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2011年03月17日

『災害ユートピア─なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』レベッカ・ソルニット(高月園子訳)(亜紀書房)

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「私たちの社会の希望のために」

 
 3月11日以降、メディアを中心とした周囲の環境があまりにも騒々しいため、なかなか落ち着いて読書できない。それでも、気分を落ち着かせることが大事なのだと自分に言い聞かせて、テレビやネットを見る合間に、あれこれと本の頁をめくり、実は相撲の本の書評を準備していたのだが、どうしてもブログ形式の書評欄にこの日付で平静さを装った文章を書きつけておく気にならない。そこでやはり、災害に関わる本書を最近読んで感銘を受けたところだったので、そちらを紹介しておく。すでに柄谷行人が朝日新聞(2月6日)で勘所を押さえた書評を書いているので、ここでは取り上げないつもりだったのだが、こういう事態のなかもう一度紹介しておくことも無意味ではないだろう。

 大地震、大洪水、巨大テロなどの大きな災害が起きた後、人々の間には集団パニックが起き、誰もが他の人を踏みつけにして生き延びようとすると一般的には信じられている。しかし実際の災害現場では違っていて、そこには人びとが相互扶助的に助け合おうとするユートピアが閃光のように出現するのだと、本書の著者であるレベッカ・ソルニットは主張する。単なる理想論として言っているのではない。彼女は実際に、サンフランシスコ大地震(1906年)、カナダのハリファックスの軍需船大爆発事故(1917年)、ロンドン大空襲(1940年)、メキシコ大地震(1985年)、ニューヨーク911(2001年)といった災害を生き延びた人々へのインタビューや回想録などを通して、その事実を明らかにしていく。いま現在も西欧のメディアから、東北・関東大震災下の日本人たちが略奪も起こさずに整然と行動している様子が賞賛されて話題になっているが、それは決して日本の文化的特性の問題なのではなく、西欧社会でもこれまで災害時には起きてきたことなのだ。

 例えば、サンフランシスコ大地震の後、被災したある女性は、公園に野宿していた三日目に、間に合わせのドアやテントを用いて、小さなスープ・キッチンを作り、周囲の人々のために食事を作り始めた(炊き出しだ!)。やがて居合わせた見知らぬ人々の協力で、壊れたあちこちの建物からガスコンロが集められ、食器を買うための募金が行われ、それはたちまちに200名から300名分の食事を無料で提供するキッチンへと成長を遂げたという。そのキッチンでは、見知らぬ人同士が友人になり、楽しそうに力を合わせ、惜しげもなく物を与えあった。やがて誰かが、消失してしまった同市の巨大ホテル「パレスホテル」の名前の看板を冗談めかしてそこに掲げた。つまり金銭も社会的地位も役に立たない状況に陥ると、人間たちはパニックになるよりも、普段の格差や分裂を超えて親密なユートピア空間を立ち上げる。災害社会学者チャールズ・フリッツらもこれまでそう主張してきた。

 しかし行政組織や軍隊やメディアのように、被災地の外側から救済のためにやってくる人々は、被災者たちはパニックを起こしていて、統制しなければ略奪を始めてしまうと思い込んでいる。同じサンフランシスコ大地震の場合でも、火事場泥棒は射殺してもよいと市長に指令されて送り込まれた軍隊は、略奪を防ぐために酒場や食料雑貨店に押し入ってアルコール類を破壊し始め、自らが暴徒化して被災者たちに恐怖心を与えたという。最近のニューオーリーンズのハリケーン・カトリーナ(2005年)の際にも、派遣されたイラク帰りの兵士たちが、略奪犯と間違えて市民に発砲した事件が起きたり、人々を暴徒化しないように一か所に閉じ込めたりしたことが問題となっている。

 こうした、行政組織が抱いている妄想、つまり自分たちが維持すべき社会秩序が、災害下では貧困者やマイノリティによって破壊されると考える恐怖心を、著者はキャスリン・ティアニーの用語を借りて、「エリート・パニック」と呼ぶ。エリート・パニックは必ずしも暴力の形で起きるだけではない。先のスープ・キッチンは、行政が乗り出してチケット制を導入し、割り当て分以上の食事を手に入れるような不公平な人間が出ないような正義の仕組みを作り上げたとたん、人びとはその温かみを失った官僚的なキッチンに興味を失って離れていったという。つまりエリート・パニック的な冷たさは、不公正は許さないという官僚制度そのもののなかに眠っている。

 しかし私たちは、単純に無政府主義者風に、災害ユートピアを理想的な社会として称揚すれば済むわけではむろんない(ただし、クロポトキンを肯定的に引用する著者ソルニックには、ややそういう志向がある)。社会秩序を公正に営むための官僚制度を私たちはやはり必要としている。また私たち自身もいまメディアを通して、津波が襲ってくる光景や原発の爆発する光景を繰り返し見るとき、そこで苦難のなか助け合って生き延びようとしている現地の人々とは根本的に違った、「エリート・パニック」のような心理状態に置かれている。まだ守るべき財産や家族がある人々は、それらを維持しようとする限りにおいて必ず「エリート・パニック」的に振る舞ってしまう。だからいま各地の人びとは、来るかもしれない余震や放射能の恐怖におびえて、買いだめパニックのような行動を起こしたりもしている。

 しかしその同じ人間たちが、地震当日には、帰宅困難者同士で相互に励ましあい、親密に助け合ったという話を何人かから聞いた。だから私たちが本書から学ぶべきことは、決して人間に希望を失ってはならないということだ。私たちはここのところずっと、年金受給が不公平だとかカンニングした奴は不公平だとか、相撲で八百長した力士は不公平だとかいった、誰かが得すると自分が損するかのような怨恨的なメディア報道に晒され続けてきた。カンニング事件に対して、一切の不公平さを許さないような監視システムが必要です、とテレビ・コメンテイターたちはエリート・パニック的にいきり立っていた。そうした、人間は規制しない限り不公正に行動するというエリート・パニック的な原理で運営される社会が、人間に優しく機能するわけはないだろう。

 だから私は、むしろこの大震災を契機にして、人間同士が相互的に助け合うような災害ユートピアの精神が、そうした官僚制的な社会の向こう側に立ち上がってくれればと願わずにはいられない。いや事実、そういう気配をメディア・パニック的な報道の向こう側からも私は感じる。先のマナーの良い日本人の行動への賞賛が、ただナショナリスティックな日本人論になってしまうのは困るけれど、しかしいまは多少間違いでも、そのように賞賛された誇りを胸に、助け合うことを尊重するような社会が(たとえ想像の世界であっても)、私たちの間に立ち上げることができれば、それでいい。

(付記)
 以上のように、本訳書は大変良い本だが、残念なことに、原著にあった「注」が全部削除されてしまっている。したがって本書が引用している、災害社会学の学術論文、災害時の挿話を含む新聞記事、911被災者のネットのブログなどの出所がすべて分からない。これでは、今後本書の内容の学術的な検証が難しくなる。じっさい、個人の経験談に基づくという実証的方法には危ない部分を含んでいる。だから本書にはとりわけ原注は必須である。ぜひ出版社の方で何らかの対応をしてほしい。


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