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2008年09月24日

『阪急電車』有川 浩(幻冬舎)

阪急電車 →bookwebで購入

「やられた〜
 週末の午後を一気に読ませる
 池上線でも大井町線でもなく」


ロンドンでは季節によらず、行くたび毎にロールスロイスをよく見かける。人がよく見かけると感じるのは、車の総数の何%以上がロールスロイスだからだという報告が昔あったが、それが思った以上に多いか少ないかという話で、その具体的な数字は忘れてしまった。

東京では季節にもよるが、月に1回か3ヶ月に2回位の割合で、駅の構内で黙って向かい合う若いカップルをよく見かける。どっちかが相方とはまた違うぶっきらぼうな顔をしていることが多く、明らかに立場的にバランスを崩している。それも改札口付近であることが多いが2人は多くの人が行きかうことも気にせず、時に人ごみのド真ん中で、特に渋谷の夜はその2人をよけて流れを作る。すると突然、喧騒の音が聞こえなくなり、カメラを引いて、小田和正さん系とも違い、月9系とかとも違う23時系の曲が流れる。そしてタイトルクレジット。

仕事柄、始発やその時間帯の電車によく乗るが、駅前や車内は、徹夜で遊んだか、それなりの仕事の人達の帰宅と通勤の風景が入れ子になる。勿論、座れることは座れるのだが、これは季節によらず「向かいにはどこへ行く途中なのか帰る途中なのか、しっかり手を繋ぎ合った若いカップルが爆睡中」をよく見かける。これだけでカメラアングルを考えれば何か撮れるなと思っていたら、この有川さんの「あとがき」にモロ書いてあった。

やられた〜
これが正直な感想、全く勝負になっていませんが
「誰がじゃ、何がじゃ」と寛平ちゃんがつっこむ

それから文体
ライトノベルに徹した書き方が一気に読ませる
実はこれもジャケ買いだったのですが、それも有川さんの文章を読んだのは初めてだったのですが(すみません)最後に「あとがき」を読んで、本文の端々(はしはし)に見え隠れする「あとがき文体」の寸止めが、落ちを期待させるくすぐり薬(いわゆるハナ薬)になっていて、もう週末の午後はこれで行こうと思わせて、ねそべって一気に読ませる

前にどこかに書きましたが、私は横光利一の「蠅」が好きで、例によって、受験勉強の国語の問題集で感動した系ですが、それぞれの乗客を適宜詳細に描いて最後にドン、という話ですが、阪急電車の「往路」からすると一瞬その手の最後もありかなと思ったのですが、このご時世、電車が「蠅」の結末になったら洒落にならない。その辺は「復路」で、私、見た目より真面目系なんだからと、私待つわのアミン系の読者(でもないが)の共感と安心感を呼ぶ。
「蠅」と違うのは、最初から非常に3次元的で、立体的なカメラアングルを彷彿させる。「蠅」はというと、最後だけ、それも突然椅子が引かれた感じのインパクトはあるが、このご時世、何するのとにらまれそう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2302_13371.html

あるあると言われることを書くからには、何かしらの技量のある装飾が必要で、その辺りをさらりと関西的に、そういう意味では関東でも少しはインタラクティブ系かもしれない池上線でも大井町線でもなく、やはり阪急電車だったのかと脱帽です。

わたしまけましたわ



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2008年06月16日

『夢十夜 他二篇』夏目漱石(ワイド版岩波文庫)

夢十夜 →bookwebで購入

「Led Boots(上原ひろみ)で目が覚めて
 夢の輪郭がはっきりしたところで
 寝入った時は「金子な理由」なのに」

最近、生々しい夢を見ます。
生々しいと言っても、そういう生々しさではなく、登場人物が自分の日常の身の回りの人物で、日常生活と何ら変わりない設定で登場します。日常と言っても過去10年から30年位を含みますが、日頃近くにいる人もいない人も適当に混じり合って登場して話は展開します。それも過去にあった話ではなく、オリジナルの書き下ろし小説になっていて、息がかかる程そばにいて、もしそれが現実に起きたら恐いこともありますし、嬉しいこともありますし。

いつも書いていますように、90分ずつの単発の繰り返しでしか寝られない状況は、時差ボケで仕事をするにはもって来いで、それでもこの4〜5年は、夢をあまり見た覚えがありません、か、見ても起きた時は覚えていないのだと思います。ところが、ここ数週間、自分の何が変わったのか、さらに眠りが浅くなったのか、あまりにも生々しい現実的な夢を見るので、これは夢の中の問題か、さもなくば夢の中でやらなければならなかったことなのか、現実にto do listにあったものなのか区別がつかなくなってきています。

それにつけても一先ず一番の問題は、毎回起きる時に、ここで目を覚ますということは、何かをやらなければならなかったから目を覚まさなければならなかったはずだ、と一番最初に考えることです。
ここは今どこで、自分は今まで何をしていたのか、そして今何をしなければいけなかったのかを考える瞬間に、後数分で何を始めなければいけないのかを考える数10秒が、もしかすると一番、金子な理由がインディーズだったりします。そんな2時半か3時を繰り返す毎日で、このまま再び寝てしまうと後6時間か12時間後のプレゼンに間に合わなくなる。移動時間の電車の中も残り時間に数えてしまう。

***
あなたはPhysical Graffitiみたいですね
あの人はAbout a Sonを観ながら私に言った
Physical Graffitiとは良くも悪くも寄せ集めで
何れにしても、夏目漱石はもう古くて
読んでいてつらい想いが快感だったりします
と言うのはうそで
はっきり言って、もうつまらない
でも頭の良いロンドナーの漱石のことだから
何かあったはずだと一語一句を読み返す
しかし私以上に何が言いたいのか分からない
漱石こそPhysical Graffitiで
永日小品や思い出す事などで
道草はやや赤裸々か

***
オリンピアに行った
アバディーンでもない
シアトルでもない
オリンピアに

私の生活はオルタネティブというより
むしろパンクか、でもないか

あれは骨折ではなく、脱臼だった
痛みは想像じゃなく、ずっと痛かった

いつか精神分裂病になると思っていたし
小さな癖でバランスをとっていた

まわりの連中に嫌気がさしていたのも本当だし
あまりの低俗さに同じような**な連中に
飽き飽きしていたし

過敏になってパラノイアに陥り始めた
(Kurt Cobain「About a Son」から)

***
どうしても夏目漱石の夢十夜を読み直したくて、成田で文鳥と込みの文庫本を買って出たのですが、今の今まで読むことが出来ませんでした。正確には機内で一回開いたのですが、スポットライトでも暗いのと、揺れる機内では字が小さくて、思った以上に私の目が老眼になっていて、その時はあきらめました。シカゴでも時間はありましたが、ターミナルが2転3転してそれどころではありませんでしたし、ホテルについてからは全く時間がない状況が続きました。

それでも夢十夜を読まなければ、と、半ば使命感がありました。

***
成田を出てからアルコールを一切飲んでいない。

「ねえ、Cobain」
あなたは、私の代わりに聞いてくれた。

要はアルコールを買ったり頼んだりしている時間がないのと、アルコールを飲んだら寝てしまうのと、そうは布団屋は卸さないのと、そんなわざとの言い回しでも良いのと、部屋から頼んでも良いけど、あなたはそれでも分かってくれるけど、でもルームサービスが来るので、この昨日のシーツのままのベットの上に書類が散乱した部屋は見せられないので、ドアの外に置いといてもらってもいいのと。

アトランタは時差13時間という絶妙なバランスで、容赦ない文明の利器に時差ボケをキープしたまま1週間が過ぎる。今回の会議はホテル缶詰で、ある意味24時間体制で書類書きに専念出来て、10分あると部屋で仮眠、頭が回らなくなると30分仮眠、と、こうやって作家は窮地に追い込んでいるのかと思いました。

ホテルから竜巻の被害にあったCNNセンターとその向こうのコカコーラミュージアムが見える。そうかコカコーラ発祥の地だったんだ。
いや、待てよ、コカコーラが産まれたとは、もしかして・・・
・・・で、アトランタはかつて禁酒法適用でした。

アルコールを飲まない1週間は「自分をほめてあげたい」と言いたいところだが、アトランタの為にあったんだと、有森さんが銀メダルを取ってから、モチベーションがなくなり、精神的に大変な思いをしてからのこの地で銅メダルを取ったことに自分としては価値があるというもので、何か分かる気がして、私も燃え尽きようとは思いませんけど、少しは有森さんの気持ちに近づきたいと。

・・・と、昼間はこっちの仕事、夜は日本の仕事と、こうやっている内に、北京の次なんてあっという間なんでしょうね。

***
「ねえ、Cobainは?」
そうそう、あなたは、私の代わりに聞いてくれていたんですよね。


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2006年05月31日

『トーキョー・バビロン』馳 星周(双葉社)

トーキョー・バビロン
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BGM(Ministry/The Land of Rape and Honey(1988))

「時は流れる
 絶望的なほどの速さで
 目の前を流れ去っていく」

ロウの入り方が違って、その引っ張り具合が違って、ロウから2速、2速から3速へのタイミングも、どうもタコメータの触れ方が、そのカクッというタイミングが違って、吹き上がるトルクも違うので、ディーラーのテクニカルスタッフに聞くと「えっ?今度のエンジンの設定は低速を引く感じが違う設定になってるんですよ」と言われて、時代がそうしているのか、そうしたかった人がいたのか、新しいエンジンコンセプトを知りたくなる。でも峠越えにはいいかもしれない。

週末はあっという間に過ぎた
悩みに悩んだ末に選んだのはBMWのZ3
とりあえず紀香の眼鏡にはかなったようで
嬉々として助手席に座っていた
(27章)

初夏の通り雨
初夏の蓼科に向うあの峠で、3速から2速へ吹き上がるタイミングに合わせて、一瞬やんだかのような通り雨、フロントの視界にグレーの雲の切れ間から、その奥にマリンブルーの青空が広がる。思い出したかのような間欠ワイパーを止めると、雨を降らす雲は右から左へ墨流しのように速く流れて、我々か、または雲かのどちらかがスローモーションになる感じになる。その時をねらって、神様が用意してくれた至福のタイミングで曲が変わる。そんな時は、 外の音が遮断されてクーラーの効いた車内で、少し昔の、いや、だいぶ昔のあの頃の感覚を想い出す。横を見ると紀香は静かな寝息とともに目を閉じていた。

sometimes I think I'm happy here
sometimes I still pretend
I can't remember how this all got started
but I can tell you - exactly - how it will end

I am still inside here
a little bit comes bleeding through
I wish this could have been any other way
I just don't know what else I can do

everyday is exactly the same
there is no love here and there is no pain
(from 'with teeth' (2005))

毎日が全く同じで、その人は頭の良い女性で、それで良かった。

それにしても、このエンジンのレスポンスはいいかもしれない。
「でも、よく分かりましたねえ」と半ば御世辞気味に言われても、でも、何か その業界を垣間見た感じになってその気になって
「いや、この設定、タイヤのつかみがいいですよ」
・・・とか、後で後悔する。

昔で言うと森村誠一か、最近だと桐野夏生だとか、読むまではどうしてもという感じでもないのに、読み始めるとグッとその世界に引き込まれて行く。
とにかく読ませてくれ、静かな寝息に目を閉じている間だけでもいいから。
その業界を垣間見た時の後ろめたさ、のような、または、さらには、その業界にいるかのような錯覚に溺れる。

要は、表も裏も、「うだつ感」に帰着して、30そこそこでピークと転落を経験した主人公3人の起死回生を賭けるドラマ。 前にも言ったように「うだつ感」というのは大切で、自分にそういう感覚を引き込む人でいたいもので、そういう人と付き合いたいもので、でもそこは本当は分かりやすく、でも「うだつ感」がない人は自分では気がつきにくい。自分の「うだつ感」をも引きずり下ろす人とは付き合うな、この手のドラマはいつもそう読める。

いつもの道のりは、まだかまだかと感じるのに、そんな長い道のりがあっと言う間に過ぎてしまう。
バカラに狂うサラリーマンと復活をねらうホステスが、パークハイアットで会おうが、会うまいが、そんな一つ一つのことよりも、とにかく文章を私の前で流してくれ。まったくもって、健さんの映画を観た後に映画館を出たかのように、街中を歩く気分も違う。

馳星周氏の作品は、ここで引き合いに出すのも何ですけど、何故かかつて発禁になった衛慧の「上海宝貝(2001)」とかを思い出して、というのも、それとはまた違った東洋感、というか、「上海宝貝」が東洋人が西洋から見たとしての東洋感であるのに対して(ある意味「透明に限りなく近いブルー(1976)」もこの手かとwebでも言われていたように覚えていますが)この作品は東洋人、否、日本人の歌舞伎町感をベースに、東洋人の中で閉じている存在感というか、閉鎖感というか、どこかそこに流れる裏の世界見たさ、それよりも紀香のような人にくすぐられて、そういう意味では村上龍氏からさらに内側に入ってきた感じがします。私にとっては何か林芙美子さんの「風琴と魚の町(1931)」の東京版のような、変なたとえですが。

時折見せる失踪感、映画の絵コンテを見るようなコマ撮り感、そんな感じからすると、この人物をこの俳優にして、という映画を考えたくなる作品になっていて、とにかく読まさせてくれ、私の文法がおぼつかなくてもいいから。

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2006年02月21日

『五十からでも遅くない』瀬戸内寂聴(海竜社)



五十からでも遅くない
→bookwebで購入 BGM(Genesis/Seconds Out (1977))

「Max RegerはSerpentineにThe Ringを架けた
 すると半音階の回廊がHyde Parkの空を登り
 AgogikとDynamikの神が舞い降りた」

【1973 九段下】高校の頃、よく受験勉強の合間をぬって四谷のイグナチオ教会へ行った。宗教とは何も関係なく木曜の夕方だったか、ただパイプオルガン の練習を聴きに飯田橋から歩いて行った。誰もいない旧聖堂の後ろの方に座り、ステンドグラスが暗く浮かび上がる頃、目を閉じて背後から聴こえる音と凛としたスペースを感じていた。あの頃は迷惑をかけたが、私も必死だった。
あの頃は自分の周りが淀んでいることが気になって仕方がなく、よく休日に誰もいない教室に行っては、あの音が聴こえるまで目を閉じていた。担任の先生は「お前は平気だから」と言ってくれて、そして平気だった。あの頃から私は先生や上司に大変恵まれている。それぞれ個性豊かな先生達だったが、その全員から本当に沢山のことを教わったし今もって教わり続けている。勉強というより、むしろ生き方というか、本当に感謝している。
【1976 大岡山】大学で体育会に入ると授業で教わった内容を覚えていることは多くない。ただ、非常に印象に残っている授業は「君達ね、勉強よりも早く 異性とつきあって少しでも早い内に失恋しなさい。そうするとね、自分の考え方の座標軸が全てに当てはまる訳ではないことが分かるから、その方が大切」 と言い得て妙だった。その先生は迷う私に留学を決定づけてくれた。「少しで も早い内がいい」と。
【1981 マンチェスター】イエローに対する人種差別もさることながら自分に納得の行かない毎日に連日研究室の立ち上げもあり日本人に会うこともなく週末のライブ以外は本当によく実験した。借りていた北西の部屋には西向きの窓が一つだけあって、あとはデスクライトだけで電話もファックスもメイルも何もなかった。出すことのない手紙をひたすら書き続け、あの窓から聴いていた Firth of Fifth (Genesis(1973))、そして真夜中のCommunication Breakdown (Led Zeppelin(1969))。週末の夕方に薄暗い部屋の電気もつけずベッドに正座して、ひたいを壁につけ、うつむき加減にあの音が聴こえるまで目を閉じていた。そして出してしまった手紙をいつまでも悔いていた。
http://www.youtube.com/watch?v=5CZbPNW3Gbw&search=zeppelin%20communication
【1981.12.31.ロンドン】休みになると大家さん一家が出かけてしまうので私は家にはいられず、ロンドンに出ては大体いつもビクトリア駅の裏の安いB&B(Bed & Breakfast)に泊まっていた。SohoでTommy Steelだったか何だかのミュージカルか忘れたが、あの頃はよく当日売りで舞台ばかり観ていたのでそんなこんなで夜はふけ、大晦日だということで年越しソバでもと思い、一人Baker Streetのジャパニーズレストランに向かったがその手のメニューは全部売り切れ。正直、何か自分が情けなくて、結局その店の最後の客になるまで、 一人で何パイント飲んだか。よくお店の人も最後の最後までつき合ってくれたが、私はその頃も必死だった。そして「俺は何でここにいるんだ?」と悔しく て、それから仕方がない、なけなしのお金で一人で日本酒を浴びるほど飲んだ。
海外の大晦日は花火を上げたりクラクションを鳴らしたりというイメージがあるが、その日は夜の12時をまわって店を出ると街中はシーンと静まり返っていた。地下鉄もなく、タクシーに乗るお金もなく、それにしてもOxfordとBond Streetは本当に人も車も何もなくPiccadillyのネオンも消えて、何か巨大な映画のセットの暗がりの中に私一人だけが立っている感じだった。見渡す限りの地球上には本当に私一人だけだった。そして私はビクトリア駅に向かって Piccadillyのセンターラインを千鳥足で歩き始めた。真っ暗な空を見上げて 「地球の上だったら自分はどこでも同じだ」と思った。この時、私の中で何かが変った。大学を出て、そのまま大学院の2年間を終えていたら2度と経験出来なかったかもしれない、どころではなく、これを経験しなければ何もなかっ ただろう。そして底冷えする道のど真ん中で、ポケットに手をつっこんだまま 「上を向いて歩こう」を頭の中で歌った。悔しいというのか何だかよく分からなかった。
着の身着のままベットに倒れ込んだことまでは覚えている。そして何時になったのか、私は急に目が覚めて、洗面所で胃の中の全てのものを吐き出した。何か体中の悔しさを全部、胃がけいれんしそうになるまで徹底的に吐いた。そしてまたベットに倒れ込んだ。新年の夜明け前だった。
【1982.1.1.ハイドパーク】次の日の朝は勿論元旦だが、天井の模様を見ながら「ここはどこだったんだっけなあ」とゆっくり目が覚めた。裏の一部がひ び割れた古い鏡をのぞくと顔は少し青白いが、それでも快晴の朝日に少し頭が痛い程度で二日酔いもなく、以外にサッパリとしていた。まだ10時を少し回っ たところで「今朝は朝食いいですから」と半地下の食堂に寄って間もなく何も考えることなく散歩に出た。さすがに足元からの冷たい道に、いつのまにか馴 染みの道を抜けてHyde Parkの方向に向かっている自分に気がついた。
正月でも開いているアラブ系のよろずやで水を買い、今日は1日Hyde Parkで ボーッとすることにした。日だまりはそれなりに暖かいし、公園をゆっくり歩 く老夫婦を見ているだけで十分だったし。そしてその日、私はSerpentineの橋からそれまでの全てを捨てた。いやSerpentineにその時の全てを沈めた。そし て芝生に仰向けに寝てHyde Parkの空を見る。するとあの音が少し聴こえたような気がした。
そうだ一先ず50までやってみよう。そして50になったらここに戻って来よう。 そしてSerpentineに沈めた時を迎えに来よう。そう思いつつ、その聴こえた音が半音フラットする間に、私はまた寝入ってしまった。気がつくと夕方の空、それでも何か世の中が少し観えた特別なスペースだった。あれから25年が経つ。
【1985 和光】帰国後、博士課程を中退して研究所生活が始まった。その頃の上司の先生方には本当に色んな所、つまりは飲む所につれていってもらった。 料亭もあれば一見さんお断りもあれば雑居ビルの1室でドアに表示のない怪しいお店もあった。ただ大切なことは品を保っていたということで、女性のいるお店でも大抵はキリッと高級そうな着物を着たオーナーが挨拶に出て来た。用心棒のようなバーテンダーもいたが、皆、品が良かった。分からないがかなり 高かったと思う。そしてカラオケだけじゃなくて沢山のことを教わった。
原君ね、これから10年20年、自分がこの業界でどうやってステップアップして行くか、そして自分が世界の中でどういう位置づけにいられるか、そのために は今何をすべきかのビジョンを持っていかなければいけない。だから例えば 40、50になった時だね。そこまでに自分の生活、ステータスがどうなっている かのステップアップは毎日の地道な努力の積み重ね。だからチャンスと賭けは違う。積み重ねが効くのはチャンス、何もないのが賭け。神様は見てるから、 人生バランスが取れてるから、チャンスには微笑み、賭けは突き放す。だから 「切に生きること」だよ。
原君ね、女性との付き合いには色んな人がいる。ここのお店のような人もいれ ば、仕事の付き合いの人もいれば、飲み友達でもいい。でも大切なことは、一 生のパートナーは違うということ。色んな場面で色んないい人はいるにしても、一緒に暮らす一生のパートナーが一番いい人になればいい。そうすると他のいい人はまた距離をおいていい人になるから。で、その一生のパートナーは大人の挨拶が出来る人。年齢という意味ではなくて、年を取れば大人になるだろうからというのはなくて、結局は大人じゃない人はそのレベルの平行移動だから。例えば一人放っておいても大人の挨拶と大人の会話が出来るかどうか、 例えば法事とか相方の仕事場とか初対面の場面で分かる、と言い得て妙だっ た。大体私は昔から年齢に関係なく大人じゃない人は面倒くさくて苦手だったが、確かにこの年になると分かる事が沢山ある。
【2003 すずかけ台】ある人から瀬戸内寂聴さんが人生50代からという話をしていたと聞いて、年をとるって優しくなれていいよね、という話で、私も年を とることにエンジョイしているし、と、後悔しない人生、毎日を大切に、いつまでも純粋な気持ちを忘れずに、確実に年はとってるけど、人の優しさを感じたとき、とても幸せになる、こういう経験が沢山ある人が本当の幸せな人なのかもしれない。健康でありますように、良いことが少し多い年でありますよう に、と。
そこでこの本は、そのままの本で、50前後の女性向けという表向きはいいとして、実はそれよりもっと前の若い人向けかと思う節がある。10年20年30年経っ たらこう思う、と、だから分かるんだったら「少しでも早い内がいい」と。

祈りとは答を求めるものではなく、正常な自分に戻ること
耐え難い苦しみや悩みにも、歩き続けなければならない
他人には観えている相が、当人には観えず、地獄はその時から始まる
人間として勤め得る道、奇蹟は何もおこらない
自分を粗末に扱うと、だらしなさがにじみ出る
年齢をますごとに魅力が浮かぶいい顔にならなければいけない
いつまでも学び続ける豊かな教養が大切

男にはやや食傷気味の前半の女性への恋愛指南から、後半は徐々に人生の核心に迫る

慈悲とは、お返しを求めない無償の愛、愛は賢くなければ得られない
もうこりた、忘己利他、己を忘れ他を利するは慈悲の極み
自分がちゃんとするのが先なので今は人につくせない、と生ぬるいことは言わない
自分だけの幸福は本当の幸福ではない
全ての人が幸せにならない限り、自分に本当の幸福は来ない
他人の幸福のために生き、自分を磨く努力を惜しまない
他人の幸福を先に祈り、煩悩を静めた心を持つ、涅槃、ねはん=ニルバナ

この世は決して楽しい時間だけで終わるものではない
自然の美しさ、月の気配、生かされたという思い
老いとは、物事に感動しなくなり、愕(おどろ)きをなくすこと
感動の数が多いほど、幸福な人生、お金ではない

かなり普通とは違う経験談なので、自分なりの咀嚼(そしゃく)が必要かもし れない。それでも「気をはって生きる、切に生きる、美しさ」は伝わる。私に とって、人生の師はあらゆる所にあって、今もって教わり続けているし、本当 に感謝している。
・・・
ワイングラスを洗っていて、ピシッと割れて指から血が出た
何か来ているのかもしれない
微妙な間、アゴーギク
音の抑揚、ディナーミク
いつもあの音が聴こえるまで目を閉じる
wish there was something real, something true
in this world full of love

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2005年11月15日

『アンボス・ムンドス』桐野夏生 (文藝春秋)

アンボス・ムンドス →bookwebで購入 BGM(Nickelback)

「女性の「凄み」
 見てはいけないもの
 見せてはいけないもの」

「俺が待ってくれと言ったら、あなたは「私にはいつも今しかない」と言って拒んだ」
ドキッとする。
閉店間際のHMV、金曜の夜は心なしか人が少ない。新譜を試聴して歩き、今日 はM.I.A.とNICKELBACKを購入した。

・・・
秋になると、早速、来年の手帳とカレンダーが売り出されて、そうこうしてい る内に年賀状が売り出されて、既に鬼は大笑いしている。
我々の業界では今、2007年度の予算要求の議論の真っ最中で…来年ではなく て、再来年の。なので2年後2007年以降の運命は来年2006年暮の国会まで、時 にはその年明けの復活折衝まで、ず〜と長い道のりを不条理にもめげずブラッ シュアップして行く訳です。突然横やりが入って、それまでの努力が全部水の 泡とか、横やりじゃなくても、人事異動があれば、またイチからのやり直しだ ったりしても、そんなのは当たり前だったりする訳です。
何もガツガツして仕事したい訳ではありませんし、研究や教育が本業ですし、 時に海外の友人の予算要求を手伝ったりもしますが、このような感覚、このよ うな業界の鬼笑いルーチンに入れるかが、野球で言えばメジャーとマイナーの 意識の違いみたいな感じなのかもしれません。

このように我々の業界では2〜3年かけて、その先の5年間程度の研究費を申 請して、通れば5年間は暮らせる。通らなければ普通ないしはそれ以下という 現実、そんな綱渡りの生活をしています。
- That's very theatrical, Joe...
- Yeah, I know...

通っても通らなくてもまた先の、さらにそのまた先の5年間を考える。博士号 を取ってプロデビューを30歳とすると、そんなプロジェクトを5〜6回繰り返 すと定年になる、という感覚。イチローだって、1本のヒットに最低2〜3年 はかけてきていると思うし、特に我々の業界では、鬼が笑うどころか、狐につ ままれた捕らぬ狸のような生活な訳です。

2007年から先4〜5年間の将来計画を考える(これを中期計画と呼びますが) ということは自分自身の2〜3年後からさらにプラス5年間分位の人生設計を 考えることになります。これは正直とてつもないストレスです。例えば、思わ ぬところで2〜3年後の自分に対してドラスティックな方向転換をせまられた り、交換条件のような話も出たりする訳で、上層部が変れば話も変わり、総合 科学技術会議の意向はどうなのか、経団連の方針はどうか、担当大臣が何を言 うか、それよりも何よりも誰と誰に何と何の話をしたら良いか、いつ霞ヶ関に 言ったらいいのか、この話はたまたま廊下ですれ違った時の立ち話にしよう、 等と電車の中で私がそんなことを考えているとは車内の誰も全く知らない訳で す。タモリさんの番組のアンケートでそんなことを考えていると私1人だけボ タンを押す感覚です。
でもここに来て、これから50を過ぎても「賭け」に走ってもいいかなと思う自 分がいて、人生投げやりに見えるかもしれませんが、ここまで来ると後10〜 20年で何が出来るかという時間との勝負を考えると「安定を望まない」今まで の全てを捨てても「賭け」に出る自分がいたりします。

入学した時、博士号を取得した時、仕事を始めた時、そして結婚した時とか、 スタートの時点は誰もが横一線、皆一緒に新郎新婦のご入場な訳で、ご祝辞は 皆同じで将来有望な訳です。ところが人生面白いことに、その一瞬先なんて誰 も分からない。どんな展開があるのか、上手く行くのか失敗するのか、会社や 企画がつぶれることもあるだろうし、突然の事故もあるだろうし、体型も変る だろうし、髪も薄くなるだろうし、どんな運命が待っているのか、それに対し て何を用意したら良いのか分からない。
何をもってハッピーとするか、何をもって成功とするかは、その人その人によ って違いますけど、仕事を始めて、結婚生活を始めて、どう成功するか、どう ハッピーになるかは、いつも今の時点では誰にも分からない訳です。ただ「引 きのコツ」っていうか「プロ意識」というか、そんな毎日のちょっとした違い が何年か経って大きな差になることは確かで、スタートの時点で同じでも「う だつ」の上げ下げにかかる運命の力学と、時間とともに絞り込まれて行く世の 中の力学と、を自分の方に引き寄せる、そこが努力と根性と気合い、そして周 りの人にも活力を与える優しさ、かもしれません。

そういう意味では、日常生活の方がもっとドラマチックな訳で、何があるか分 からないし、自分で変えられる部分とどうしようもならない部分とがあって、 でも後者の方が多かったりして。実際、成田空港から電話をして、頭のてっぺ んから血の気が足先の方にサ〜っと堕ちて行く感覚も味わいましたし、ある一 言で体が震えることも味わいました。要は何かというと、明日、または次の瞬 間、自分がどんな状況にあるかは、自分自身でどうにもならない運命でも、で も結局は自分次第ということな訳です。

もっと過激で刺激的な映画とかドラマとかはあるはずです。
ところが本となると、何か自分個人と作家の1対1、日常の風景の中で自分だ けが覗き見していて、自分の頭の中だけが妄想の世界に浸っていて、周囲の風 景と街行く人は日常そのまま、という、ある意味特殊な条件設定、ある意味快 感になっている訳です。
最近は映画とかドラマもDVDとかビデオとかで、ある意味1対1的なところが ありますが、本来の映画館しかり、で、映像を見せることで、既に日常と違う 環境設定が整っているので、ある意味、用意された妄想の世界に安心して没頭 できる訳です。
ところが本は、始めからの前提、与えられた風景がないので、自分の今までの 経験と照らし合わせて映像や妄想を自ら作ると言う、刺激的という意味では、 本の方が上を行くような気がします。

この本は、何て言うか、まずいものを見ちゃったかな、という後ろめたい感じ がして、電車の周囲の乗客や家の中で前を横切る家族達に、私の頭の中の妄想 を見抜かれていないだろうな、とか変な心配をしてしまったりしながら、嫌 (いや)〜な微妙な感じを引きずったまま「ごはん出来たけど」とか言われて 我に帰るのに数秒かかったりします。

作家はスゴイですよね。最後の最後に登場人物を**させてしまう。
考えてみたら、こんなエグイ妄想空間は他にありません。
いとも簡単に無表情に人を**する、作家のサディスティックな感覚、いや、 それ以上の文章力、それも幻覚幻聴をひき起こすような。
登場人物と一緒に取り返しのつかない事をしてしまったという過激な妄想空間 と心理的擬似体験は快感です。

ある時まで、桐野夏生さんを男性だと思っていました。よくぞここまで女性の 「凄み」を表現出来るな、と思っていて、ある時から、女性だと分かり、それ からは、よくぞここまで女性の「凄み」を見せられるな、と思っていて。

それまで長編というイメージがあって、江戸川乱歩賞、推理作家賞、直木賞、 泉鏡花賞、柴田錬三郎賞、婦人公論賞、そしてエドガー賞候補という、その遍 歴。
今回の短篇集への「凄みの凝縮」は、今回の作品群に至る桐野夏生さん御自身 に何があったのか、その遍歴を知りたくなる。
Fashion Digger、私は馬鹿な服が好き、という一面も、未だ作品に「全てを出 し切っていない」感じがあって増々期待させる。
http://www.kirino-natsuo.com/

見てはいけないもの
見せてはいけないもの
熱海のルイ子の家に直行する咲子
池辺からの手紙を暗記している浜崎

・・・
「あなたは変ったんじゃなくて、もともと自由な人だったのかもしれないわ ね。それなのに、私ったら違う人だとずっと思ってたみたい」
またドキッとする。
iPodのNINを聴きながら、一人だけ街行く人の流れと反対方向に向かって歩い ている感じがした。今夜は樽臭いアルコールを飲みながら一人無骨なロックを 聴きたい。


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2005年10月07日

『81−1』夏木マリ(講談社)

81−1 →bookwebで購入

「サルトルとボーボワール
突然炎のごとく
体内時間じかけのオレ・・
必ずアイルシートに座る」

六本木の芋洗い坂にストライプハウスという個性的なギャラリーがあって、一 昨年だったか、サルトルとボーボワールの写真展があった。
http://striped-house.com/2002.12.html

サン・ジェルマン通りのカフェ・ド・マゴを横切ると、誰もが、サルトルとボーボワールを想い浮かべる。今、二人はモンパルナスに寄り添って眠る。国会図書館の中庭には傾いたサルトルの像がある。1965年、リトアニアで過ごした二人の夏の一コマ、砂丘を歩く、それでも何かペーソスを感じるサルトル の一面を撮らえた新鋭写真家スツクスの作品をモチーフにしているのだろう。
その時代、というより、時代を超えた寵児(ちょうじ)、悪い意味ではない、
ある意味、理想の二人。

・・・
空が少しずつ明るくなってくる頃の首都高は、東京が日本の東京というよりは、どこかアジアの国の東京という感じで、中々雰囲気があるものです。丸の内の地下を抜けて、プランタンの横に出て西銀座デパートの上を走る。かつてはモノレールに添ってそのまま直進しましたが、最近は左手に入って右前方にフジテレビを見ながらレインボーブリッジを渡ってアクアラインに抜ける。
ああヤバい・・・レインボーブリッジの手前で曲がsomething I can never
haveになったりして
I'm down to just one thing
I'm starting to scare myself ...
地球上の全ての音が無くなって、ピアノとベースの深い響きだけになって、遠くからはかすかに小鳥のさえずり。ガスっている橋の向こう側から朝日が散乱する。

朝日が昇る頃、ガスッてる湾岸は何かブレードランナーの逆光シーンのような、でも、そんなシーンがあったかどうか他の映画とゴッチャになっているかもしれないけど、勝手に映画の1シーンとシンクロする。

私は渋滞は全然気にならなくて、だって運転だけしてればいいし、それも長々と曲も聴けるので、でももちろん好きというものでもなく、避けるという感覚はいつもあって、銀座とか玉川高島屋(夏目雅子の写真展良かったし)も早い時間に車で行くと、それなりに快適だったりする。
銀座へは同じプランタンの横を抜けて、新橋側から首都高を降りる。今は有料になっているけど、昔の土日はパーキングが無料だったので、裏通りにとめて、まだどこも開いていない、カラスと季節外れのTシャツの外国人の観光客の人しかいないような銀座の街を早朝からブラブラしていた。

早朝の繁華街は何となく前夜の喧噪を引きずっているようで、それも今から寝ようとしている感じで、中々雰囲気がある。裏通りのルパンとかよくお邪魔した準高級カラオケ屋さんとか、数時間前に終わった位で外にゴミが出てたりで何か生々しかったりで、健康的な早朝なのに逆に何かマズイものを見てしまったような感じで嬉しかったり。

画廊に絵を運ぶのを手伝っていた時も、朝早くから車を乗り付けて、画廊の開く時間を待って、GパンとTシャツで「はい、すみませ〜ん」とか言いながら、向こう側の見えない畳2帖位の絵を持ち上げ、銀座の休日を楽しむ人の間を抜けると、何となく歩道だけ業界になったみたいで少し優越感で。

夜中は夜中でゴソゴソと、今は原稿を書いたりで、時に丑三つ時に車で仕事場まで行き、一仕事してから目覚ましTVの前に帰宅するなんてこともしてたりしましたが、家で高速ネットがつながるようになってからは、さすがにその回数は減りました。その分、台所を拠点に、トロロをすったりしながら、ついでにグラスを洗ったりして。
ウチの子も誰に似たのか朝も早いのですが夜も遅かったりで、私が夜中にヘッドフォンをしてリズムを取りながら冷蔵庫をのぞいたりしていると、後ろでソーと戸が開いて、いつどこから仕入れた情報か分からないけど「シェリルクロウ結婚したんだって知ってた?」とか声をかけられたりして驚いたりする。

要は私は自分勝手ですが、要は時間勝手なところがあって、自分でもいつ寝ているんだか分からなかったりしていますが、そんな自分が結構好きだったりして、体調のバロメータにもなっています。
そしていつも際どい時に、目覚ましなしで意味のある数字の時間に目をさませる。そんな体内時計で生きている感じがずっとしていました。

夏木マリは(とか呼び捨てですみません)好きでも嫌いでもなく、まあその存在感が印象に残る感じでしたが(アニーのミス・ハニガンではイメージ貧弱なので今度「印象派」見に行きます)この本は、いわゆるジャケ買い、CDとかDVDとかも時々あるのですが、本屋の平台で手に取って、久々に直感に訴えられる感じで買ってしまいましたが、ジャケ買いでの当りはLDの(LDですよ、LD)コーエン兄弟の「ファーゴ」以来なので、かなり久しぶりですが、ある意味正解でした。

レジの前に並んで開いた頁の言葉
「男は自分の体内時計で動く」
「映画と人生はシンクロする」
これ、正解です。

「占いは好きである」
「自分がいくつかだか解らない時がある」
「飛行機や新幹線は必ずアイルシートに座る」
そして
「人生で今が一番楽しいと思える」
何か断定的に言われるのが嬉しい数少ない人。

「男が輝く条件」カッコいい男前になってほしい。私のためではなく、日本のために・・・いやいや、結構、夏木マリさん本人のため、でしょうね。でも、そんな結構1人称のところが、同性に受けるのではないでしょうか。

「男たちよ、ご一読、よろしく」と始まる文章だが、時に女性に向かって話す口調になる。
「悲しんでいるとブスになる」「バカじゃん、こいつ、と思った人間と時間を費やすほど私には残された時間はない」「我を忘れるぶっ飛んだ感じ」「知性、品、清潔」「男に余裕で接してもらうと女も優しくなれる」「いい顔というのは少ない」「時間を感じる男に会いたい」「エネルギーのある音って飛べる」

異性の私は、何も夏木マリさんにうけたいとは思わないでも、何かこう言い切られてしまうと「これは当てはまる!」「こんなこと言われてもなあ・・・」とか一喜一憂してしまう。異論反論もあるけれど、こう言い切る潔さに、桃井かおりさんとはまたひと味違う、こういう飲み友達がいたらドキドキしていいなとか、ちょっとまた、ありえないデカイ夢に向かってみようかな、とか。

これは彼女の本心だし、でも同時に、男も女もないエールになる。それと、男性に向かって、こう言い切れる女性=夏木マリを同性の女性が見て、読んで、多分「あなたたちも良い恋愛をしなさい、素敵な人になりなさい」と言われている感じになるのだろう思う。

「素晴しい俳優はアスリートと同じ」「丈夫も芸のうち」「食べ物に好き嫌いのある男はえらくなれない」「己(おのれ)を知っている男は群れない」
「好きなモノがたくさんあって、好奇心が旺盛で、そしてそれを言葉にできるというのは素敵なこと」
「フランスは、女性が歳をとることの素敵さがきちんと認識されている」
「フェリーニの81/2は大好きだ」
夏木さん、1度お会いしてみたい・・・

・・・
サルトルとボーボワールの関係に憧れていたという。
形式を取らず、死を迎える時に一緒にいられる関係。
恋愛は長くなるほど孤独になる。距離感という意識。

ローレン・ハットンの「ヘカテ」でも良いが、何かトリフォーの「突然炎のご とく」のような、例えばジャンヌ・モロー系をじっくり鑑賞したい気にさせる。それだけでもこの本の意図することが伝わった感じがする。



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2005年09月12日

『その日のまえに』 重松清 (文藝春秋)

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「私の老後の夢は案外単純だったりします」

こうして窓からマンチェスターの風景を見ていると、日本でのバタバタの生活を恥ずかしく感じたりします。最近は何だか、慌ただしい殺人的なスケジュールの生活にドップリで、頭に浮かぶ無数のハイパーな感覚が整理しきれなくなってきていて、その昔、カウンセラーに、自分の才能を優先するか生活を優先するか、どちらも辛いかもしれないけど、一つ一つ全て正直に考えてみなさい、と言われたことを思い出しています。
今週はこの風景を見ながら少し自分をリハビリしなければと思っています。何れにしても何かこう、自分の感覚に満足出来ない辛い状況が続いています。でも、こうして風景を見ていると「そう言えばそうだったなあ」とこっちの生活のリズム感を少しずつ思い出したりしています。公園を老夫婦が手をつなぎながらゆっくりゆっくり歩く風景、それはこっちにきて初めて出した手紙にも書きましたね。でももう4半世紀も前のことですけど。
でもここには、私の原点、原風景があります。あの時も辛かったけど、今の辛さとちょっと違います。

その昔、毎月愛読していた雑誌 Music Life にロックミュージシャンのカップルという特集があって、例によってジョンレノンとオノヨーコが並んだ写真とかが出ていました、その中にデュアンオールマンが歩いている写真が出ていて、彼に負けず劣らずのロングヘアでタイトなジーンズの奥さんが少し遅れて後ろから歩いていて「今さら手なんかつなげるかよ」とのコメントがありました。

私の老後の夢は案外単純だったりします。
老夫婦がゆっくりゆっくり歩く風景。
でも、今さら手なんかつなげるかよ、とか強がりながら。

健康のためなら死んでもいい、と言えばサンプラザ中野っぽくなりますけど、彼も走る走る俺達とか歌いながらフルマラソンランナーになりましたけど、そこにはそれなりの理想とする健康状態があります。
(「痩せ方上手-サンプラザ中野の簡単“健幸”マニュアル」(講談社))

最近、早朝や深夜にウオーキングをしている夫婦や女性の仲間をよく見かけます。これが男性の仲間というのを見ないから、ここに男女の違いを見ますが、ママさんバレーがあって、パパさんバレーがないようなもので。
さて、ジョギングというのも何で、あれは元来一人でやるもので、年を取ったらジョギングなんて心拍数を見てなければ無酸素運動になったりして逆に健康に良くありませんよ、と人間ドックの女医さんに注意されましたが。そのウオーキングにしても、早朝や深夜に見るウオーキングは、ペチャクチャchatしてたりで、chatしないまでも無言で首にタオル巻いてたりで、そんなの誰だって出来て、自分達だけの秘かな楽しみもへったくれもないし(下品な表現ですみません)こういうのは私の老後の夢とは少し違います。

ゆっくりゆっくりでいいんです。でも一つだけ大切なことは、その時にはiPodかiShuffleかi携帯かどういう形になっているか分かりませんが、要はウオークマンでもいいのですが、同じサウンドを2人で聴きながら、ゆっくりゆっくりウオーキングというものです。
手なんかつながなくても、サウンドでつながっているような。
年を取ればそれなりに言葉がおっくうになるもので、そんな時は、Zeppelinでも井上陽水でも、はたまた、やすきよの漫才でもいいので、そんなの共通のサウンドを聴きながら、もどかしい言葉を気にせずに同時性を楽しむというのが、夢だったりする訳です。NHKニュースでも良いですが、せめてカビラさんのFMくらいで行きたいもんです。株の相場とかはやめときましょう。

要は、音楽を聴きながら街を歩くと、その風景すら違って感じるもので、それを共有したいというものです。ただ、やすきよを聴きながら街を歩いたことないので、今度試してみます。まあ逆に渋い落語の方が良いかもしれません。

でも、その疑いもない大前提、手をつなぐ(つながなくても)相手がいるという当たり前の風景が、手をつなぐ間もなく崩れて行く。その、手をしっかりつないでいても「その日」がやってくる、ということ。

「だから、僕たちは日常を生きた」
そして
「僕たちはもう、その日を生きている」
そして「その日」は必ずやって来る。

何か入試問題に出そうな文章は、惜しげもなく、泣く、泣く、泣く、泣く・・・そして泣き続ける。この手の作品にしては、泣きを出しすぎます。
でも、これを入試に出して、試験中に学生さんが泣いていたら合格にしてあげましょう。
でも、何か、泣きたい時に、泣きたい映画を泣く覚悟でレンタルで借りてくるような、でも、そんな、泣ける自分の快感、人生の重さ、日常の大切さ、そしてリハビリ、かな。そうだ、何が気になっていたかって、本を読みながら映画館にいる気分になっていたんだ。泣く、というより、自分をさらけ出しながら読みふける。でも、電車で読むとまずいです。隣りの子供が、この人、何泣いてるんだろうって、覗き込む。ごめんね、だらしのないおじさんで。

はじめは、どこまでこのテンポを引きずるのだろうという展開。ロッキーの前半のような?
そして「その日」から一気呵成に来る。
連作短編7編は、やはり「その日のまえに」から読み始めて、最後まで読んでから、最初の「ひこうき雲」に行くといいかもしれない。エピソード5〜7から1に戻る感じで。何か聴いた事のあるタイトルの深い意味を探索するのはやめましょう。

そして、私のリハビリテーションツアーはもう少し続きます。

その同時性は、喫茶店で向き合うのではなく、バーのカウンターで並んで同じ方向を見るような。なので、映画館とか動物園とか美術館とか、はたまた車の中とか、横並びで同じ方向を見る位置づけというのが、時に必要だったりします。視線は面と向かうと「カツ丼でも食うか」の取り調べ室みたいになりますから、角度を持って、さらには平行に海を見るような、という視線の同時性は重要な要素になります。

たまには手をつないでもいいか。
いや、それこそよれよれになって手をつながなければ歩けないかもしれないし。
そして、同じサウンドを聞きながら、いや、渋い落語でいつもの同じパターンに落ちながら、フッとか笑いながら、2人してあっちを見ながら。
そして、たまには、出窓に飾る花でも買いに行くか。
そんな、当たり前の日常が来てほしい。
「その日」が来るまえに。

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2005年06月13日

『だめだこりゃ』(新潮文庫)

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「だめだこりゃ
 ・・・なんてね(前編)
 NG集で一番笑わせてくれた
 堤真一」

実はマズイことになってしまいました。
ある本の書評のつもりで書き始めていたんですけど(それも見え見えですけど)ところがいつも内容のウラを取る私としては、関係する文献をリファ(読んで確認)することを常としていて(やや自慢…)でも実はミイラ取りがミイラになるじゃなくて、つまりはそのリファレンスにはまってしまったのです。
その、ある本の書評では、まず初めに上のタイトルを思いついて、いかりや長介さんパターンで次いってみよう!と思い、そして長さんの本を読んでいたら、そちらの方に感動してしまったという訳です。

長さんの話は、多分、普通には普通の文章かもしれません。でも業界に身を置くものには「来る」ものがあります。子供の頃「祖母のくれた小遣いを握りしめて、映画館のある街まで4キロの道のりをてくてくと歩いていった」というくだり、「全員集合」はリアルタイムに見たり見なかったりでしたけど、その入念なリハーサル、毎週の生放送、業界のプロはこういう休みのない努力とこういう「引き」があるんだなあと。そして後半、俳優になって、はぐれ刑事よりももっと純情派の和久指導員にさらにグッと「来る」。「最高の親父」そし て「あとがき」までも、この手の本では珍しく、プロの苦労と控え目な性格を一気に読み切りたくさせる。

多分、今の店頭の帯は「踊る大捜査線」の帯になっていると思うけど、私の持っている帯は「こんな人生でした。ひとつ、読んでやってください」とある。長さんらしい…そう書きながら、実は今、気がついたのですが、その帯、2枚重ねになっていた。珍しいレアもの、何か縁を感じる…
ドリフターズとは流れ者とか漂流ものという意味らしく、誤解されようが何があろうが「こんな人生があってもいいのだろう」とさらりと流す。「苦労話も可笑しい話もあったが、そんなものは黙って棺桶に持って行けばいい。せいぜい死ぬ前に、女房と差し向かいで酒でもやりながらポツポツとひとっ節、語ってりゃあ十分…」と。これも長さんらしいが、何か最期を予感している感じで切ない。

何か、その、自分だけ知っている苦悩、誰もが思いあたる瞬間。
私の「だめだこりゃ」には何頁にも折りが入っていて、その一つ一つを文章に起こしたいけど、やめときます。何か説明すれば説明したでやぼったくなりそうで。
そこで、そのある本の書評用に書いていた文章の前半を、この長さんに捧げます。そしてその後半を来週に続けることにします。たまにはそんな構成もいいかもしれない、と思わせる、これも長さんの人柄かもしれません。

・・・前編・・・
自慢ではないが、この手の月9連ドラをリアルタイムで見たことがない。
ただ私は、ブームが去ってからマイブームにするという時間差攻撃を得意としていて、最終回にそのタイトルの意味が分かる「HERO」も家にビデオが残っていたからで、そのストーリーのリズム感で一時期一気に見てしまったことがある。最終回は36.8%の視聴率をマーク、瞬間最高は40.6%だそうで、うちも少しはそこに貢献していたのかもしれない。
キムタクというよりは、私としては松たか子が要チェックだったですけど、大塚寧々、勝村君、阿部ちゃん、渡る世間の角野卓造とか、役どころに憎い「引き」の演出が秀でていた感じがして、名前は知らないけど、あのバー「St.George's Tavern」のマスターもいい味を出していた。
一応、宇多田ヒカルの「Can You Keep A Secret ?」も必需品で購入しました。

ところが「Good Luck」に至ると、その時期、家に帰る時間が早かったのか、割とリアルタイムだったりで、一先ず、先に山下達郎の「Ride on Time」のシングルカットを買って気分を盛り上げていた。
いやいや、そうだ、日曜劇場だったからだ。だったから、毎週見てたんだ。
これもキムタクというよりは(でもこのキムタクはキムタクっぽくて良かったけど)私としては、ベースマンの長さんが、話に聞く長さんの親父さんそのもののような味を出していて気に入っていた。(それで一時期ラガーばかり飲んでいた)
そしてあの弟とユンソナちゃん、本当のスチワーデスにいたらまずい黒木瞳、ありがち柴咲コウ、あれから写真に走った内山理名、NG集で一番笑わせてくれた堤真一、バシバシの内藤ジェーン竹中直人、段田安則さん、そうそう安住さんもいましたね。
いや、何かその「Good Luck」というキザッぽい機内アナウンスが、正直見え見えで、でも時に目からウロコだったりで、飛行機に乗った時の非日常性に拍車をかける感じで、中々良かったというところで最終回は37.6%をマーク。
で、こういう視聴率という「引き」も俳優やスタッフの「引き」の相乗効果だったりで、実は私としては長さんの押さえた演技に充分「引き」を感じていました。

ここまで来ると次に何が出て来るか見え見えかもしれませんが、いつものパターンですが、長さんであれば、ここはもちろん
「んじゃ、次いってみよう!」
となる訳です。
(次週につづく)

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2005年05月23日

『ありふれた生活』(朝日新聞社)

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「超アジア通
 インドは踊る
 理想の夫婦像」

先日、夜中に「やっぱり猫が好き」の最新版をやっていて、3人ともメジャーになったもんだと感慨にふけて見入ってしまいました。決まった人物だけでワンカットで繰り広げられる、いわゆるシチュエーション・コメディの走り。第2シーズン(89-90年)からは、いわずもがな三谷幸喜さんの真骨頂。最近では「HR」を期待していたんですけど、慎吾ちゃんもいいんですが、いっそのこと「オケピ!」から川平慈英さんとかでレインボーゴールすれば、轟先生も良かったかな、と素人の言いたい放題です。

日常の「ありふれた生活」で笑わせること程、難しいことはない。誰もが、ちびまる子ちゃんの野口さんみたいな世界を持っている訳でもないし、そういう人は放っておいても、ローマ法王の選出がコンクラーベ、だけでクックックと笑っている。
ありふれたつまらないこと、面白くもなさそうなことで笑わすのはレベルが高く、普通、コメディアンは固定パターンに走りたがる。観客は、始めは何のことだか分からないが、慣れて来るとジャカジャカジャーンとかいう固定パターンの先読みで、そこまで引っ張ってから笑う。要は固定パターンがあるので、出て来ただけで笑えると安心する。その後の展開がないと命取りだったりするけど、それでも売れれば勝ちのプロの世界。
だからと言って、三谷幸喜に固定パターンはないかと言えば、ある。作品発表の記者会見の日には、必ず芸能界に大ニュースが重なる、という固定パターン。誰々が結婚だ、離婚だ、捕まったで芸能欄のベタ面積は、三谷幸喜の期待を裏切るという、その固定パターンで笑わせる三谷幸喜を期待することになる。本当は、そんな固定パターンは彼には必要ないはずなのに、天性の「引き」がそうさせるみたいだ。インタビューする側も、女子高生に人気があるからといって、軽部さんもそろそろひとひねりが欲しいところである。普通のネクタイにするとか。

「ありふれた生活」は新聞に連載され始めた初期からチェックしてきた。思わず落し所が野口さん的だったりして、クックックとなる。今では「怒濤の厄年」「大河な日々」と合わせて3冊がシリーズで書店に並ぶが、初期の作品には「サインを求められたけど」などの三谷幸喜らしい日常がある。

一人の主婦が「実は奥さんの大ファンなの」と切り出し、サインをもらいに来た。「奥さんのCD、何枚も持ってるんですよ」と。
僕に黙って歌手デビューしてたのかな、と思う三谷。
「一番好きなのは「卒業写真」」と来る。あれっ?
「ご主人のアレンンジなんでしょ」とトドメを刺され、「松任谷正隆、妻もよろしく」とサインする三谷。さらには「任」の字が思い出せず「まつと−や」と平仮名でサインした、ってウソに聞こえない三谷の落し所、日芸に秀でる、日大芸術学部出身の三谷。

小林聡美さんはソフトボール部出身ということでキャッチボールとハモリにうるさいという。後者に因果はないけど、一度ぜひ「卒業写真」を聴かせて下さい。何しろポポンS飲まなくても元気がありそうでいいなあ。物干しざおで重量挙げさせたら一番似合う女優は、というアンケートがあったら、絶対1位になる。一方、三谷幸喜は、駆け込み乗車をしようとして寸前でドアがしまった顔を車内から見たい作家ナンバーワン、というか・・・なんて理想的な夫婦なんだ。

それでは申訳ないので、「インドは踊る」という名作を踊りきってしまいながら、毎晩ゴミをまとめて玄関に出す家事まできっちりこなす生活のリズム感あふれるマダム小林の優雅な生活(幻冬舎)。そのゴミを朝8:30 に出して、奥さんに始球式の練習をつけられ、何ともウイットとペーソスにあふれる「ありふれた生活」の大切さを書かせたら天下一品のご主人。これある意味、理想の夫婦像です。

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2005年05月02日

『掌の小説』(新潮文庫)

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「期末試験とDeep Purple
 見えるべき風景
 何か違う背景」


小中高と、邦楽はだめで洋楽、邦画はだめで洋画、のような感覚でいて、巷では新宿西口のフォークだ何だというのを横目に、俺はロックだぜみたいな斜に構えたところがありました。ところが、こと文学に関しては、外国文学はだめで日本文学、のようなところがありました。リズム感が違うというか、見えるべき風景が見えないというか、ちょっと違う違和感でした。

年を取るにつれて、邦楽も聴くようになり、邦画も観るようになり、和洋折衷になりました。でも、文章だけは翻訳本には未だに違和感が残り、やはり元から日本語でないと、のようなこだわり?があります。日本人だから仕方がないですけど。

同じ日本語なのに、何でこんなに違うんだろう、というのがまず一つ。三島由起夫は過去のトラウマと才能丸出しギラギラ、林芙美子は貧困で魚の生臭い匂い(シンディ・ローパーも匂いは違いますけど、自分の出発点はpovertyと断言してました)、井上靖はステップを吹く風の音、そして川端康成は才能がありながらのやわらかい日常の日本語。

今でも覚えていますけど、高校の時の現国の期末試験。試験問題を読みながら「何これ」と感化され、しばし窓の外をボーっと眺めてしまったのを覚えています。それが、川端康成の短編「雨傘」でした。その日は、試験期間中なので、お昼で帰宅。でも「今日はもういいや」と帰りに神保町に寄って、さっそく見つけたのがこの「掌の小説」でした。当時、地下鉄の中ではいつも受験用の「出る単、出る熟」みたいな感じでしたが、しばらくはこの「掌の小説」を「眺めて」いた時期がありました。何てきれいな日本語なんだろうって、画集を見る感じで。

ところが、今あらためて読み直すと、ちょっと違う。自分のリズムとかセンテンスとちょっと違う。期待する次の言葉が出てこないで何となく文体に違和感があって、何であの時、あんなに感動したんだろな、とちょっと首をかしげる。それだけ自分がすれてしまったのかもしれないですし。

武道館にディープパープルが来た時、寒い日だったと思いますが、この文庫本を読みながら、横の隙間からかすかに覗けるリハーサルの音を聴きました。切符なんて、まだロックは不良が聴きに行く時代、受験もあり無理な話でした。
ディープパープルとしてのみならず、ライブの名盤として有名な"Live in Japan"(武道館のステージの後ろから撮った有名なジャケット)は、元々日本でのみの限定版で、企画から録音まで全て日本人だけで作ったまさにMade in Japanが、その後全世界で高く評価された作品でもあります。その録音が行われた1972年、川端康成はガス自殺しました。らしくない、いや、らしい最期でした。
1968年、川端康成ノーベル賞受賞(3億円事件もその年)、その後は、超多忙、苦悩に満ちた生活だったのだと思います。

その前に、三島由紀夫もノーベル賞だったという話です。彼の場合、最期の最期まで〆切を守り、ペン習字のような几帳面な原稿を仕上げていたという、それに自分の存在感が満たされずかボディビル、楯の会。そう言えば、団伊玖磨ポップス・コンサートにも出演したようなイメージが残っています。
一方でノーベル賞後の苦悩に堕ちて行く川端。昭和の2大天才作家がいて、現在の日本文学に至るのか。彼らの苦悩を理解しようとして損はないだろうけれど、書き出す内に辛くなる。彼らの目を見ていられなくなる。価値観が崩れて行くのが恐い。やはり、彼らの作品を見て、同じ日本語なのに何か違う背景を感じているだけの方が良いような気がする。徐々に語尾が変る、それがその気持ち。

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2005年04月18日

『生きよ堕ちよ』坂口安吾(大和出版)

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「人間は堕落する」
「アナーキーな理想主義」


 何か坂口安吾と言うと、高校の頃は下校時に神保町を歩く一つのファッションのような響きがあった。

 これもまた絶版に近い本なので紹介するのもどうかと思ったが、この「生きよ 堕ちよ」というタイトルそのものが気に入っていて、一先ず選んでしまった。 本書の内容の『堕落論』『続堕落論』『日本文化私観』『青春論』『恋愛論』などは既に文庫でも出ているので、内容を読むことは出来る。

 その有名な『堕落論』だが、「人間は堕落する。人間は生き、人間は堕ちる。人間は可憐(かれん)であり 脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱 すぎる。正しく堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わな ければならない。」と言い切り、学生の頃、初めて読んだ時は、他の作家のセンテンスもそうだっ たが、そのファッションのような格好良さに惹かれ、ところが今ではその真実に心底惹かれる。ロックというカルチャーも同じ趣向があり、初めは格好良さに惹かれ、年を取るごとに、そういう真実が見えてくる。

 坂口安吾と言えば「小説よりもエッセイの方が面白い」とは、巻末の解説の奥 野健男氏(大学の大々先輩で理工系ながら「文学は可能か」などを執筆し、ペンクラブの理事をされた方)の弁であるが、言い得て妙である。ところがそのエッセイにしても私小説を読む感じがするのが坂口安吾の魅力なのかもしれない。

 エッセイを読むと、何故かいつも横光利一の短編「蠅」を思い出す。馬車に乗り合わせた人達の日常の詳細が語られ、最後の数行で全てが終ってしまうという語り口で、初めて読んだ時は、とてつもなく興奮したものだが、文学史的な関係は何も分からないが、その時代背景か、坂口安吾と分母が同じ数で割れる感じがする。『白痴』までくると太宰治や石川淳の方と共通項が出て来るだろうが。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2302_13371.html

 自分が年を取ったのか、時代の理解が追いついたのか、改めて、しばらく休みを取って、ひなびた温泉宿ででも坂口安吾を読み直してみたい気がする。その時は、浅野忠信演じる『白痴』も要チェックリストに入れておかなけらばならない。「地雷を踏んだらサヨウナラ」的なのか、いや、奥野氏曰く「求道と破壊の中で」ある意味、アナーキーな理想主義を貫くハードロックのリフのような勇気を少しでも感じてみたい。

 蛇足だが、坂口安吾は、それこそ1日4時間の睡眠時間で過ごし神経衰弱になったそうで、寝不足になると彼の文章が恋しくなるのと何かリンクされているようで、同じ睡眠不足ながら、神保町の古本屋で買いもしない初版本を見つけ ては、なりきった感じになっていた若さが今さらながらに思い出される。

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