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2010年01月29日

『書評で読む近世史』深谷克己(名著刊行会)

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「日本には書評文化が根づかない
 と言われるのは何故か? 」

書評の評というのがあって
それが中々、的を得ていて、恐れ入る
良くも悪くも筆者の立ち位置を知るのは
筆者ではないことが良く分かる

相次ぐ雑誌の廃刊の中で、早く廃刊になったものの方が残念なものが多かったような気がする。朝日新聞出版の「論座」は2008年の10月号で休刊したが、その最後のタイトルが「進化を続ける論座的空間」であった。私が大切にしているバックナンバーは、その少し前、同年4月号の「理想の書評を求めて」である。言葉尻をどこまで意識したかは知らないが「書評空間は複雑に入り組む知の闘技場」とまとめられている。これはフランス書評事情を述べたものだが「書評空間」とは全くそのままの記述にどこまで筆者の意識があったかを実は知りたい。

書評はニュースでありコラムである(アメリカ)
書評は偏見を見比べる機会(イギリス)
書評は論争に火をつける(ドイツ)

そしてヘッドラインにこうある

日本に書評文化が根づかないと言われるのは何故か?
「散文」の伝統がないからなのか

ここで私のズルがあって、本当は
「議論」や「散文」の伝統がないからなのか
と書かれているが、あえてその「散文」の伝統を意識したい

プレスリー、ビートルズ、レッドゼッペリン
という、ある意味、今からすると王道の歴史的必然性とは違い
これは、デカルト、ニュートン、アインシュタイン、でもいい
その王道の路線とは違う所で、ある意味、初期の音源からすると、ヘタに聴こえるジェネシスなんかは、どうやってモンスターバンドになったかというと「散文」の伝統なのかと思う。つまり、まとまりのない、スタイルのない「散文」から、ある切っ掛けで、それもある意味計画性もなく、予測も出来ず、世界が開けることがある。しかしこれには、王道を走る歴史的必然性の裏で、やはり必然性を感じることがある。例えばラグランジュとハミルトン、ヘルムホルツとギブス、を意識したかしないかのルジャンドルでもある。だから書評のスタイルがどうのと結びつけるつもりはないが、王道とは違うオルタネティブはいつも「散文」から始まると意識している。句読点の付き方まで、無意識の域を脱していない文章ほど胎動を感じたりする。


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