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2009年06月19日

『ストリートワイズ』坪内祐三(講談社)

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「ちょっとだけ古くさいぞ 私は」

 新刊本が苦手だ。著者によって発せられたばかりの言葉が、なまなましく突き刺さってくるような気がして冷静に受け止めることができない。知人に直筆の葉書をもらったときにも、蒸しタオルを冷ますような気分で掌の上でころがしてから読むくらいだから、もはや精神的な病である。結果として、この書評ブログでも、古典でもなく新刊でもなく、ちょっとだけ時代遅れの本ばかりを取り上げることになって恐縮である(むろんそういう本こそが本屋の文化にとって大事だと思っているから紹介するわけだが)。
  坪内祐三のデビュー作である本書も、1997年に晶文社から刊行されたときに、新刊本の平積み台から何度か取り上げては頁をめくった覚えがあるが、結局は買えなかった本だ。『古くさいぞ私は』(晶文社、2000年)も『後ろ向きで前へ進む』(同社、2002年)もそうだった。ベンヤミンを匂わせるような題名も、サブカルと思想が入り混じる内容もとても気になるのに、あまりにも題名が直球で迫ってくる感じが居たたまれなくて、買えなかった。そしていざ買ってみた『靖国』(新潮社、1999年)が駄目で(サブカル感覚と保守の結びつきが趣味にあわないのか)途中で投げ出してしまった。その後『一九七二』(文藝春秋、2003年)を読んでかなり感心したにもかかわらず、最初のすれ違いが尾を引いたためか、なかなか他の著書を読む気がおきなかった。

 ところが去年の秋に、私の中で突然、時期外れの坪内祐三ブームが起きてしまった。たぶん彼の著書の社会的評価が安定し、本屋のなかで「冷めた蒸しタオル」の領域に入ったのだ。ちょっとだけ「古くさ」くなった坪内祐三の著書は、実に私の趣味にぴたりとあう。そうなるともう止まらない。上記の本も明治ものもサブカルものも書評・古本ものもすべて面白い(『靖国』だけが本棚に積読のままだけど)。たちまち20冊以上を買って読んだなかでも、印象に残った一つが本書『ストリートワイズ』だ。プロレス、プロ野球、情報誌、古本といったサブカルチャーだけでなく、福田恆存を軸にして真正面から戦後思想に取り組んでいるのがとてもいい。今回4月に文庫化されたので(晶文社版も入手可能なようだ)、半年振りにじっくり読んでみた。やはり面白かった。

 本書の白眉は、大岡昇平の『俘虜記』に対するドキリとするような批判だろう(「『俘虜記』の「そのこと」」)。『俘虜記』は、戦場で米兵を撃つチャンスに撃てなかったという大岡自身の、一種の良心的懲役拒否の記録として高く評価されてきた。ある意味では戦後の平和主義思想の精神的なバックボーンになってきた文学作品といえるかもしれない。ところが坪内は、その撃てなかった場面の描写に、大岡の自己正当化のための無意識的な嘘をかぎつける。大岡が撃てなかった理由は、殺人の道徳的忌避などではなく、「撃てば撃たれる」という恐怖のためではなかったのか、と。つまり、大岡昇平=戦後民主主義者が理念としての平和を良心的に掲げてきたのに対して、そんな態度は「現実の醜悪さ、人間性の奥深くにひそむエゴイズム」(101頁、ただし福田恒存からの引用)から目を背ける「純粋病」の一種にすぎないというのだ。むろん、この理屈だけを取り出せば、福田恆存から坪内が学んだ、典型的な保守派の主張かもしれない。ただし坪内はその主張を、いかにもブッキッシュな彼らしく、初出雑誌版と単行本版の比較、対談ごとによる大岡自身の本作への評価のズレや記憶違い、発表当時のほかの作家たちによる否定的評価など、多数のテクストを渉猟しながら進めていく。そうした厚みを持った読みと探求によって、『俘虜記』への批判が逆に『俘虜記』を深く味わうための導きの糸にもなっている。そこがいいのだ。

 このように坪内は基本的には、戦後民主主義思想の「純粋病」的なエゴイズムに批判的である。しかし本書所収の「あいまいな日本の「戦後民主主義」」は、そうした保守派的な批判には収まらない、彼独自の戦後民主主義へのかすかな希望が探求されていて興味深い。この論考もまた大江健三郎の粗雑な戦後民主主義論への保守派的な嫌味から始まるのだが、しかしその後で坪内は、橋本治や中野翠らが戦後民主主義を「原っぱ」や「青空」の比喩で肯定的に論じているのを引きながら、「学内戦後民主主義」と「放課後戦後民主主義」の比較検討へと議論が展開していくのだ。放課後戦後民主主義とは、原っぱという何の意味もない空き地に思い思いに集まってきた子供たちが、それぞれの野性の知恵を出し合って成文化されることのないルールで遊ぶことである。それに対して学内戦後民主主義は、子供たちの自発的な遊び空間を、危険なことは駄目だとか「あの子は入れてやんない」という差別は駄目だとかといった偽善性によって抑圧してしまうことである。坪内は書く。「私は、「戦後民主主義」という言葉の八割に偽善性を、つまり平等という名を笠にきた無責任なものを感じながら、残りの二割に、機会は全ての人の性格や能力に応じて平等に開かれているという、明るい前向きなものを感じている」と。
 
 現代の文化状況のなかでは、「学内戦後民主主義」的文化によってほとんど抑圧されてしまったかのように見える、こうした「放課後戦後民主主義」的な感受性をどのように現代のなかに発見し、救済するかという問題意識に関して、私は坪内に深く共鳴する。むろん、そのために古くさい読書体験やサブカル体験に関する知恵をマニアックに書き連ねていくこともいい。坪内にとって放課後は「原っぱ」というよりも書店やレコード店や映画館のことなのだ。だからいっそのこと「ストリート」といった表現を看板にせずに、書物というヴァーチャルな空間においてこそ人間の深い知恵は発揮されるのだと言い切ってしまったほうがすっきりするのではないか。「ブッキッシュワイズ」(そんな表現ないだろうが)こそが、本当のこの本のタイトルではないか。いや、そう読めてしまうからこそ、すでに私は坪ちゃんのファンなのだった。

 付記(おまけ)
 本書のなかでベンヤミンと並べて暗い人として紹介されている野口富士男の『暗い夜の私』(講談社、1969年)が気になって、古本屋で買って読んでみてぶっ飛んだ。すごい。例えば最初の章は、ベンヤミンが亡命した年と同じ1933年の日本における政治的抑圧状況下での演劇、政治、映画などの文化状況が個人的な視点から実にリアルに描かれている。まるで日本版『ベンヤミン―ショーレム往復書簡』のようなのだ。ちなみにこの1933年、野口富士男は紀伊国屋出版部で『行動』という雑誌の編集者の仕事をしていた。色街で遊ぶ田辺茂一の話も印象的である。



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2009年06月16日

『全国アホ・バカ分布考~はるかなる言葉の旅路』松本修(新潮社)

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「日本人は近代以前からずっとテレビを待ち望んでいた」

 テレビと方言では相性が悪いはずだ、と思い込んでいた。中央発信型のテレビ番組は、各地に根付いてきた地方独特の話し言葉を標準語や関西弁によって風化させてきた。だから私も大好きな、関西の超人気番組『探偵!ナイトスクープ』が、日本各地のさまざまなアホ・バカ方言の分布を大規模調査した結果を番組とし(1991年、朝日放送)、その番組のプロデューサー松本修氏がその調査結果を方言関係の学会で報告したという話は確かに知っていたが(確か、その学会発表の様子をニュースで見た覚えもある)、しかし特に興味を持つことができなかった。テレビが方言を救うなんて、何だか罪滅ぼしか誤魔化しのようなものではないか。だから私は、その番組による方言調査と学会報告の一連の過程をドキュメントとして描いた本書に関しても(1993年、大田出版)長い間、手に取ろうともしなかった。しかし今年の春、『探偵!ナイトスクープ』という番組の面白さについて改めて考えなおす機会があって、その参考資料の一つとして、文庫になった本書を何気なく読んで驚いた。テレビと方言とは相性が悪い、という私の常識はすっかり覆された。両者は、必ずしも相性が悪いわけではないようだ。というよりも、「方言とは何か」とか「地域の伝統文化と近代的なメディアはどういう関係を持つのか」という問いに関して、私は自分の常識的な考えを根本的に改めざるを得なくなった。

 松本修がこの番組の「全国アホ・バカ分布」調査によって明らかにしたのは、柳田国男の方言周圏論の正しさである。方言周圏論とは、同じ方言が、京都を中心にした同心円状の地域に分布しているという仮説である。つまり、ある方言は、むかし京都で流行った言葉が、池に石を投げ込んだときに出来る波紋のように、地方の周縁へ周縁へと同心円的に伝播して行った結果としてその地域に残存しているのだ。柳田が例に挙げたのはカタツムリ。カタツムリは近畿地方では「デデムシ(デンデンムシ)」と呼ばれ、その東西の地域(東海地方や福岡県)では「マイマイ」と呼ばれ、さらにその周囲の東西では「カタツムリ」とか「ツブリ」と呼ばれ、最後に京都から一番離れた東北と九州の一部では「ナメクジ」と呼ばれている。だからこの理論に従えば、京都で一番古く流行った古語が東北の方言「ナメクジ」で、一番最近の流行語が近畿の方言「デデムシ」ということになる。全国各地の市町村の教育委員会へのアンケート調査によって明らかされた、『探偵!ナイトスクープ』の「アホ・バカ」表現の分布調査の結果も、このカタツムリの場合と同じだった。文庫のカバー裏に印刷されている「分布図」を見ればわかるように、近畿圏のアホを一番小さな円にして、アヤカリ、アンゴウ、バカ、タワケ、ボケ、ダラ、ホンジナシなど、18の同心円が日本列島の中心(京都)から周縁へと何重にも積み重なっている。

 この調査結果の持つ意味は、見かけよりもずっと重大である。まずアホは関西特有の文化で、バカは関東特有の文化だという私たちの根強い常識が崩される。バカもまたむかしの京都の流行語が伝播した表現なのだから、決して関東地方に特有の言葉なのではない。じっさいに京都を中心に描いた同心円上にあって、関東とちょうど反対側の地域にある中国・四国・九州などにもバカ表現は広く分布している。それに対してアホは単に近世の京都の流行語であり、近畿一帯に流行の輪が広がったところで明治維新になったために、関西の方言に留まったというのだ。もし明治維新がなければ、きっと今頃関東では「アホ」が大流行し、関西では「アホ」に変わる別の新しいアホ表現が流行していただろう。つまり、方言周圏論では、私たちが常識として持っているような東西文化圏という考え方を壊すどころか、言語文化に関する地域の土着性をほとんど認めない。何しろすべての方言は、その地域が京都の流行語を受け入れた結果として話されているというのだから。

 何とも常識外れの理論ではないか。私たちは常識的には、それぞれの地方に根ざした独自の言語表現として方言があり、その自発的な言語表現を政府やメディアによって中央から強制された標準語が破壊してきたのだと考えてしまう。だからテレビと方言は矛盾するはずだ、と。しかし本書が明らかにしたのは、日本人はずっと昔から中央の流行語に魅惑され、新しい流行表現を積極的に採り入れて日常語としての「バカ」を表わそうとしてきたという事実だ。だからいわば、日本人は近代化以前から、あらかじめテレビ文化を待ち望んでいたとも言えるのだ。日本人は古くから常に日常生活のなかで、使い慣れた言葉よりも、耳慣れない新奇な表現を使って遊戯的にコミュニケーションをすることを楽しんできた。そういわれれば確かに、現在の子どもたちが、「そんなの関係ネー」とか「グー!」といった新しい流行語を、テレビメディアを通して次々と消費していく様子に私たちはいつも驚かされるだろう。そうしたメディア現象を、私たちはついついメディアの情報操作力に子供たちが煽られた消極的結果であるかのように考えてしまう。しかしそうした流行語現象は(速度こそもっと遅かったとはいえ)もっと日本社会の古くからの伝統に根ざした、私たちの言葉への積極的な欲望の表れだったらしいのだ。ついでに言えば、松本氏は本書の後半で、アホやバカの語源を白楽天の詩などの中国語の典籍に求めている。京都の僧侶や知識人たちが読んでいた最新流行の外国語文献が、新しいバカ表現の発信源だったのだ。つまりアメリカ占領下でアメリカのハリウッド映画やポピュラー音楽や西欧文学に魅惑されるよりずっと以前から、外国かぶれであることもまた日本の伝統だったらしいのである。

 こうして、伝統文化と近代文化の二項対立を覆してしまう理論を実証してしまっただけでも、本書は充分に衝撃的な力を持っている。だが、さらに本書は日本文化についての、もう一つの重要な論点を提起していることも指摘しておこう。それは、日本語におけるさまざまなバカ表現の持つ、婉曲的で愛に満ちた豊かなニュアンスのことである。著者は、さまざまなバカ表現の少しずつ異なったニュアンスを調べていくなかで、それらに「狂っている」というような差別的意味が含まれていないことを発見していく。例えばバカとは「乱暴・狼藉を働くこと」であり、ホンジナシは「ぼんやり者」であることを指し、アンゴウやタクラダは「間抜け」を意味し、「ボケ」は気持ちの穏やかな人というニュアンスを持つ。つまり日本人は、アホ・バカ表現を日常生活のなかで、まるで寅屋のおいちゃんやおばちゃんが寅さんに「バカだねえ」と言うときのように、その相手に対する愛情をこめて使い続けてきたのだ。そのような主張に基づいて松本氏は、琉球の「フリモン」というバカ表現が、辞書掲載の通説では「気の触れた者=狂人」となっていることが誤りであって、本当は「ぼんやり者」という意味であると、音韻規則などによって学術的に覆してしまう(本書の白眉のひとつである)。

 この松本氏の「愛情あるバカ表現」へのイデオロギー的なまでのこだわりは、『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組の本質と深く結びついているといえよう。この番組に出演する素人は、ほとんどアホかバカである。一目惚れしたマネキンと結婚したいと願望し、本当に親を呼んで結婚式まで挙げてしまう若い女性や、番組が用意した役者のゾンビと本気になって闘う子供たちや、ルー大柴を死んだ自分のお祖父さんであるかのように思って涙する一家は、一歩引いたところから冷めた目で観察すれば、ただの狂人にしか見えない。しかしこの番組は、決して彼らを差別的に見下そうとはしない。あくまで「アホやなあ」とやさしい肯定的な気持ちで接するから、私たち視聴者もその素人たちのアホぶりに共鳴して心から笑い、ときに感動して涙するのである。つまり松本修が方言としてのアホ・バカのニュアンスに発見していったのは、彼自身の作るテレビ番組の面白さを支えている日本社会の文化的基盤だったのだ。

 自分では良くわからない情熱で、視聴者の依頼にすぎなかったアホ・バカ方言の謎をこれでもかこれでもかと探求していった結果、気がつけば彼自身がいまここで作っているテレビ番組自体の面白さ=アホさの秘密を手にしていた。その意味では、彼自身がどこかでアホである。だから本書は感動的なのだ。関西にはバカ表現がないと信じていた著者が、ある日「バカモン」という日常的に使用されている関西弁を発見してしまうときの驚きと感動。それが本書全体を満たしている、アホが、自分がアホであることを知っていくという知の喜びである。私たちは身近なテレビについても、自分の地域文化についても、日本についても何も知らないアホであるらしい。だから知的探求へのきっかけは私たちの目の前に溢れている。ただ私たちはアホを許さない常識という曇りガラスのせいで、それに気づいていないだけなのだ。私は、本書にそう励まされたような気がした。

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『ベンヤミン―ショーレム往復書簡』ゲルショム・ショーレム(山本尤訳)(法政大学出版局)

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「終わってしまった歴史のなかに希望を感じる」

 法政大学出版局による味気ない装丁の専門書的な雰囲気、400頁を超える分厚さ、そしてユダヤ人学者同士の往復書簡というマニアックな内容など、本書を包み込んでいる秘教的な雰囲気(オーラ)は、最初から多くの読者を遠ざけてしまっているように思う。いや確かに常識的に考えれば、本書はベンヤミンやショーレムの著作に慣れ親しんできた一部の専門家や好事家だけが、彼らの思想的背景をより深く知るために読むような専門書ということでよいのかもしれない。しかし私は、そんな扱いではあまりにもったいない気がして仕方がないのだ。むしろ本書は、知的好奇心があってベンヤミンの著作を開いてはみたものの、その難解さと読みにくさを前に挫折してしまったような多くの読者が読むべき、彼らの思想への入門書的な役割を果たすユニークな、面白い書物だと思う。

 何が一番「面白い」のかって、なまなましいのである。二人は往復書簡のなかで、1930年代のドイツやイスラエルの歴史的状況(ナチス政権成立直後にドイツからエルサレムへとユダヤ知識人が大量に移住してくる様子、パレスティナで頻発するテロの状況、彼ら自身の家族のナチスによる逮捕や強制収容所への収監、新聞法成立によるベンヤミンら左翼批評家の締め出しなど)を、彼ら自身の運命を刻一刻と変えつつある危機的な出来事として、切迫感を持ってヴィヴィッドに記述している。私がもっぱら、強制収容所の大量虐殺という破局的終末から決定論的に振り返ろうとする歴史書や回顧録や再現ドラマで獲得してきた歴史的知識が、ここではまるで臨時ニュースのように、これからまだ何が起きるか分からない切迫したなまなましさによって、生命を与えられるかのようなのだ。つまり読者は、まるで30年代のユダヤ人の破局のプロセスを追体験していくかのような奇妙なリアリティと興奮を本書から覚える(不謹慎な言い方ですみません)。

  しかも、あの独特の文体を持つベンヤミンが、学生時代からの親友ショーレムに向けて実に率直に(しかしやはり見事な言い回しで)自分の生活の苦境を報告し、研究への補助を嘆願しているのもいい。誰か編集者を紹介してくれ、でもあいつでは嫌だ、あの雑誌には原稿料の値上げを要求したら寄稿を断られた、亡命先なので自分の書いた過去の文献が自分では参照できないからいつでも郵送で参照できるように君の文庫で揃えておいてくれ、などなど。本当にリアルな、研究者としての生活観に溢れていて身につまされる。第一級の才能を持った高学歴ワーキングプアが、最悪の政治的抑圧と貧困の状況のなかで、『ベルリンの幼年時代』や『パッサージュ論』や「複製技術時代の芸術作品」などといった最高の論考を、発表のあてもないまま書き継いでいったことがしみじみと伝わってくる。それらの孤独に書かれた論考が、失われることなく細い糸で伝わって、いま私たちが日本語で読めているということが奇跡であることを、改めて噛みしめる。というわけで、ほんの調べ物のために読み始めただけだったのに、気がついたら面白くてやめられなくなっていた。

 だが私が面白いというのは、そのような手紙の内容が切実だというためだけではない。本書はむしろ書簡集の「形式」として実にユニークで面白いのだ。編者ショーレムが採用した形式は、差出人がどちらかとは関係なく、手紙を書かれた日付の順序に並べるというものだ。だからここでが、往復書簡として両者の手紙が交互に並べられているわけではない。ショーレム、ベンヤミン、ベンヤミン、ショーレムといった順で不規則に並べられている。というより、そうするしかなかったのだ。国際郵便の事情が悪化したためか、ショーレムが居住するエルサレムとベンヤミンの亡命先のパリやイビサの間では、手紙が届くのに2,3週間かかってしまう。つまり自分の書いた手紙の返信を待つと往復で一ヶ月以上かかってしまう。しかし彼らはもっと早く相手の状況や返事が知りたい。だから自分の手紙が相手に届いたことを確認する前に、不安になって次の手紙を出してしまう。論文を送ってくれと頼んだり、エルサレムに長期滞在しないかと提案したり、自分の論文の感想を知らせて欲しいと頼んだりといった重要な手紙に対する相手の返信がなかなか来ないまま、その次の手紙を続けて出すときの文面の不安感や焦燥感が実にいいのだ。

 ときにベンヤミンなど、自分が2通(1933年5月7日付、23日付)も手紙を出したのに返事が返って来ないので、君には手紙を出す気なんかないんだと、ショーレムに向かってすねて怒り出してしまう始末(31日付)。しかし私たち読者は、すでにショーレムがその1週間も前に返事を出していることを先に読んで知っている(23日付)。しかもその後、ベンヤミンにその23日付のショーレムの手紙が届いて、ベンヤミンが気まずい気持ちでもじもじと返事を書いた日(6月15日付)の前日(14日付)には、すでにショーレムは、ベンヤミンの怒りの手紙に対して「そんなにせっかちになるなよ」という励ましの手紙を出し終えている。なんとも滑稽なやり取りである。私たち読者は、そうしたメディアを介した二人の行き違いに、衛星TV生中継のタイムラグによって生まれるキャスターとレポーターのギクシャクした会話を聞くときのような滑稽さを感じて笑わずにはいられない。

  だが他方で、私たち読者は、ベンヤミンがやがてその7年後(1940年9月)にスペインの亡命途中に自殺したという悲劇的結末をも知っている。だからどうしても本書を読みながら、その事実を想起せざるをえない。ショーレムのエルサレム招聘を、シオニズム嫌いという理由で繰り返し断る頑ななベンヤミン。ちょっとした返事の遅れに過敏に反応するナイーブなベンヤミン。それらの細部が、ベンヤミンの憂鬱と引きこもりと自殺への必然的な道程であったかのようにどうしても感じてしまう。何しろベンヤミン自身が「写真小史」のなかで、写真家カール・ダウテンダイが婚約時代の妻と一緒に撮った写真をめぐって、その妻が後に自殺したことを知っている人間がこれを見たときに、そこに不幸の影を焦げ穴として探してしまうだろうと書いているのだ。「この写真の目立たない箇所には、やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまった撮影のときの1分間のありようとして、今日でもなお、まことに雄弁に語っている。だから私たちは、その来ることになるものを、回顧を通じて発見できるのである」(久保哲司訳『ベンヤミン・コレクションⅠ』、ちくま学芸文庫、558頁)、と。

 確かにそうかもそれない。しかしむしろ私は、まったく反対の「希望」のようなものを、この往復書簡の切迫したやり取りを通して感じた。確かにベンヤミンは絶望的な苦境に追い込まれている。しかし彼はなお自分の仕事の重要さを信じ、出版の当てなどなくても論考をひたすら書き続けている。どんなに追い詰められてもなお、決して希望を捨てないで、冷静さと知性の確かさと、どこか滑稽な執着気質を持って、生き延びる道をあくまで探ろうとする(リーザ・フィトコ著、野村美紀子訳『ベンヤミンの黒い鞄』晶文社を読めば、私たちは、フランスからスペインへと山道を超えて亡命しようとして、受け入れを拒否されて自殺を敢行するその直前までベンヤミンが冷静だったことを知ることができる)。それを文面から感じ取るとき、私は決してありえなかった別の歴史をどこかで想像してしまう。ベンヤミンがその冷静さを持ってうまく苦境を生き延びることができたかもしれないという、費え去った可能性を。ダウテンダイの写真の場合も同じだ。この写真が興味深いのは、やがて来ることになる二人の不幸の焦げ穴がそこに感じられるからだけでなく、そのような不幸を弾き返せたかもしれない別の可能性に向かって、婚約中の二人が前を見据えて毅然と立っているからだろう。そこには希望もまたあったのだ。だから本書もまた、まるで30年代半ばにベンヤミンとショーレムが撮った肖像写真であるかのように、そのときには別の可能性に向かって開かれていた、二人の生き生きした表情を感じさせてくれる。そうやって終わってしまった過去のなかに別の未来を開く想像力だけが、00年代日本という、いまここで私たちが陥っている社会と思想の閉塞感を打破してくれる感受性なのだと、私は信じている。

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