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2011年11月08日

『読んでいない絵本』山田太一(小学館)

読んでいない絵本 →bookwebで購入

「恥ずかしいこと、あるいは感情生活のレッスン」

   本書は、山田太一の短編小説4編、ショート・ショート2編、戯曲1編、テレビドラマ脚本1編が収められた作品集である。発表年度も1988年から2008年にまでわたっていて、さまざまな時代に書かれたものが集められているのだが、なぜか全く不統一な感じがしない。むしろ山田太一の作風が、時代を超えて一貫性があることが感じられて、私はとても気持ちよく読めた。

 では彼の作風の一貫性とは何だろうか。人間が日常生活のなかで、できれば隠しておきたいと思うような、恥ずかしい振る舞いや感情に照準が当てられることだろう。例えば、表題作「読んでない絵本」の最後のところに出てくる「ああ、ああ、ああ、ああ」という、老女の不気味な嘆き声。ただ呆けた老女の哀しさが表現されているのではない。何しろ、彼女は自分の童話の絵本が、ベルギーで銅賞を取ったこともあるというほどの作家らしいのだ。その童話のことを誰も「全然分かってやしない」と嘆いたあとで、その「ああ、ああ、ああ、ああ」は三回繰り返される。

とはいえ私たち読者は、彼女がどういう作風の絵本作家であるとか、いまどれくらい呆けてしまっているのか、といったことは何も知らされない。著者・山田の分身と思しきテレビ脚本家の主人公が、気まぐれに30年前に間借りしていた家を、大家のおばさん会いたさに訪ねてみると、思いがけず昔は隣家の嫁だったはずの娘とその母親が大家の姓を名乗ったマンションに住んでいて、驚く。その老いた娘の方に事情を聞けば、最初の(隣家の)夫が早死にした後、こちらの家に嫁いだが、30年の間に大家の人びとはみんな死んでしまって、自分たちだけが生き延びてしまったのだという。しかし主人公自身が、その説明を聞いても何か釈然とせず、いい気持ちがしないまま、その母娘二人の絵本作者としての自慢話が始まってしまうのだ。
 

そして母親の「ああ、ああ、ああ、ああ」が繰り返されて、物語は終わる。だから読者としては、ただもう呆然とするしかない。著者がふらふらと昔の思い出を訪ね歩いてみると、そこで事故のように、人間が他人には見せたくないような恥部に遭遇してしまったといったところか。作家同士として出会えば決して見えなかっただろう、老童話作家の陰の部分を彼はいきなり垣間見てしまう。だから読んでいるこちらまでが気分が悪くなるようだ。だがその気分の悪さは、ただ老女の嘆きが気味悪いせいなのだろうか。むしろ自分の書くものを読者が分かってくれないという彼女の叫びは、著者・山田太一自身もまた心の奥底で共有しているとは考えられないか。他人には見せたくない自分の嘆きの感情を、他人のなかに鏡のように発見したというのが、この物語の面白さではないのか。

 そう。つまり誰もが自らも身に覚えがありながら他人には隠している「恥ずかしい」振る舞いや感情を、私たちは本書の中から秘かに感じ取ってしまう。短編小説3編は、いずれもその恥ずかしさが物語的な決着をつけられることなく、ごろっとそのまま読者に放り出されてくる感じだ。だから読者としては何とも言えない奇妙な読後感を味わう。「あの街は消えた」は、性的に未熟な青年が未知の女性に渡すように依頼された猥褻写真を握って街をうろうろするという惨めな話だし、「少し早めのランチへ」は、孤独な老人が自分の葬儀をどうするかを独り言のように幻覚の美女とぶつぶつと語り合うという寂しい話だ。いずれも読者としては、見てはいけなかった光景を見てしまったような恥ずかしさを覚える。

こうした個人的な恥ずかしい話がそのまま読者に投げ出されるのが、短編小説の特徴だとすると、戯曲とテレビドラマはそれにもう少し社会的な工夫が施されている。戯曲「黄金色の夕暮れ」では、東京地検の検事が、不正融資の疑いで家宅捜査した銀行支店長宅で、自分の娘がその家の息子と一緒に写っている写真を見つけて動揺して裏交渉に行くという話であり、テレビドラマ「本当と嘘とテキーラ」は、企業のメディア向け謝罪会見の向こう側で、その嘘をついた人間たちの割り切れない感情が日常生活を動かしていくところに焦点を当てた話だ。これらを読むと私たちは、自分の恥ずかしい感情だけでなく、社会のなかにも同じような感情が蠢いていることを思い知らされる。

 しかし、その中にあって白眉は、「本当と嘘とテキーラ」だろう。このドラマは、私たちをガツンと殴るような力を持っている。謝罪会見という企業の嘘の向こう側に、もう一つ別の嘘と本当をめぐる話が用意されていて、こちらが私たちの心を深く揺さぶるのだ。謝罪会見の演出を仕事にする主人公の中学生の娘が、ほとんど付き合いのなかった同級生(劣等生)にある日突然掴みかかられたので、怒ったあまりに「死ねば」という言葉を投げつける。するとその2日後に本当にその娘はあてつけのように自殺してしまう。それを周囲に言えば、自分のせいで死んだかのように思われてしまうので、彼女はその出来事を、疾しさを感じつつ隠しておく。

 自分の「死ねば」という言葉が直接同級生を死に追いやったわけではない。自殺した同級生は、親とも学校とも関係がうまく行かず、その苛々した感情を周囲に当たり散らすように生きていた果てに自殺したのだ。誰もが、ああやっぱりあの子が、と考えている。だから自分はどう考えても無関係だし、「死ねば」と言ったことをわざわざ言う必要はない。でも無関係であったとはしても、あったことを言わないままでいることは疾しさが残る。それでとうとう死んだ同級生の母親の求めに応じて、本当のことを言うと、案の定、感情を昂ぶらせた母親に「死ねば」と言い返される。主人公の娘はショックで寝込んでしまう。さて・・・。

 ここらあたりの人間の感情の機微を、山田太一がいかに見事なまでに繊細に描いているかは、ぜひ本書を読んで確認して頂きたい。そのドラマの見事な展開を読みながら、私たちは自分たちの日常生活が、客観的な因果関係では割り切れないような、微妙な感情の機微によって動いていること、そしてその感情の機微に触れないように隠し事をしたり、逆に無関係な人間に自分の怒りをぶつけたりしながら暮らしていることを秘かに思い出すだろう。しかしそれは恥ずかしい。恥ずかしいので、私たちはそれをなかったことにして暮らしている。しかし山田は、そうした私たちのこわばった感情を何とか解こうとしているようだ。誰もが「ああ」という嘆きの声を思わず出したり、疾しさを抱えたりしつつ生きているんじゃないんですか、と。そしてそうした恥ずかしさを自ら認めることは、私たちの感情生活を少しだけ豊かにするのではないですか、と。

 そうした感情生活のレッスンとして本書は書かれている。そんな風に私は読んだ。



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