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2009年07月19日

『私のなかの東京  わが文学散策』野口富士男(岩波現代文庫)

私のなかの東京  わが文学散策 →bookwebで購入

「東京のアーキテクチャを批判するのでなく、そのテクスチャーを味わうこと」

   前回の「つけたし」に書いたように、坪内祐三お薦めの野口富士男の短編集『暗い夜の私』(1969年、講談社)を読んで、私は大きな衝撃を受けた。素晴らしいと思った。しかし残念ながらこれはすでに絶版なので、本書評ブログでは紹介できない(ぜひとも講談社文芸文庫で復刊してほしい)。仕方がないので、同じ著者の『私のなかの東京 わが文学散歩』を取り上げることにする。しかし本書もまた、私は頁を開くなり度肝を抜かれた。確かに題名どおり、本書は野口氏(明治44年生まれ)が長年にわたって暮らしてきた東京という街の思い出が、改めて(1978年ごろの執筆当時に)街歩きをして自分の記憶を確認しつつ、さまざまな文学作品や文学者の記憶と重ねあわて描かれている。目次を眺めると、「外濠線に沿って」、「銀座二十四丁」、「小石川、本郷、上野」、「浅草、吉原、玉の井」、「芝浦、麻布、渋谷」、「神楽坂から早稲田まで」となっていて、一見したところ、漱石や荷風や一葉や秋声などの文学に関わりそうな地域がごく平凡に選択されているように見える。だが良く見ると、とんでもないのだ。各章の扉には、その章で紹介される地域の概略化された地図が掲げられているのだが、これを見て私は何度も茫然としてしまった。
 まず冒頭の「外濠線に沿って」の地図を見てみよう。左上部分には飯田橋駅から市ヶ谷駅にかけての中央線とその周囲の通りが描かれている。そこから中央にかけて順に、四谷、赤坂、霞ヶ関、虎ノ門あたりの目印的な建物や通りが並べられ、その一番右端には山手線の新橋駅が置かれ、その手前から下に向かって三田近辺の地図、つまり著者の母校・慶応義塾大学の関連施設がたくさん描かれている。つまり、著者が大正期に住んでいた牛込町から慶応義塾大学の幼稚舎(小学校)に通うのに利用していた「外濠線」という市電(後の都電三号線)の通り道の地図であることが分かる。その意味では、これはまさに野口氏にとっての「私のなかの東京」と呼ぶべき地図なのかもしれない。しかし、私はそんなに簡単に納得できなかった。飯田橋から赤坂を通って三田の慶應大学へ行くという道筋が、1959年生まれの私にはどうしても思い浮かべられないのだ。飯田橋から三田へ行くなら、中央線を使って秋葉原や東京に出て、それから山手線で下っていくというルートしか思い浮かばない。しかし大正期には、そうやって皇居の西側を通っていく交通路のほうが普通だったらしい(もしかして国家的戦略で地上からは消されたのではないか)。つまりこの地図は、いまの私自身には思い浮かべられない、東京の別の相貌を見せてくれるかのようなのだ。

 「小石川、本郷、上野」の地図もまたすごい。地図の上方部は、なぜか目白(!)の椿山荘や護国寺や江戸川などが置かれていて、その下方の地図中央あたりに左右に白山通りが走っていて、その下半分にようやく私たちが想像する「小石川、本郷、上野」周辺の地図が描かれているのだ。このように目白から上野までを細長く一つの地域として描く地図を、私はこれまで見たことがなかった。目白と上野では、山手線の円周のちょうど反対側にあって随分と遠い地域だとしか私には思えない。そして、「芝浦、麻布、渋谷」の地図がまたすごい。いちばん上方に国鉄渋谷駅が、いちばん下方には田町駅と浜松町の駅が描かれ、海岸沿いの芝浦から渋谷川沿いを上流に遡って麻布十番から渋谷までを辿っていく散歩コース(とても一度に歩ききれないと思うが)が描かれているのだ。そこには恵比寿や白金台周辺に関する地名も施設もいっさい描かれないまま、ひたすら野口氏の子供時代の記憶に従って渋谷川の橋と通りの名前が順番に丁寧に描かれている。

 しかし、いまこれらの地域を、実際の地図を見て確認してみると、なるほど私が頭のなかで考えていたほど距離的に離れているわけではない。例えば目白と上野が遠く感じるのは、出回っている山手線の案内路線図が、本来は縦に細長い円周を持っているこの路線を真ん丸に歪めて描いているために、現実よりもずっと遠いエリアであるかのように私たちが錯覚しているだけらしいのだ。実際の地図を見れば、確かに目白と上野は、皇居(江戸城)北部の同じ山の手地区に存在するといってもおかしくはない(でも散歩するには遠いけど)。渋谷と芝浦も鉄道でつながっていないだけで、直線距離としてはそんなに遠いわけでもない。つまりどうやら、私の常識のなかにある東京地図のほうが、よほど現代の社会的常識によって歪められたメンタルマップであり、野口氏の私的な東京のほうがむしろ客観的なのではないか・・・

 そう考え始めた私は、本書を手に持って「外濠線に沿って」のルートの実際を確認してみることにした(目指せ「ストリート・ワイズ」?)。ネットで調べると、良く似たコースをたどる都営バスの「橋63」という路線が存在しているようなのだ。私の勤務先の早稲田大学戸山キャンパスの裏手の国立国際医療センターにあるバス停から乗車すると(小滝橋車庫が始発)、牛込柳町、市ヶ谷、麹町、永田町、霞ヶ関、日比谷公園(内幸町)を通って、新橋駅まで45分以上かけて走っている。むろん私のように早稲田から永田町や新橋まで行こうとするような客は一人もいなかった。5分から10分ごとに客はどんどん入れ替わっていく。しかしバス路線を突然に無くしたり、変更したりすることはさまざまな地域の人びとの生活を変えてしまう大変なことなのだろう。だからこのバス路線は、誰に気づかれることもなく大正期の都市交通の歴史的古層をむき出しにしたまま、毎日走り続けている。むろん、それは都市交通が規定するアーキテクチャの一つにすぎない。しかし私はそのバスをちょっと利用してみただけで、東京のテクスチャーがまったく違って感じられるようになった。牛込柳町のこじんまりした街の感じから麹町のお屋敷街へ、そして国会議事堂や官庁街を見てサラリーマンの街・新橋へと一挙に移動していくのは実に楽しかった。東京のアーキテクチャは決してまだ味わいつくされていない。それがこのルートのバスに乗って私が感じたことだ。

 ついでながら、野口富士男は、ほぼ同じルートのバスに2・26事件(1936年)の日の夕刻に乗っている。都新聞の記者だったが、非番で麹町の自宅にいた野口は、自宅の周囲にまで兵隊が大勢いて何か様子がおかしいので、日比谷図書館の向かいにあった社まで、私が乗ったバスとほぼ似たルート(黄バスと呼ばれていたそうだ)で社に向かったと「その日私は」という傑作のなかで記している(先の『暗い夜の私』に所収)。野口氏が3日に渡って社内で「読み合わせ校正に声を嗄らしながら」報道合戦に参加していたとき、戒厳部隊は「半蔵門―赤坂見付―虎ノ門―日比谷交差点に機関銃を据え付けた」という。つまり私が乗った都営バス「橋63」は、そのような血なまぐさい歴史の痕跡の線(戒厳部隊の包囲線)を辿っていくように走っているのだ。こういう歴史を知ると、よりいっそうこの「外濠線に沿って」の味わいが深まるだろう。

 つまり本書は「私のなかの東京」という題名を持っているが、現代の私たち自身の「なか」に居座ってしまった「東京」イメージを壊すような、歴史の古層をいまの東京から切り取って見せてくれる。いや私たちが、懐古的な文学趣味とは違った、歴史意識を持って本書を利用しなければならないということだろう。そうでないと本書の価値は半減してしまう(文学散歩なら類書はいくらでもある)。本書のほかの独特の地図も、改めて実際に探索してみなければなるまい。


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