2012年09月17日

『評伝ナンシー関 「心に一人のナンシーを」』横田増生(朝日新聞出版)

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「サブカルという枠組みから抜け出すために」


 本書を最初に書店で見つけたとき、軽い警戒感を抱いた。あのナンシー関の「評伝」だって?それはちょっとおかしくないか? ナンシー関と言ったら、テレビの表層を読み取ることに長けた批評家として尊敬されてきたはずだ。どんなにうまい役者や歌手だったとしても、どんなに立派な人格の人間だったとしても、テレビはその深みを持った技能や人格を裁断して、薄っぺらな四角形のなかに閉じ込めてしまう。だからナンシー関は、そうしたテレビの向こう側に深みを持った人間の暮らしや人格を読み取るのではなく、テレビの表層自体において彼らがどう生きようとしているかを感じ取ろうとした(そして彼らの顔を消しゴムの表面に彫った)。だから、ナンシー関論を書こうとする者もまた、彼女の仕事の表層にとどまって批評するべきではないのか。私はそう信じてきた。

 本書の著者・横田増生も、そうしたナンシー関の思想を彼女自身の自己解説の評言「顔面至上主義」を引いて、的確に紹介している。「テレビに映った時につまらなければ、それは『つまらない』である。何故、見せている以外のところまで推し測って同情してやらなければいけないのだ。そこで私は顔面至上主義を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが『顔面至上主義』なのだ」(本書、242頁。『何を今さら』からの引用)。だから繰り返すが、ナンシー関について書く者も、彼女の文章とハンコを「目を皿のようにして」見て、それ以外の素顔を「推し測って」はいけないのではないか。私はそう思ってきた。

 ところが本書は、彼女と親交のあったリリー・フランキー、いとうせいこう、えのきどいちろう、大月隆寛、町山広美、川勝正幸といった物書き連中や、各雑誌・書籍の担当編集者といった仕事関連の知人たちだけでなく、妹や母親など家族や古くからの友人、それに小・中・高校時代のクラスメートにまでインタビューして、まさに「評伝」の名にふさわしく、ナンシー関の知られざる「素顔」に迫っていこうとする。小学校時代はどんな生徒だったか、海外旅行ではどんな風に振る舞ったか、カラオケ好きはいつ始まったか、なぜ3年もかけて運転免許を取ったのか、デブであることを本人はどう思っていたか。そういった彼女の批評とは一見無関係な領域に踏み込んで、彼女の人間像を「推し測って」いく。

 だから本書は当然私にとってつまらないものになったかと言えば、予想に反して実に面白かったのである。そうした綿密な取材を通して明らかにされたナンシー関の等身大の「素顔」は、むしろ彼女の文章と消しゴム版画だけにこだわった私などが作り上げてきた「天才」神話を相対化して、新しいナンシー関像を作り出し、それをある歴史的環境のなかに置くことに成功したように思う。例えば、所ジョージ、ビートたけしのオールナイトニッポンや『ビックリハウス』に投稿して採用されては喜んでいた青森の女子高校生が、東京に出て来て『ビックリハウス』の編集部に消しゴム版画をお菓子の缶に詰めてやってきたもののどう売り込んでよいかわからずにろくに口もきけなかったという挿話は、単にナンシー関が成功にいたるまでの個人的苦労話というよりも、サブカルチャーが若者の等身大の生活の延長として輝いていた、70年代半ばから80年代前半までのメディア文化的風景(投稿文化)を見事に描き出しているように思えた。

 小学校時代、友だちの教科書にパラパラ漫画を描いてやって楽しませるナンシー。中学時代、郷ひろみファンの友人に、紙粘土で「お化けのロック」のキャラクターをつけた黒いフェルトの巾着を作ってプレゼントするナンシー。プロになってからも、飲み会の席でいつもインクセットとジャイアント馬場や皇室の消しゴム版画を持っていて、初対面の人でもあいさつ代わりに押してやるナンシー。こうした数々の挿話は、ナンシーの消しゴム版画が、暮らしの手垢にまみれた有名人のイメージを批評的に具象化することによって(先生の物真似をして級友を喜ばせるときと同じように)周囲を喜ばす友愛的な付き合いの感覚に満ちていることを改めて教えてくれる。

 だからそれは、公共の場で美の才能を競いあうような、近代的な意味での芸術作品とは決定的に違っている。消しゴムという身近な道具を使って、誰もがメディアで知っている人物の顔をデフォルメして彫ってハンコとして押し、厳しい目で観察した人物評を書いて周囲の人を喜ばすこと。むしろそれは人類学で言う「野生の思考」とでも呼ぶべき、具体的な知恵に満ちた、暮らしに根差し、暮らしを批評的に揺るがしながらも、そこから離れて自らを光輝かせるよりも、暮らしのなかに再び飲みこまれていくことを望んでいるフォークアートのようだ。だからそれは、ウォ―ホールがマリリン・モンローのイメージを使ってポップアート作品を作るのとは違っている。

 このようなナンシー関のフォークアート性が本書で見事なまでに明らかになったのは、著者がナンシー関を尊敬していながらも、まるごと彼女そっくりにサブカルチャーに浸ってこなかった(あるいはそう偽ってないから)だろう。著者が本書の中盤で、自己告白的に書いていることが実に興味深い。「これまでサブカルチャーと縁遠かった私は、この本を書く準備をするうちに、はじめてムーンライダーズを知り、ナンシーが愛したという『ジャブ・アップ・ファミリー』やアルバム『火の玉ボーイ』などを繰り返し聞いた。正直言って(中略)どこがいいのだろうか、と戸惑う気持ちは今でも変わりない。ナンシーが愛読した『ビックリハウス』や『スタジオボイス』を読んでも、その魅力が十分に分かったとは言い難かった。」(167頁)

 つまり横田増生は、ナンシー関を深く尊敬しながらも、彼女がそれに憧れ、そこに所属していた80年代的なサブカル文化圏からは批評的な距離を置いて、正統的なインタビュー調査・資料調査でナンシー関の人生と仕事を調べ直した。それが、「オレはナンシー関のことをわかってるぜ」といったような気分を無理に突っ張り通すようなサブカル批評とは異なった、反メディア的で友愛的なナンシー関像を生み出した。それは私たちが、70年代以降日本社会に若者文化・メディア文化として繁茂し、現在明らかに凋落の過程にありながらも相変わらずそこから抜け出せないでいる「サブカルチャー」という文化的枠組みから抜け出すための大いなるヒントとなっているような気がした。いかにして私たちは「サブカル」の遺産を受け継ぎつつも、それを風通しの良い広場に持ち出したらよいのか。それを真剣に考えてみたいと思わせてくれた。だから、実に良い本だった。


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