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2011年04月24日

『災害がほんとうに襲った時─阪神淡路大震災50日間の記録』中井久夫(みすず書房)

災害がほんとうに襲った時 →bookwebで購入

「被災の周辺へのまなざし」

 1995年1月の阪神・淡路大震災当時、神戸大学医学部の精神科教授だった中井久夫は、自ら被災者としてあたった救援活動の切迫感あふれるドキュメントを、ともに活動したスタッフやボランティアたちと共著で、2か月後の3月24日に『1995年1月・神戸─「阪神大震災」下の精神科医たち』(みすず書房)と題して出版した。そのうち中井自身が執筆した文章と日記に、今回の東日本大震災をテレビ報道で見ての所見を書き加えて、薄手の本として編集し直し緊急出版(40日後)されたのが本書である(すでに3月20日に最相葉月氏が、緊急に読まれるべき文章と判断して、著者の許可を得てネット上に電子データをアップしていた)。

 むろんすべての災害はそれぞれ異なった表情を持っていて、一般化することはできない。中井が冒頭で「最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の五秒間で起こった圧死だという」(30頁)と書くように、阪神・淡路大震災は明け方に起きた都市の直下型地震だったため家屋の下敷きになった被災者が多かった。だが、今回は沿岸部の街を襲った大津波が最大の被害をもたらした。多くの被災者は海へと流されて行方不明のままである。だから前回の地震への対応を反省して作られた災害派遣医療チーム(DMAT)も、海外からの救援隊も、建物の瓦礫の下に埋もれる人を救出し、外科的に治療することを想定していたが、彼らが考えていたほど活躍することができなかったと報道されている。

 だから本書もまたそのままで、今回の被災地への救援活動に役に立つわけではない。いくら素早いとはいえ、すでに被災から40日以上が経過しての出版だ。緊急事態へのハンドブックとしては、手遅れだし、間が抜けているかもしれない。(日本社会の救援者たちへのロジスティクスの認識の弱さが本書で嘆かれているが、今回それが批判的に報道された分だけは認識が広まっていたとみてよいのだろうか)。だが逆に、手遅れの今だからこそ、そして現場で作業に専念しているわけではない周辺の人間たちにこそ、本書は役に立つと思う。じっさい中井の記録は、必ずしも迫真の被災記録やなまなましい緊急医療の活動を描いているわけではないからだ。

中井はむしろ自宅の被災が神のサイコロの気まぐれで軽度で済んでしまったために、ずっと「申し訳ない」という気持ちを抱いていたと正直に記している。しかも最初の2日間は、出勤する手段が断たれてしまっていたため、自宅に待機して電話でスタッフの安否確認に費やすだけだったという(奥さんを苛々させたらしい)。実際に修羅場で活動していたのは、当直医や大学近くに下宿する若い医師やナースらだった。その後もリーダーとしての中井は、決して前線で戦おうとするのではない。むしろどこまでも後衛の場にとどまって、そこで戦おうとする。避難所もあえて訪問しない。「酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする」(74頁)からだ。そしてあくまでスタッフたちの活動の盲点を見つけ出しては、「隙間産業」に徹しようとする。そこが、本書が持つ独特の魅力である。

 では救援現場における隙間産業とは、どんな作業か。例えば、医師や職員が病院に渋滞を避けてたどり着くための詳細な手書きのルートマップの作成である(最初のバージョンではその手書きの地図が掲載されていたが、今回は削除されていて残念である)。職員の出勤率を向上させ、出勤の際の渋滞による消耗を軽減させることに貢献するからだ。あるいは各地から来たボランティアに、最初に箱庭と地図を使って、神戸の地理を詳しく説明することだ。知らない土地で馴染のない地名があたりを飛び交っている状態では彼らはうまく現地の人と協力でしあえないだろう。さらにはスタッフたちに腹いっぱい美味しいもの(神戸牛と明石鯛)を食べさせることであり、ガラガラの温泉旅館を彼らの休息のために予約することであり、応援に来てくれた医師に励ましの色紙を書いてもらうことであり、病院の庭にシンボルとして、オリーブの木を植えることだ。

 こうした中井によるスタッフの救援活動をさらに支援する活動は、精神科医としての臨床的な観察に支えられていると私は感じる。救援活動は一般論としてどうあるべきか、ということに彼の関心は向かない。神戸という街の独特の地理に応じて、この地震に被災している人々の固有の状況に応じて、さらには彼の病院で支援活動をしている人々の疲労の度合いに応じて、それらの刻々と変わる状況を冷静に観察したうえで、いまある状況を少しでも良いものにするための配慮を込めた働きかけをする。それはまさに神戸という街を精神病患者のように診断し、治療することに他なるまい。そうした状況の表情を読み取っていく、優しいまなざしに感銘をうける。

 ボランティアの重要性に関しても、中井はこの支援活動を通して理解したという。だからふつうの認識とはちょっと違っている。さあ助けるぞと勢い込んで駆けつけたもののすることがなくて所在なげな人々を見て、「『存在してくれること』『その場にいてくれること』がボランティアの第一の意義である」と言い続けたというのだ。予備軍がいてくれるからこそ、正規軍は余力を使い残さずに力を出すことができる、というわけだ。ここにも現場の周辺にいる人間たちへの、つまりは自分が無力であると感じている人々への優しいまなざしを感じる。こうした周辺部への優しさを広げていけば、周辺で被災して生き残った人々への、あるいはそれをテレビで見て無力感を抱いている、さらなる周辺の人々へと視線を向けることができるだろう。

 その意味でこそ、本書は普遍的な意味を持ち、いま読むことの意味を持つのだと思う。被災した人々を救援する活動のただなかから一歩引いた後衛の場所で、リーダーとして支援活動をまとめあげ、さらにその周辺にいる人々への配慮の眼を配り続けること。そのような実践的な活動を、その出来事の固有の状況に応じて中井久夫が為し得たこと。その事実が私たちを励ます。ついでに、この書評ブログで3月17日に紹介した、ソルニットのいう『災害ユートピア』が、震災後の神戸にあったという事実もまた本書では見事に描写されている。警官が取り締まる人間の顔をなくし、炊き出しの人間は相手が被災者かどうか確かめないし、タクシーの運転手が、人間がみんなやさしくなって今ほど安心して人を乗せられることはなかったと証言する。そうした柔らかい感情の共同体のありようを中井は「温かいメルトダウン」と呼ぶ(93頁)。むろん官僚的な石頭の持ち主がもっと石頭になってしまうという観察もきちんと冷静に記録されている。

 なお「東日本巨大災害のテレビを見つつ」という題の最初に置かれた文章は、やはりテレビを見ながら書かれたというとおり、何だか比べて読むと寝ぼけた文章のように思えて、いまの私の心にはあまり響いてこない。決してつまらないわけではないが、どこか評論家的である。これを読むと、やはり「災害がほんとうに襲ったとき」という16年前に書かれた文章が、実践のただなかで書かれた緊迫感に満ちたものであったことを改めて実感する。ぜひ昔の文章から最初に読むことをお奨めする。


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2011年04月04日

『摘録 断腸亭日乗(下)』永井荷風(岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗(下) →bookwebで購入

「永井荷風の被災日記」

 鬱々とした日々が続いている。大震災直後には閃光のように現れたかのように思えた、被災者同士の相互扶助的な「災害ユートピア」が、企業とメディアを中心とした抑圧的で官僚的な「自粛」ムードによってかき消されている(何より見えない汚染物質をまき散らす原発事故のせいだが)。街を歩けば、あちこちの商店に「被災者にお見舞い申し上げます」という言い訳めいた紙切れが貼ってあり、ACのテレビコマーシャルも、老人へのいたわりや友達との言葉のやりとりを主題にした優しいものから、有名人たちが節約や節電を推奨したり、「日本は強い。みんなで力を合わせれば乗り越えられる」と強がってみせるような説教臭いものに変貌している。いったい、何なのだ。これでは「贅沢は敵だ」とか「進め一億火の玉だ」といった戦時中の標語と何も変わらないではないか。誰も本気ではないのに、誰もが世間を配慮することで捏造されてしまう全体主義的な「空気」に、私たちは戦後60年以上経って、またもや支配されてしまったようだ。

 こういう官僚的な自粛ムードに抵抗して、自分たちの日常生活を淡々と続けるにはどうしたらよいのだろうか。そんなことを考えて、永井荷風を書棚から引っ張り出した。戦時中も時流におもねることなく、自分の趣味的な生き方を貫いた孤高の作家・荷風の生き方をいまの全体主義的な状況を生き抜くための参考にしようと、『断腸亭日乗』(摘録版)の戦時下・昭和16年のところからじっくりと読んでみた。ところがこれが、いま読むと予想以上に面白い。この部分を読む限り、この日記は端的に、空襲で家を焼け出された老作家が、二次被災、三次被災を次々と受けながら転々と住居を移動していく、何とも心細さに満ちた「被災日記」なのである(実際、この日記の一部は最初「罹災日録」として終戦直後に雑誌に発表され、その後、書籍化された)。その記述は、いま東北地方の避難所で暮らしている被災者たちの光景と否応なく重なってくる。

 まずは最初の被災の話。昭和20年3月9日深夜の東京大空襲のため、麻布にあった荷風の木造洋館(偏奇館)は焼失し、彼は「日誌及草稿を入れたる手革包(てかばん)」だけを持って逃げ出し、自分の家の焼けていく様子を眺める。その翌日の日記。「三月十日 町会の男来り罹災のお方は炊き出しがありますから仲の町の国民学校にお集まり下さいと呼歩む。(略) 握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが寒風は昨夜に劣らず今日もまた肌を切るが如し。(略)昨夜路上に立ちつづけし後革包(かばん)を提げ青山一丁目まで歩みしなれば筋骨痛み困憊甚だし。ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり。」(254-5頁)

 しかし荷風の被災はこれだけにとどまらない。四月からは東中野のアパートに住むのだが、ここがまた五月二十五日の空襲でやられてしまう。いや荷風は、死にかけたと言うべきかもしれない。警報に従って防空壕に逃げ込んだら、その頭上に爆弾が落ちてしまったのだ。荷風らしい冷静な描写であるが故に、いっそうその恐ろしさがひたひたと伝わってくる。

 「夜いつもの如く菅原君の居室にて喫茶雑談に耽る時サイレン鳴りひびき忽空襲を報ず。余はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ、頗る油断するところあり。日記を入れしボストンバグのみを提げ他物を顧ず、徐に戸外に出で同宿の児女と共に昭和大通路端の濠に入りしが、爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟風に従って鼻をつくに至れり。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上至るところに燃え出で、人家の垣墻(えんしょう)を焼き始めたり。(略)遠く四方の空を焦す火焔も黎明に及び次第に鎮まり、風勢もまた衰へたれば、おそるおそる烟の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ。(略)昨夜逃入りし壕のほとりにアパートの男女一人一人集り来り、涙ながらに各その身の恙なかりしを賀す。」(265-6頁)

 そして三度目の被災は、何とか東京から疎開した先の、岡山に於いてである。空襲警報も鳴らないうちに爆撃が始まったというのだから、ここでも危機一髪である。「六月廿八日。晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまま帰り来らざるを見、今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり」(270頁)

 そして、ようやくこの岡山で終戦を迎えるのだが、戦後東京に帰ってからも荷風の受難生活は続く。市川市の従弟の家に同居したり、知人の家に間借りしたりするのだが、孤高の作家はなかなか他人との同居生活に慣れることができずに、仮寓を転々と変えることを余儀なくされる。とりわけ荷風を悩ませたのが隣室のラジオの音である。音が気になって、読書も執筆もできずに毎晩のように外へ逃げ出す姿が何とも哀れである(間借り人として気兼ねしてうるさいと言えなかったのだろうか)。「(昭和21年)八月十三日。晴。夜机に向はむとするに隣室のラヂオ喧噪を極む。苦痛に堪えず。門外に出るに明月松林の間に昇るを見る。ラヂオの歇(や)みたるは十時なり。その時まで林下の小径を徘徊するに露気肌に沁みて堪がたく、虫の声は昨夜よりも多し。家にかへるに疲労して何事をも為す能はず。悄然燈を滅して寝に就く」(300頁)

 この時、荷風68歳。この前後にも、親戚の家の子供に、数少ない大切な蔵書を盗まれて古本屋に売り払われたり、泥棒に入られたり、猥褻文書の問題で警察に呼び出されたりといった具合に事件が次々と起こって、もう散々な日々である。ずっと後から歴史的に見れば、永井荷風は戦後いち早く文壇に復帰し、昭和23年から『荷風全集』全24巻が5年がかりで出版され、昭和27年には文化勲章を受章するという栄誉に恵まれ、私生活の上でも毎日のように浅草に出かけては踊り子たちと付き合うという幸福な生活を送ったかのように片付けられてしまうのだが、しかし実際にそのとき未来が見えていなかった荷風自身にとっては、本当につらい日々だったのだろうとこの日記から実感できる。

 つまり、この本を読んで鍛えられるのは、私たちの弱者への想像力である。家屋を失った人間の心細さ。住居や食事のことで他人の世話になっている人間の、周囲に対する気兼ねのような気持ち。いわば被災者たちは単に物質的に困っているわけではなく、一人の人間としての誇りを傷つけられているのだ。本書は、著名作家の日記でありながら、空襲の一被災者として、他人の助けを借りながら細々と生活を続けていく無力な人間の様子がありありと描かれている。その状況を彼は挫けることなく生き抜き、恥じることなく日記として記録し続けた。そこに私は、自分が無力な状況でもなお誇りを持って生き続けようとする人間の慎ましい姿を見て、ある種の希望を感じる。本書は、やはり、いまでこそ感じることのできる魅惑を持っていると思う。

(付記 1)
 私の生家は、京成八幡駅あたりの、荷風終焉の家のすぐ近くにあった。私が生まれたのは昭和34年8月19日。荷風が死んだのはその4か月程前の同年4月30日。大黒屋にかつ丼を食べに行く荷風と、母親のお腹の中にいる私はすれ違ったのではないかと、いつもこの日記を読むたびに夢想してしまう。
(付記 2)
偶然にも岩波書店は、いま『荷風全集』の増刷版を毎月出しており、今月は『断腸亭日乗』の昭和12年から16年までを収録した第24巻が出たところである。


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