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2010年09月18日

『「アンアン」1970』赤木洋一(平凡社新書)

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「負け組としての『アンアン』」

 『アンアン』と言っても、私には今まで反感を持ったという記憶しかない。70年代に『アンアン』(平凡出版)と『ノンノ』(集英社)という大判の女性グラビア雑誌を手にした若い女性たちが、その雑誌のモデルたちと同じ洋服を着こみ、その雑誌に紹介された通りに鎌倉や京都に旅行し、そして記事で紹介された店で買い物や食事をするという何とも主体性のない姿を、当時の人びとが「アンノン族」と揶揄したのを聞いてしまったからだと思う。ロマンチックなイメージで現実に覆いを被せて消費しようとする女性たちの姿といい、メディアが紹介した店に観光客が押し寄せるメディア消費社会のメカニズムといい、その後現在まで続くこの社会の風景を作り出した起源として、1970年の『アンアン』の創刊は確かに事件だった。

 だから私は『平凡パンチ』と『アンアン』の両方の創刊に編集社員として関わったという著者・赤木洋一が、60年代の平凡社の雑誌作りをめぐる挿話を回顧的に描いた連作である、『平凡パンチ1964』(平凡社新書、2004年)と本書『「アンアン」1970』(平凡社新書、2007年)をまとめて手に取ったときも、どこか嫌々ながらという警戒心があった。表紙カバーのそで部分に「パリのエスプリ漂う新しい女性誌作りに、天才AD堀内誠一をはじめとする気鋭のクリエイターたちが大奮闘!」とか「女性誌のあり方を変えた『アンアン』誕生の現場が甦る!」といった宣伝惹句が書いてあるのを見て、ますます嫌な感じがしてしまった。こっちは、この書評ブログでここ数回、70年代の関西的手作り文化の本を何冊か紹介して、『アンアン』が同時代に作り出したようなイメージ消費文化を批判してきたつもりだったのだ。だから「敵情視察」といったような構えた気分で私はこの2冊を手にするしかなかった。

 ところが読んでびっくり。そこには予想とはまったく違う光景が広がっていて、私の警戒心はみるみる解けていった。赤木洋一と言うこの著者の人間観察力とエピソードの描写力が実にしっかりしていて、ぐいぐいと引っ張られるように面白く読めてしまう。何より回顧談というのに自慢話をしないのがいい。確かに成功者たちの若かりし姿が描かれているのだが、決して後からそう見えるような成功者として彼らを神話化して描くことがない。まだ成功するかどうかわからない不安と混沌に満ちた創刊時の状況を、自分にとって恥ずかしい軋轢や失敗までをも含めて冷静に描き出していく。いや実際に70年に創刊してから、評判はいいのに全然売れずに赤字に苦しんでいた最初の2年間のことだけが書かれ、73年以降会社を支える雑誌に大化けしていく成功した『アンアン』のことにはほとんど触れようとはしないのだから、著者の姿勢は潔いほどだ。だからこれは、いわば負け組としての『アンアン』の物語である。

 例えば創刊の噂を聞きつけた『装苑』(文化出版)の編集者に、「ファッション誌を出すんですって? おたくに型紙の校正ができる編集者がいるの?」と言われたというエピソード(41頁)。その頃の洋服は、洋装店で仕立てるか、ミシンを使って自分で縫うものだった。当然ファッション雑誌には、読者が自分たちの服を作るための型紙が必須だった。むしろデパートなどで陳列されている既製服は、「実用」とか「野暮」というイメージしかなく、「ブラ下がり」と呼ばれて侮蔑されていた。著者もパリの取材では自分ひとりのためにモデルが入れ替わり出てくるオートクチュールを経験する。そちらこそがファッション文化の王道だった。つまり『アンアン』が提起しようとしていた若い女性向けの既製服文化は、まだ社会のなかに占めるべき位置を持っていなかったのだ。だからこそ最初は、読者がついてこられなくて売れなかった(実際、まだ雑誌に掲載しても売られる服の数が少なかった)。

 むろん、だからこそ『アンアン』は先駆者だったのだ、と後からは見える。そしてその成功に反感を持って人びとは「アンノン族」などといった揶揄の言葉を投げかけた。しかしそのような『アンアン』の一般的イメージこそ、まさに私が敵視しようとするメディア化された空虚なイメージにほかなるまい。しかし逆説的なことに、そうした空虚なイメージ文化の勝者『アンアン』を描いた本書は、私のそうした神話的イメージを解体するような具体性の力を持っている。

 そういう力を本書に与えているのは、(先述したが)赤木洋一のしっかりした人物観察力だと思う。例えば、堀内誠一に連れられて、パリから連れてきた専属モデル・ベロとスタイリスト・原由美子(原敬の孫)の四人で鎌倉の澁澤龍彦邸を突然訪ねたときの描写を見てみよう(155-6頁)。

 ・・・澁澤さんは気さくな、と言うか人柄の良さが顔に出ているようなヒトだった。著書などから想像していた気難しい学者タイプ、というぼくの予想はまったく外れたというわけだ。/堀内さん以外の三人とは初めて会ったのに、形式的な挨拶は何もない。かといって三人が無視されているわけでもない。何と言ったらいいのか、最初からウチワのヒト、とでもいうような扱いなのだ。(中略)/酒が出てしばらく飲んでいるうちに、澁澤さんが遠来のパリジェンヌを歓迎すると言いだし、立ち上がってオペレッタを歌い始めた。楽しそうに、軽妙に。

 思わずどこまでも引用を続けたくなってしまう。そのときその場でしか味わえない、独特の雰囲気が見事に描写されているからだ。このようなかけがえのない場の空気や時間こそが、『アンアン』によって流通していく、鎌倉だのルイヴィトンだのパリだのをめぐる「メディア・イメージ」によって失われてしまった、もう一つの文化だと言えるだろう。そうしたもう一つの文化を味わう力を、本書は教えてくれる。もう1冊の『平凡パンチ1964』でも、岩堀喜之助、石原裕次郎、伊丹十三などの飛び切りの挿話が楽しめる。両者を併せて読まれることを薦めたい。
 


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2010年09月15日

『アフロ・ディズニー』菊地成孔・大谷能生(文藝春秋)

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「とんでもなく面白い、20世紀メディア文化論」

  ともかく、とんでもない本である。20世紀のメディア文化(レコードと映画という視聴覚文化)とは何だったかを改めて考え直そうというのだから、議論のテーマがとんでもないというわけではない。ところが読み始めると、どう考えてもとんでもないのだ。私の予想とは全く違うところで言葉が紡がれて行ってしまう。サックスミュージシャン(菊地成孔)と音楽批評家(大谷能生)のコンビによる慶応大学での特別講義録ということもあって、何らかの理論的体系を順序だてて説明していくというよりも、ジャズの即興演奏のように逸脱や繰り返しをはらみながら、まるで子供が遊んでいるかのように自由に議論が進んでいく。行きつく果ては本人たちもわからないといった感じだ。

 しかし必ずしもそうした語りのフリー・スタイルがとんでもないというだけではない。やはり、その語られている内容もまたとんでもないのである。本書を読むと、私たちにとって自明の風景のように見えているポピュラー音楽や映画文化が、とんでもなく奇怪な相貌を持った文化のように見えてきてしまう。その認識の変容過程が私にはとても痛快で、スリリングだった。

 例えば私たちは、レコードとは音楽を複製可能にしたメディアだと常識的に思う。ところがこの二人は着目点が全く違う。レコード(CD)を聴くときにいったい眼はどこを見ればいいのですかと学生たちに問いかける。めちゃくちゃ可笑しい。私たちはいつの間にかPVに慣れてしまって、あたかも音楽は映像とパッケージ化されていることが普通のように思い込んでいるし、ウォークマン以降、街を歩きながら音楽を聴くことが習慣化している。しかしかつて私たちはステレオセットの前に座って、(目のやり場に困って)ジャケットとにらめっこしながら音楽を聴くしかなかった。
 
 そう説明しながら、彼らは実際に教室でマイルス・デイビスの『マイ・フェイヴァリット・シングス』のジャケットをOHPで拡大してスクリーンに映し出しながら、学生にこのLPを聴かせてみる。このように何も見るものがない状態で音楽を聴くとき、私たちは「視覚情報を切り離し、自分の内面に潜り込んで、その妄想力を勝手に飛躍させる」経験を獲得するはずだ、と。そしてそれを極端に儀式化したリスニング・スタイルとして、ジャズ喫茶のあの神聖な雰囲気があったのだ、と。

 同じように、私たちは映画と言えば、映像と音や音楽がシンクロしている状態で物語を情動的に楽しむのが常識となっているが、しかしその常識も二人は覆してしまう。今度は、そもそも映像と音楽が合っている状態って何なのですかね、と学生たちに問いかける。本当のことを言えば、私たちは映像を見ながら何かを聞くということの意味がわかってないのではないですか、と。そしてグラビア誌『Sabra』の付録DVDのなかの「ビキニ姿のグラヴィアモデルが、胸に万歩計を付けて、笑いながらジャンプしている」映像に、モートン・フェルドマン、シュトックハウゼン、カーペンターズ、ジャネット・ジャクソンといった多様なジャンルの音楽をかけてみて、どれでも合っていると言えば合っているし、そうでもないと言えばそうでもないでしょう、と笑わせる。実際のところ映画はサイレント映画として発明されたのであるから、音とは関係ない文化のはずだったのだ。むしろサイレント映画を観た人間たちは、聴覚を切り離して世界を眺めることでその妄想力を飛躍させる経験を得ていたはずなのだ、と。

 映像のない音としての「レコード」と音のない映像としての「サイレント映画」。こうした視聴覚経験の人工的分断による、音と映像のそれぞれの濃密な感覚受容から人間は無意識的に何かを妄想してしまうというわけだ(麻薬のように)。その何かを彼らは、「倍音」(正確には下方倍音列)の比喩で捉えようとする。楽譜の表面には現れないような、しかし演奏を通して人間の脳が勝手に聞いてしまう無意識的な音の響きを、彼らは西欧古典音楽の理論が排除してしまった倍音=聴覚的無意識として称揚し、同じように映像のモンタージュによって、そこに写ってないはずのものを人間が無意識的に見てしまう可能性を映画のなかに探求したエイゼンシュテインの理論が肯定的に紹介される。
 
 こうした視覚的・聴覚的無意識に20世紀メディアの文化の可能性を見る二人にとって、敵役として想定されているのが、ディズニーのアニメーションと音楽のプロモーション・ビデオであるのは明白だろう。ただのネズミのマンガに生命感を与えるために、ディズニーは『蒸気船ウィリー』でミッキーに、BGMに合わせて口笛を吹いて、足でリズムを刻ませつつ登場させた。そしてミッキーの動きには、いちいちそれを強調するための音楽的アクセントが付けられた。したがってここではメディア文化の起源における映像と音楽の分断は見事に隠ぺいされ、過剰なまでの両者のシンクロが達成されているのである。すると「『そこで起きていることの総てが、明確なメッセージとして。こちらに理解出来るように発信されている』という強烈な感覚を観客に与える。」(158頁)。だから観客は、アニメーションによって、すべてがわかったかのような幼児的な全能感を得ることができる。私たちはメディア文化によって幼児へと退行しているのである。

 実際21世紀のメディア文化は、こうした幼児的全能感を観客に与えるように、過剰なまでに映像と音をシンクロさせるようなっているだろう(だからポピュラー音楽にはPVがパッケージ化される)。だから私たちにはいつの間にかサイレント映画やレコード音楽のように無意識の妄想力を発揮する力が失われてしまった。それに対して菊地・大谷の二人は、視聴覚のシンクロ状態を分断することによって、人びとが妄想できるような力を取り戻さなければならないと考える。
 
 おっと、学者の悪い癖が出て、二人のもっと多義的で雑駁な話をある価値観によって論理的に整序する作業をいつの間にか初めてしまった。実際には彼ら二人は、レコードとサイレント映画が19世紀のオペラと比べて幼児的であることを強調しているのだから、私のいまの紹介とは微妙に本書の論旨は違っている。むろん、それは彼らのミスと私は思っているから、わざとこんな紹介にしたのだが、それにしても、これでは読者の自由な妄想の余地を狭めてしまうかもしれない。私は急いで撤退することにしよう。だから、ファッションモデルがランウェイの上を歩くときにはBGMのリズムと身体の動きを微妙にずらしているだとか、ブラック・ミュージックは幼児的シンクロを目指してきた20世紀的文化とは対抗して、19世紀的な社交文化としての「ずれ」や「揺らぎ」を目指してきただとか、人間が夢を見るのは日中に知覚した光景を改めて調律するための一種の作曲行為だなどといった、数々の驚くべき卓見に関しては、実際に本書を当たっていただくことにしよう。

 代わって最後に私自身の妄想を一言だけ加えたい。ここではレコードと映画における受け手の妄想可能性が論じられているのだが、書物の場合にもその力はあるのではないか。私はさっき、マイルスのジャケットを眺めて音楽を教室で聞いたという挿話や、グラビアモデルが飛び跳ねている映像にシュトックハウゼンを流したという挿話を紹介した。私はその講義の場にはいなかったが、本書でそれらを読んで声をあげて爆笑してしまった。いやむしろ、こうした挿話は、その場に私たちがいなかったからこそ、ある種の想像力を私たち読者に喚起させるのではないか。つまり教室で経験する以上にそれを記述する文章が面白くなる可能性があるのではないか。そのような読書における妄想力を喚起させるためにこそ、本書はフリージャズ的な語りのスタイルが選ばれているのだと思う。その不思議な読書体験のありように、私は本書の内容と同様の強い魅力を感じた。


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