« 2010年09月 | メイン | 2010年11月 »

2010年10月05日

『中国文化大革命の大宣伝(上)』草森紳一(芸術新聞社)

中国文化大革命の大宣伝(上) →bookwebで購入

「「革命」に抗って、具体的に観察し、書くこと」

草森紳一は、どこまでも具体的に語ろうとする。ある一つの平凡な出来事に関する執拗なまでに詳細な描写が、いつの間にか抽象的・論理的な思考に結び付いていくところに彼の文章の独特の魅力がある。例えば、児童遊園(公園)を子供向きに設計する大人たちの欺瞞を暴くことを企図した連作エッセイ集『子供の場所』(晶文社、1975年)を読んで驚くのは、草森が公園で偶然に見かけたにすぎない一つの出来事をああでもない、こうでもないと延々と細かく思い返しつつ掘り下げていく、その文章の独特のうねり方である。

  例えば。小学校の校庭でゴムボールの投げっこをしていた三人の低学年の少年たちを彼が何気なく見ていると、ひとりがボールを取り損ねて小さな池へと落してしまうというアクシデントが起きる。しかし彼らはすかさず機転を働かせて、手で水を掬っては波を作って向こう岸へとボールをたどり着かせることに成功する(つまり、アクシデントへの対応それ自体が遊びなのだ)。と思う間もなく、その過程で池の中にボウフラを発見したので、子供たちはボールのことを忘れたかのようにボウフラと戯れはじめたという。
このさりげない出来事の繊細な観察を通して、草森は大人がいかなる計画を持って校庭に池を備えたとしても、決して子供がこのようにボールを池に落とすことも、ボウフラが池に沸いているのを喜ぶことも予想しなかっただろうと述べる。子供の遊びの自在性は、必ず大人の企みを超えるところに現れるのであり、だからいかなる子供向けの空間設計も欺瞞的である。これが草森の主張である。

しかし、このような主張が説得性を持っているのは、決してそれが論理的に正しいからではなく、草森自身がそれを、文章を自在に書くという行為として、いままさにそこで実践しているからである。草森は、児童遊園の分析を、子供たちが一般的にどう遊んでいるかを網羅的、実証的に探ることによってではなく、ただ彼が偶然遭遇したにすぎない一回限りの出来事の固有の表情を文学的に掴みとる作業によって行っていく。つまり草森は、ボールからボウフラへと関心を移行させてしまう子供のように、自由自在に思考を働かせながらこの文章を書いているのだ(むろんそれは決して子供のように気楽な遊びではないけれど)。

『中国文化大革命の大宣伝』という、雑誌『広告批評』に10年余りにわたって(1989年から1999年)連載された後に、2008年の著者の死後に編まれた上下2巻で1000頁を超えるこの大著においても、基本的な視座や方法は『子供の場所』の場合と同様である。ここでもまた文化大革命は、それをいかに人びとが経験したかという個々の具体的な出来事の描写を通して(ここでは直接見るわけにはいかないので、さまざまな体験者たちの回想録を利用して)延々と論じられていく。だから、文化大革命は毛沢東によって仕掛けられた権力闘争にすぎなかったのだ、といったような抽象的な大文字の結論からは最も隔たった自由な場所で、あくまで小文字で具体的な出来事として革命の諸相が描かれている。逆に言えば、文化大革命の可能性を大文字で切って捨てる人びとの思考の暴力性は、大文字のイデオロギー(毛沢東思想)に囚われた人びとが自分たちの具体的な生活を破壊していった文化大革命という暴力性に通じるところがあるということだ。つまりそれは、決して私たちと無縁ではない。

実際、本書を読みながら私が何度も思ったのは、これは実際に日本ですでに起きてしまったのかもしれないという奇妙な既視感である。文化大革命は、毛沢東の四旧打破(旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣)のスローガンに応じて、中学生を中心とする紅衛兵(子供たち)が、デパート、クリーニング店、高級レストラン、理髪店、写真材料店、古本屋、骨董屋、漢方店といった商店の看板を取り壊したり、通りや市場の歴史ある名前を「革命大路」などと改名したり、教会や寺院を破壊したり、墓地を荒らしたり(氏族支配の象徴として)、ブルジョワ的とみなした大人たちを路上や檀上に集団で引きずり出しては侮辱し、狼藉を加えたりといった、既存の旧文化を徹底的に破壊する残忍で暴力的な運動だった。

日本でも同時代に大学生を中心とした若者が、既存の社会秩序を破壊したいという欲望に根差したような暴力闘争を確かに起こしたとはいえ、このような子供たちによる大規模な文化破壊があったわけではむろんない(むろん下放もなかった)。しかし同じ60年代から70年代にかけて、大衆的なメディア文化の圧倒的な隆盛が生じ、そのイメージ文化の影響下でそれ以前の伝統的な日本文化が私たちの暮らしから縁遠いものに見えるようになっていったことも間違いあるまい。その後、古臭い演歌や大衆演劇などの文化よりもユーミンのアメリカ流ポップスやトレンディドラマの消費生活の方がよほど自分たちの身体や生活に馴染んだ文化になってしまったということは、私たちは無血の「文化大革命」に知らずして成功(?)してしまったということを意味してないだろうか。私たちはメディア文化という観念的イメージの罠にはまって、伝統的に受け継がれた文化的現実の具体性を生きることができなくなっている。それは日本の文化大革命の悲劇ではないのか(これは草森さんが書いていることではないですが)。

だから本書の主題としての、空虚な広告宣伝としての文化大革命というところを読んでいても、私が思い浮かべたのは、やはり日本のことだった。例えば「大寨に学べ」というスローガンで有名な、人口わずか五百人足らずの小村・大寨にまつわるエピソード。この農村が飛躍的な生産力の向上に成功したということで、政府がモデル農村として世界中に宣伝した結果、この村には一日二万人が聖地詣でとして訪問するようになってしまった。そこで政府は五百人収容のホテルを建てて、そこに泊まった客は劇場で生産力アップを解説した映画を見せられ、段々畑で働くやらせの農民を眺め、貯水池やダムを見物する。かつて洞窟に住んでいた農民たちも2階建てのアパート暮らしに変わる。つまり村全体の生活が、宣伝映画のセットのようにただの空虚なイメージになってしまったのだ。

確かに、何と空虚なことよと思う。しかし私はこれを読んですぐに、同じ『広告批評』がかつて面白がって紹介していたTV番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』のことを思い出してしまった。閑古鳥が鳴いている商店街にCMディレクターの川崎徹が訪れて復興計画を練りあげ、たけしの招き猫人形などを設置し、番組の現地収録をテレビで予告すると、観光客がその日の前後にどっと何万人と訪れることになる。しかし番組が放映されなくなると、たちまち元の閑古鳥商店街に戻ってしまう。むろんこの番組が狙ったのは、そうした空虚なメディア文化現象としてのテレビそれ自体を嗤うことである。テレビによる人気とは何と空虚なものかとテレビ自体が批評するところに面白さがあったわけだ。

しかし現実にいま全国の自治体が行っていることは、こうした空虚なメディア文化に頼って自らの地域を観光地化したり、名産品をでっちあげたりすることに他ならないだろう。つまり、私たちはまさに空虚なイメージの罠にはまりこんで、誰も抜け出すことができないかのようなのだ。誰もが冗談でもいいから自分の街が映画セットのようになることを夢見ている。とするならば、「大寨」というシミュラークル農村は、決して他人事ではない。中国が文化大革命を通して示した空虚なイデオロギー的現実は、いまや私たちの資本主義の文化そのものなのだ。

そのほか、毛沢東がパキスタン外相からもらった果実マンゴーが聖遺物のように全国を巡回して蝋による模造品まで作られたという挿話や、『毛沢東語録』の暗唱のスピード競争大会が開かれて、逆さまに暗唱する達人までが現れてしまったという挿話や、「二万五千里「長征」紀念マラソン」と称して、学校一周八百メートルをクラス四十七人が回るのを総計していって三か月で二万五千里というノルマ達成の早さを小学生たちが競ったという挿話など、いずれも私は単純に笑うことはできなかった。いま私たちが資本主義的競争のなかで、それぞれの会社が人びとに課しているノルマもまた同じくらい空虚なものに感じているからだ。例えばいま偶然手元にあるのだが、「アルコール度数0.00%」の偽ビールをアイディアとして思いつき、製品として作り出し、そのような宣伝文句を考えていく過程は(本人たちは成功していると思っていることも含めて)、ただ空虚というしかないだろう。私たちの現実は文化大革命のように空虚な宣伝的現実なのではないか。そんなことばかり考えてしまった。

・・・むろん、草森紳一はそのような挿話を一つ一つ丁寧に、その空虚な馬鹿馬鹿しさを実際に生きぬいてしまった人びとの視座に立って、笑いつつ、呪いつつ、しかしあくまで具体性をもって丁寧に描いていく。そしてそのことを通して、文化大革命という観念の罠を払いのけようとする。だから読者はここで決して全体像としての「文化大革命」とは何だったのかを知ることはできない。どこまでも具体的な悲惨を読み続けるのである。その作業を10年間も続けるという草森の執念には今さらながら驚くしかない。


(注記1)なお、『子供の場所』に関しては、大竹昭子氏の「目玉の人草森紳一と写真 相手に見られずに見ていたい(その2)」http://members3.jcom.home.ne.jp/kusamori_lib/medama2.htmlに素晴らしい紹介を読むことができる。この書評空間の同氏ブログでも、追悼文の意味を込めた『随筆 本が崩れる』(文春新書)の書評を2008年6月の頁で読める。
(注記2)正直言って、まだこの大著の下巻の最初の方までしか読んでいません。上巻への批評としてお読みください。


→bookwebで購入