんな戒めよりも、彼が新聞やテレビに出たことを、親戚がみんなで素直に喜びあっている様子の描写のほうに感動する。テレビを見た親戚から電話がかかってきて「みな、泣いて観たと告げる。とてもよかった、母ちゃんが生きていたらどんなに喜んだろうなあというのだった。」(120頁)

 そう。テレビに出るというのは、そういうくすぐったいような誇らしさと恥ずかしさを孕んだものだったのではないのか。テレビに出た知人や親戚が光輝いて見え、自分までうれしくなって思わず電話をかけてしまうこと。そのようなメディアの輝きがあることを信じることが、人をして慎ましい生活を維持させるのではないか。実際、良く考えれば、著者は最初からただ自分の私的空間のなかで歌を詠んでいたのではなく、新聞というメディアに投稿してプロの選者に採択されることを目的として歌を作っていたのだった。「昭和三十七年十二月十五日から昭和四十三年十一月十日現在まで約五年十ヶ月の朝日論壇に、延べ二百九首入選、内、一位四十二首、二位三十四首です」(314頁)と著者は誇らしげに書く。つまり公的なメディア空間における卓越という輝きこそが、著者の、暮らしに密着した歌を作ることを可能にしていたのだ。著者の厳しい暮らしの支えになっていたのだ。
 
 だから現代の私たちは、本書からメディアに汚染されていなかった時代の豆腐屋の素朴な青春の記録を読み込んで、のんびりしたノスタルジーに浸ってはならないだろう。そうではなく私たちは、機械化やテレビに疑いを持つ著者が、それでも自分の慎ましい暮らしを輝かせるものとしてのメディアを信じていたことに驚くべきなのだ。それに対して現代の私たちは、「しょせんテレビなんて大したことないよ」とすれっからしの振りをするからこそ、つまりはテレビメディアへの憧れと夢を喪失してしまったからこそ、自分たちの暮らしをイメージ化させ、その実質性を失ってしまったのではないか。だから私たちは本書を通して、テレビを見ることを自らに禁じた著者の意図とは全く正反対に、いかにしたら著者の慎ましい暮らしを輝かせたテレビメディアを、再び私たちの手に取り戻せるかを考え直すべきなのだと思う。それが「永遠のベストセラー」と呼ばれる恥ずかしい本をいま読むことの意味だろう。



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2009年10月23日

『東京骨灰紀行』小沢信男(筑摩書房)

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「過去の死者たちを慰霊することが未来を開く」

 畏怖すべき傑作である。私のような無知・無粋な人間に本書を書評する資格があるのか、何度も躊躇してしまったほどだ。いや、別に難しい本というわけではない。いま流行りの、東京の歴史を訪ねての、街歩き本の一冊といってもよいだろう。文章も講談調とでもいうのか、ぶらぶらと歩きながら街の様子を軽快に語っていく感じで、いたって平明である。訪問する先は、両国回向院、小伝馬町牢屋敷跡、小塚原の刑場跡、谷中墓地、多摩霊園、東京都慰霊堂など、東京のあちこちに建てられた、死者を慰霊するための碑、供養塔、墓地など。有名人の墓地よりは、火事、震災、空襲の被災者、刑場の処刑者、遊女など無名の死者たちの慰霊碑を辿っていくところに本書の魅力がある。東京という大都市の歴史を、無数の無残な死者たちの側から見直そうというのだ。

 のっけの「ぶらり両国」から、私は打ちのめされた。まず著者は、両国駅近く、隅田川河畔の回向院を訪ねて、明暦三年(1657)に起きた、焼死十万七千人といわれる大火の慰霊塔の前にやってくる。この火事の(身元や身寄りのわからない)焼死者をまとめて慰霊するために同年、隅田川の東側に開かれたのが、他ならぬこの回向院なのだ。その2年後には、この火事のときには橋がなかったために大勢の溺死者を出ししてしまったことを教訓として隅田川に両国橋が(回向院のすぐ先に)架けられ、その周辺に見世物小屋、旅籠、飲食店が立ち並び、春は相撲、夏は花火で賑わうようになったという。なるほど火事の被災者の霊を慰める場所から江戸の芸能や賑わいは生まれ、発展して行ったのか、と、無知な私はそれだけですっかり感心するのだが、それだけでは終わらないのが本書のすごさだ。

 著者は、この明暦大火の慰霊碑の横に回って、石碑に刻まれた長い漢文の(いまや薄れた)文字を丹念に拾って写していく。「且貧窮下賤・・・・・・諸霊魂等」、「繋囚牢獄病患・・・・・・諸精霊等」、「捨市殃罰殺害・・・・・・霊魂等」と。そしてこう感想を記す。「写しとりながらたじたじとなる。大火の焼死溺死者のみならず、この江戸城下で行き倒れ、牢にぶちこまれ、殺し殺され、ろくでもない死にざまの連中すべてを、いっそまとめてひきうけるぞ、という大慈悲心の碑なのだな。」(9頁)つまりこの回向院の碑は、単に明暦大火の慰霊碑というわけではなく、江戸という都市社会から打ち捨てられたさまざまな無名の死者たち(無縁仏)をすべて慰霊する碑だったのだ(建立は大火の18年後)。じっさい著者はさらにこの碑の周囲を歩いて、安政大地震(1855年)の供養塔、回船問屋が建立した海上溺死者のための追善供養塔、牢死者・刑死者のための供養塔、水子供養や動物供養塔までもが狭いスペースに立ち並んでいるのを次々と見出していく。たったそれだけのことで、私には、現在のイメージ消費都市・東京が、無名の死者たちが埋められた場所としてまったく違った相貌で見えてくる。
 
 こうした無名の死者たちへの著者のやさしい視線は、江戸時代に吉原の遊女たちが2万5千体も投げ込まれたという千住・浄閑寺の「吉原総慰霊塔」や、頻発する交通事故死者たちを悼むために1969年に築地・本願寺に建てられた「陸上交通殉難者追悼之碑」や、明治期の行路病者の引き受け所「養育院」の無縁の死者たち3,672名を弔った谷中墓地の「東京市養育院義葬」など、東京の裏の歴史を見せてくれるような慰霊碑をあちこちに見出していく。だが、そのような過去の死者たちへの視線は、決して過去へのノスタルジックな思いに浸っているというわけではない。反対に著者は、いかに過去の死者たちを悼むかが、未来の私たちの社会を形作っていくと考えているようなのだ。だから彼はどの慰霊碑を見るときも、それらがいつ、誰によって、どのように建立され、どのように保存されてきたかという観察を怠ろうとはしない。だから本書は無名の死者たちの歴史というより、その死者たちを慰霊してきた都市の歴史になっている。

 その著者の意思を最も直接的に教えてくれるのが、本書のなかにいささか違ったトーンを持ち込んでいる、地下鉄サリン事件をめぐる築地・聖路加国際病院のエピソードである。地下鉄サリン事件による死者が12人で済んだのは、実はこの聖路加国際病院の尋常でない救出活動があったからだと言う。一歩間違えれば死者数百人という可能性もあったのだ。いかにそれが防げたのか。最も多くの被害者が出たのが、秋葉原駅でサリンを撒かれ、小伝馬町駅ではホームに袋が蹴りだされ、築地駅(病院の最寄駅)でようやく止まった日比谷線の中目黒行き電車(全被災者5,510名のうち2,475名)だった。この電車の大勢の被災者を院長の命令の下に迅速に受け入れ(640名)、他のすべての診療を中止して1000人以上の職員で治療にあたったのが、この聖路加国際病院だった。実はその3年前に新館を建てたとき、こういう非常災害時に大勢の患者を一度に治療できるように、酸素吸入装置を据え付けた礼拝堂を臨時治療所用に作ってあったのだ。そしてそこに、松本サリン事件の治療に当たった医師が、テレビで事件の様子を見て、被災者の症状がサリン中毒の症状と酷似していることを知らせてくるという幸運が重なったために、奇跡的に、原因不明のままサリン解毒剤を使った治療が可能になって多くの命が救われた(この病院での死者は1名のみ)。
 
 なぜそんな礼拝堂を作ってあったのか。それは院長・日野原重明が過去の苦い経験にこだわっていたからである。1945年3月10日の東京大空襲のとき、33歳の内科医だった日野原は数多の罹災者たちに満足な治療ができないまま死なれて悔しい思いをした。だから新館建築のとき周囲の反対を押し切ってまで、災害時のための治療スペースを礼拝堂として作っておく案を押し通した。つまり、日野原一人だけ過去のほうを向いて、東京大空襲という過去の死者たちを悼み続けていたために、多くの人々の命を救い、私たちの社会に未来をもたらしたのだ。いわば、聖路加国際病院の11階建ての新館は、東京大空襲の巨大な慰霊塔として建てられていた。いやこれは言い過ぎなのだろうけれど、そして著者がそう言っているわけでもないのだけれど、この本を読んだ私はもうそうとしか見えない・・・
 
 本書を読みながら、私はしきりとベンヤミンの「歴史の概念について」を思い出した。「かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。(中略)だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。」(『ベンヤミン・コレクション 1近代の意味』ちくま学芸文庫、646頁)著者・小沢信男は、まさにその過去の死者たちの要求するメシア的な力を、都市の片隅に忘れられた慰霊碑を訪ね歩き、お参りすることを通して、この社会に立ち上らせようとしている。死者とともにある社会を想像的に作り出そうとしている。・・・21世紀の東京をベンヤミンのように歩き、記述する書き手がいたことを、いまはただ驚きとともに喜びたい。



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2009年09月06日

『原っぱが消えた 遊ぶ子供たちの戦後史』堀切直人(晶文社)

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「人間はただそこに勝手に生きているだけで自由だ」

 前々回に坪内祐三の『ストリートワイズ』を取り上げたとき、彼が「青空」や「原っぱ」といった比喩で語る「放課後戦後民主主義」というアイディア(それは「学校戦後民主主義」に対置される)を紹介したら、何人かの知人から共鳴的な反応を頂いた。その反応を読みながら、やっぱり窒息しそうな今の日本社会に生きる私たちにとっては、「原っぱの民主主義」のような自由な感覚が必要なんだよなあ、と改めて実感した。そして自分の個人的な原っぱ体験をあれこれ思い出した。小学校低学年のころの夏休みには、私も家の前の原っぱで毎日のように草野球をして近所の仲間と遊んだものだ(ボールは軟式かソフトボールを使っていたと思う)。ときどき女の子が参加すると、私たちはハンデをつけて彼女が打席に立つときには下手投げでスローボールを投げてやった。可哀相だからではない。そうやって不平等なルールにしないと力の差があってゲームとして面白くないからだ。そのときの「公平さ」の感覚は、小学校で他校に勝つために真剣にやっていた競技としてのソフトボールの「フェア」さ(学校戦後民主主義)とは違う、もう一つの公平さとして私の身体にずっと残り続けた。それが「原っぱ」から私が学んだ「放課後戦後民主主義」の感覚なのだと思う。
 そんなことを考えていたとき、『原っぱが消えた』という題名の本を新刊本の棚に見つけて私は驚いた(もっとも発売後、2,3週間経っていだが)。しかも著者は、前著『渥美清 浅草・話芸・寅さん』(晶文社)で、テレビに出る前の1950年代の浅草フランス座時代の渥美清が、芸人として生き残るためにいかに必死だったかを、芸人たちの回想録を組み合わせて見事に活写してみせた堀切直人氏だ。これは新刊本の苦手な私といえども、ぜひとも読んで紹介しなくてはならない。

 堀切氏は本書では、(前著と同様の方法だが)回想録を中心とした様々な文献を渉猟して、多様な世代の原っぱ体験をあれこれと引用しながら、近代都市の子供たちにとって「原っぱ」がいかに活力に溢れた貴重な遊び場であったかを具体的に描き出していく(事例が東京に偏っているのがいささか気になるが)。例えば、そのたくさんの引用のうちの一つ、奥成達の回想はこんな感じである。「土管や建築資材が積み上げられた原っぱは、どこかの工場の資材置場だったのだろう。鉄条網をかいくぐり、こどもたちは、そこで草野球をし、チャンバラごっこや忍者ごっこをし、戦争ごっこをした。冬になると凧あげである。/夏休みになると、原っぱは昆虫採集の宝庫であった。」(44頁、『昭和こども図鑑』からの引用)つまり「原っぱ」とはどんな空間だったかということに関する本書の主張は、いささか単純すぎるほど明快である。「子供たちは原っぱに足を踏み入れた途端に、自分たちの心を縛りつけていた拘束から解き放たれて、全身に活力があふれ、大地との一体感を味わいながら、夢中で遊び回った。原っぱは子供たちのアジール(避難所)であり、サンクチュアリ(聖地)であった。」(9頁)というわけだ。
 
 しかし問題はその先にある。こうした子供の解放感に溢れていたアジールとしての「原っぱ」は、1960年代から70年代にかけて開発業者によって囲いこまれ、整地され、そこにビルや住宅が建てられ、都市空間の中からあっという間に消失してしまった。「土地」がすっぽりと資本主義に取り込まれたのだ(やがてバブル経済の原因となる)。だが堀切は、原っぱの消失を、単に開発業者や資本主義のせいにして片付けてはいない。むしろ彼が問題にするのは、「原っぱ」を目の敵のようにして嫌ってきた生活者たちのクリーン志向とでも呼ぶべき感覚である。「都市の中から空き地がなくなったのは、ビルや住宅がそこを埋めたからではないだろう。私たちの中で、“空き地を空き地として感受する力”が失われたときに、空き地は初めて明け渡されたのだと思う」(85頁)。実際に70年代以降の都市住民は、原っぱや空き地に関する多様な苦情を行政に訴え続けた、「草に足をひっかけて転んだり足を切ったりする、犬や猫の糞が汚い、蜂や蚊などの虫や花粉による被害が多い、雑草が伸び過ぎると誘拐、痴漢、放火などの犯罪と結びつきやすい、空き缶やゴミが投棄される、不衛生で困る、気持ち悪い・・・・」(83頁)といった具合だ。
  
 私たち都市住民にとって「原っぱ」は、混沌として何がそこから生じるか分からないような不気味なものに感じられるようになったのだ。私たちは、それよりも人工的に管理された安全な空間を望んできた。その結果、いまや子供たちの遊び場も、雑草や斜面やぬかるみや藪やでこぼこのない、衛生的で安全に管理された「公園施設」(ブランコ、滑り台、砂場)へと作り変えられてしまった。公園では子供たちは「原っぱ」でのように大人の目の外で自由自在に遊ぶのではなく、大人の管理の視線の下に遊ばされているにすぎない(「学校戦後民主主義」だ)。

 ちょうどそこへ60年代後半からのテレビ文化の隆盛期がやってきた。屋外での遊びが子供たちの創意工夫から生まれる自由な活動だとすると、テレビ視聴はただ受動的にイメージを受容するだけの貧しい暇つぶしにすぎない。こうして本書の後半は、子供を受験勉強やらテレビやらといった屋内の不自由な空間に閉じ込める現代文明への批判へと傾斜していく。70年代以降の子供たちは、「原っぱ」という屋外の自由な遊び場を失ってまことに不幸である、というわけだ。しかしそう言われてしまうと、59年生まれの「テレビっ子」である私は(基本的な論旨には同意するが)多少の違和感も覚える。例えば、70年代後半に起きたピンクレディー現象とは、いったい何だったのだろうか。そこでは子供たちがただテレビを受動的に受けとめるだけではなく、テレビの中でピンクレディーが宇宙人やら野球選手やら人魚やらに自由自在に変身するのをテレビのこちら側でみんなで模倣することを通して、人間は想像的には何にでも生成変化しえるのだという可能性を身体的に感じ取っていたのではないか。つまり私は、テレビにはテレビの自由自在さがあったと思うのだ。逆に言えば、「原っぱ」における自主的な子供共同体は、たちまちにして大人社会をコピーした不自由な権力関係やしがらみを作り出していたはずだろう。その意味では、本書は「原っぱ」をあまりに実体としてのユートピアとして捉えすぎたかもしれない。

 それでも本書がとてつもなく魅力的に思えるのは、やはり「原っぱ」が、現代社会の閉塞感を超えるような、人間が作りうる自律的な空間の潜在的可能性として見えるからだろう。「原っぱ」は、目的や効率に取り囲まれた都市空間の中で、何の目的もない無駄な空間だった。土地も虫も植物も子供も、ただ勝手にそこに自生していることが許されていた。それこそが「原っぱの戦後民主主義」の感覚だろう。逆に言えば、「原っぱ」を認めない現代の私たちは、人間がただそこに勝手に生きているだけで自由だという感覚を失っている。子育て支援だの年金制度だのについて一生懸命に語っているうちに、人間は行政制度に助けてもらわなければ最初から生きていけないかのような錯覚に陥っている。むろん私は福祉制度を否定したいのではない。ただ、人間は何もしなくても自由だという「原っぱ」の感覚を失ってはいけないと思うだけである。本書はそれを思い出させてくれる。

(つけたし)
本書の腰巻には、「晶文社50周年」という文字が入っている。晶文社は、岩波書店のような学校民主主義とは違った、「原っぱ」のような人文知のありようを作ってきた出版社だ。だから本書は50周年を飾るにふさわしい本だと思う。



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2009年06月19日

『ストリートワイズ』坪内祐三(講談社)

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「ちょっとだけ古くさいぞ 私は」

 新刊本が苦手だ。著者によって発せられたばかりの言葉が、なまなましく突き刺さってくるような気がして冷静に受け止めることができない。知人に直筆の葉書をもらったときにも、蒸しタオルを冷ますような気分で掌の上でころがしてから読むくらいだから、もはや精神的な病である。結果として、この書評ブログでも、古典でもなく新刊でもなく、ちょっとだけ時代遅れの本ばかりを取り上げることになって恐縮である(むろんそういう本こそが本屋の文化にとって大事だと思っているから紹介するわけだが)。
  坪内祐三のデビュー作である本書も、1997年に晶文社から刊行されたときに、新刊本の平積み台から何度か取り上げては頁をめくった覚えがあるが、結局は買えなかった本だ。『古くさいぞ私は』(晶文社、2000年)も『後ろ向きで前へ進む』(同社、2002年)もそうだった。ベンヤミンを匂わせるような題名も、サブカルと思想が入り混じる内容もとても気になるのに、あまりにも題名が直球で迫ってくる感じが居たたまれなくて、買えなかった。そしていざ買ってみた『靖国』(新潮社、1999年)が駄目で(サブカル感覚と保守の結びつきが趣味にあわないのか)途中で投げ出してしまった。その後『一九七二』(文藝春秋、2003年)を読んでかなり感心したにもかかわらず、最初のすれ違いが尾を引いたためか、なかなか他の著書を読む気がおきなかった。

 ところが去年の秋に、私の中で突然、時期外れの坪内祐三ブームが起きてしまった。たぶん彼の著書の社会的評価が安定し、本屋のなかで「冷めた蒸しタオル」の領域に入ったのだ。ちょっとだけ「古くさ」くなった坪内祐三の著書は、実に私の趣味にぴたりとあう。そうなるともう止まらない。上記の本も明治ものもサブカルものも書評・古本ものもすべて面白い(『靖国』だけが本棚に積読のままだけど)。たちまち20冊以上を買って読んだなかでも、印象に残った一つが本書『ストリートワイズ』だ。プロレス、プロ野球、情報誌、古本といったサブカルチャーだけでなく、福田恆存を軸にして真正面から戦後思想に取り組んでいるのがとてもいい。今回4月に文庫化されたので(晶文社版も入手可能なようだ)、半年振りにじっくり読んでみた。やはり面白かった。

 本書の白眉は、大岡昇平の『俘虜記』に対するドキリとするような批判だろう(「『俘虜記』の「そのこと」」)。『俘虜記』は、戦場で米兵を撃つチャンスに撃てなかったという大岡自身の、一種の良心的懲役拒否の記録として高く評価されてきた。ある意味では戦後の平和主義思想の精神的なバックボーンになってきた文学作品といえるかもしれない。ところが坪内は、その撃てなかった場面の描写に、大岡の自己正当化のための無意識的な嘘をかぎつける。大岡が撃てなかった理由は、殺人の道徳的忌避などではなく、「撃てば撃たれる」という恐怖のためではなかったのか、と。つまり、大岡昇平=戦後民主主義者が理念としての平和を良心的に掲げてきたのに対して、そんな態度は「現実の醜悪さ、人間性の奥深くにひそむエゴイズム」(101頁、ただし福田恒存からの引用)から目を背ける「純粋病」の一種にすぎないというのだ。むろん、この理屈だけを取り出せば、福田恆存から坪内が学んだ、典型的な保守派の主張かもしれない。ただし坪内はその主張を、いかにもブッキッシュな彼らしく、初出雑誌版と単行本版の比較、対談ごとによる大岡自身の本作への評価のズレや記憶違い、発表当時のほかの作家たちによる否定的評価など、多数のテクストを渉猟しながら進めていく。そうした厚みを持った読みと探求によって、『俘虜記』への批判が逆に『俘虜記』を深く味わうための導きの糸にもなっている。そこがいいのだ。

 このように坪内は基本的には、戦後民主主義思想の「純粋病」的なエゴイズムに批判的である。しかし本書所収の「あいまいな日本の「戦後民主主義」」は、そうした保守派的な批判には収まらない、彼独自の戦後民主主義へのかすかな希望が探求されていて興味深い。この論考もまた大江健三郎の粗雑な戦後民主主義論への保守派的な嫌味から始まるのだが、しかしその後で坪内は、橋本治や中野翠らが戦後民主主義を「原っぱ」や「青空」の比喩で肯定的に論じているのを引きながら、「学内戦後民主主義」と「放課後戦後民主主義」の比較検討へと議論が展開していくのだ。放課後戦後民主主義とは、原っぱという何の意味もない空き地に思い思いに集まってきた子供たちが、それぞれの野性の知恵を出し合って成文化されることのないルールで遊ぶことである。それに対して学内戦後民主主義は、子供たちの自発的な遊び空間を、危険なことは駄目だとか「あの子は入れてやんない」という差別は駄目だとかといった偽善性によって抑圧してしまうことである。坪内は書く。「私は、「戦後民主主義」という言葉の八割に偽善性を、つまり平等という名を笠にきた無責任なものを感じながら、残りの二割に、機会は全ての人の性格や能力に応じて平等に開かれているという、明るい前向きなものを感じている」と。
 
 現代の文化状況のなかでは、「学内戦後民主主義」的文化によってほとんど抑圧されてしまったかのように見える、こうした「放課後戦後民主主義」的な感受性をどのように現代のなかに発見し、救済するかという問題意識に関して、私は坪内に深く共鳴する。むろん、そのために古くさい読書体験やサブカル体験に関する知恵をマニアックに書き連ねていくこともいい。坪内にとって放課後は「原っぱ」というよりも書店やレコード店や映画館のことなのだ。だからいっそのこと「ストリート」といった表現を看板にせずに、書物というヴァーチャルな空間においてこそ人間の深い知恵は発揮されるのだと言い切ってしまったほうがすっきりするのではないか。「ブッキッシュワイズ」(そんな表現ないだろうが)こそが、本当のこの本のタイトルではないか。いや、そう読めてしまうからこそ、すでに私は坪ちゃんのファンなのだった。

 付記(おまけ)
 本書のなかでベンヤミンと並べて暗い人として紹介されている野口富士男の『暗い夜の私』(講談社、1969年)が気になって、古本屋で買って読んでみてぶっ飛んだ。すごい。例えば最初の章は、ベンヤミンが亡命した年と同じ1933年の日本における政治的抑圧状況下での演劇、政治、映画などの文化状況が個人的な視点から実にリアルに描かれている。まるで日本版『ベンヤミン―ショーレム往復書簡』のようなのだ。ちなみにこの1933年、野口富士男は紀伊国屋出版部で『行動』という雑誌の編集者の仕事をしていた。色街で遊ぶ田辺茂一の話も印象的である。



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2009年06月16日

『全国アホ・バカ分布考~はるかなる言葉の旅路』松本修(新潮社)

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「日本人は近代以前からずっとテレビを待ち望んでいた」

 テレビと方言では相性が悪いはずだ、と思い込んでいた。中央発信型のテレビ番組は、各地に根付いてきた地方独特の話し言葉を標準語や関西弁によって風化させてきた。だから私も大好きな、関西の超人気番組『探偵!ナイトスクープ』が、日本各地のさまざまなアホ・バカ方言の分布を大規模調査した結果を番組とし(1991年、朝日放送)、その番組のプロデューサー松本修氏がその調査結果を方言関係の学会で報告したという話は確かに知っていたが(確か、その学会発表の様子をニュースで見た覚えもある)、しかし特に興味を持つことができなかった。テレビが方言を救うなんて、何だか罪滅ぼしか誤魔化しのようなものではないか。だから私は、その番組による方言調査と学会報告の一連の過程をドキュメントとして描いた本書に関しても(1993年、大田出版)長い間、手に取ろうともしなかった。しかし今年の春、『探偵!ナイトスクープ』という番組の面白さについて改めて考えなおす機会があって、その参考資料の一つとして、文庫になった本書を何気なく読んで驚いた。テレビと方言とは相性が悪い、という私の常識はすっかり覆された。両者は、必ずしも相性が悪いわけではないようだ。というよりも、「方言とは何か」とか「地域の伝統文化と近代的なメディアはどういう関係を持つのか」という問いに関して、私は自分の常識的な考えを根本的に改めざるを得なくなった。

 松本修がこの番組の「全国アホ・バカ分布」調査によって明らかにしたのは、柳田国男の方言周圏論の正しさである。方言周圏論とは、同じ方言が、京都を中心にした同心円状の地域に分布しているという仮説である。つまり、ある方言は、むかし京都で流行った言葉が、池に石を投げ込んだときに出来る波紋のように、地方の周縁へ周縁へと同心円的に伝播して行った結果としてその地域に残存しているのだ。柳田が例に挙げたのはカタツムリ。カタツムリは近畿地方では「デデムシ(デンデンムシ)」と呼ばれ、その東西の地域(東海地方や福岡県)では「マイマイ」と呼ばれ、さらにその周囲の東西では「カタツムリ」とか「ツブリ」と呼ばれ、最後に京都から一番離れた東北と九州の一部では「ナメクジ」と呼ばれている。だからこの理論に従えば、京都で一番古く流行った古語が東北の方言「ナメクジ」で、一番最近の流行語が近畿の方言「デデムシ」ということになる。全国各地の市町村の教育委員会へのアンケート調査によって明らかされた、『探偵!ナイトスクープ』の「アホ・バカ」表現の分布調査の結果も、このカタツムリの場合と同じだった。文庫のカバー裏に印刷されている「分布図」を見ればわかるように、近畿圏のアホを一番小さな円にして、アヤカリ、アンゴウ、バカ、タワケ、ボケ、ダラ、ホンジナシなど、18の同心円が日本列島の中心(京都)から周縁へと何重にも積み重なっている。

 この調査結果の持つ意味は、見かけよりもずっと重大である。まずアホは関西特有の文化で、バカは関東特有の文化だという私たちの根強い常識が崩される。バカもまたむかしの京都の流行語が伝播した表現なのだから、決して関東地方に特有の言葉なのではない。じっさいに京都を中心に描いた同心円上にあって、関東とちょうど反対側の地域にある中国・四国・九州などにもバカ表現は広く分布している。それに対してアホは単に近世の京都の流行語であり、近畿一帯に流行の輪が広がったところで明治維新になったために、関西の方言に留まったというのだ。もし明治維新がなければ、きっと今頃関東では「アホ」が大流行し、関西では「アホ」に変わる別の新しいアホ表現が流行していただろう。つまり、方言周圏論では、私たちが常識として持っているような東西文化圏という考え方を壊すどころか、言語文化に関する地域の土着性をほとんど認めない。何しろすべての方言は、その地域が京都の流行語を受け入れた結果として話されているというのだから。

 何とも常識外れの理論ではないか。私たちは常識的には、それぞれの地方に根ざした独自の言語表現として方言があり、その自発的な言語表現を政府やメディアによって中央から強制された標準語が破壊してきたのだと考えてしまう。だからテレビと方言は矛盾するはずだ、と。しかし本書が明らかにしたのは、日本人はずっと昔から中央の流行語に魅惑され、新しい流行表現を積極的に採り入れて日常語としての「バカ」を表わそうとしてきたという事実だ。だからいわば、日本人は近代化以前から、あらかじめテレビ文化を待ち望んでいたとも言えるのだ。日本人は古くから常に日常生活のなかで、使い慣れた言葉よりも、耳慣れない新奇な表現を使って遊戯的にコミュニケーションをすることを楽しんできた。そういわれれば確かに、現在の子どもたちが、「そんなの関係ネー」とか「グー!」といった新しい流行語を、テレビメディアを通して次々と消費していく様子に私たちはいつも驚かされるだろう。そうしたメディア現象を、私たちはついついメディアの情報操作力に子供たちが煽られた消極的結果であるかのように考えてしまう。しかしそうした流行語現象は(速度こそもっと遅かったとはいえ)もっと日本社会の古くからの伝統に根ざした、私たちの言葉への積極的な欲望の表れだったらしいのだ。ついでに言えば、松本氏は本書の後半で、アホやバカの語源を白楽天の詩などの中国語の典籍に求めている。京都の僧侶や知識人たちが読んでいた最新流行の外国語文献が、新しいバカ表現の発信源だったのだ。つまりアメリカ占領下でアメリカのハリウッド映画やポピュラー音楽や西欧文学に魅惑されるよりずっと以前から、外国かぶれであることもまた日本の伝統だったらしいのである。

 こうして、伝統文化と近代文化の二項対立を覆してしまう理論を実証してしまっただけでも、本書は充分に衝撃的な力を持っている。だが、さらに本書は日本文化についての、もう一つの重要な論点を提起していることも指摘しておこう。それは、日本語におけるさまざまなバカ表現の持つ、婉曲的で愛に満ちた豊かなニュアンスのことである。著者は、さまざまなバカ表現の少しずつ異なったニュアンスを調べていくなかで、それらに「狂っている」というような差別的意味が含まれていないことを発見していく。例えばバカとは「乱暴・狼藉を働くこと」であり、ホンジナシは「ぼんやり者」であることを指し、アンゴウやタクラダは「間抜け」を意味し、「ボケ」は気持ちの穏やかな人というニュアンスを持つ。つまり日本人は、アホ・バカ表現を日常生活のなかで、まるで寅屋のおいちゃんやおばちゃんが寅さんに「バカだねえ」と言うときのように、その相手に対する愛情をこめて使い続けてきたのだ。そのような主張に基づいて松本氏は、琉球の「フリモン」というバカ表現が、辞書掲載の通説では「気の触れた者=狂人」となっていることが誤りであって、本当は「ぼんやり者」という意味であると、音韻規則などによって学術的に覆してしまう(本書の白眉のひとつである)。

 この松本氏の「愛情あるバカ表現」へのイデオロギー的なまでのこだわりは、『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組の本質と深く結びついているといえよう。この番組に出演する素人は、ほとんどアホかバカである。一目惚れしたマネキンと結婚したいと願望し、本当に親を呼んで結婚式まで挙げてしまう若い女性や、番組が用意した役者のゾンビと本気になって闘う子供たちや、ルー大柴を死んだ自分のお祖父さんであるかのように思って涙する一家は、一歩引いたところから冷めた目で観察すれば、ただの狂人にしか見えない。しかしこの番組は、決して彼らを差別的に見下そうとはしない。あくまで「アホやなあ」とやさしい肯定的な気持ちで接するから、私たち視聴者もその素人たちのアホぶりに共鳴して心から笑い、ときに感動して涙するのである。つまり松本修が方言としてのアホ・バカのニュアンスに発見していったのは、彼自身の作るテレビ番組の面白さを支えている日本社会の文化的基盤だったのだ。

 自分では良くわからない情熱で、視聴者の依頼にすぎなかったアホ・バカ方言の謎をこれでもかこれでもかと探求していった結果、気がつけば彼自身がいまここで作っているテレビ番組自体の面白さ=アホさの秘密を手にしていた。その意味では、彼自身がどこかでアホである。だから本書は感動的なのだ。関西にはバカ表現がないと信じていた著者が、ある日「バカモン」という日常的に使用されている関西弁を発見してしまうときの驚きと感動。それが本書全体を満たしている、アホが、自分がアホであることを知っていくという知の喜びである。私たちは身近なテレビについても、自分の地域文化についても、日本についても何も知らないアホであるらしい。だから知的探求へのきっかけは私たちの目の前に溢れている。ただ私たちはアホを許さない常識という曇りガラスのせいで、それに気づいていないだけなのだ。私は、本書にそう励まされたような気がした。

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