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2007年08月29日

『藝大生の自画像』河邑厚徳(日本放送出版協会)

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「気がかりでミーハーで文化の香り」

嫉妬に満ちた、それ以上に恐れに近い一番の気がかりは、攻撃的な松井冬子さんです。女子美のスキンヘッド時代にお会いしたかったものです。彼女の「この疾患を治癒させるために破壊する」は圧巻ですし、今年の12 月に九段で予定されている個展は必見ですし、書評という意味では今年の秋に出版予定の画集は、出版以前に私が書評しますと予約したいものです。

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夏休み、ウチの子供達は上はライフセイビングで2ヶ月間海に泊り込み、下の子はサッカーの合宿、夏練続きと、こんなに早く夫婦だけの生活になるとは思ってもいませんでした。夏休みに子供達と家族旅行するなんて、あっと言う間に過ぎてしまいました。
そうなると我々夫婦だけが家にいて、そして二人で外に出ることがまた多くなるのですが、例えば今年の六大学の開幕戦ですが、ぴあで衝動買いをして二人して初めての六大学観戦となった分けですが、ある意味見慣れたプロの野球観戦と違って、外見は大人なのですが大人に成り切れない何とも不思議なおもはゆい想いが伝わって来て、本当に見て良かったなあと思いました。ミーハーと言われようが、兎に角「いわゆる一つの歴史的瞬間ですか」にいるっていうのが快感です。そんなこんなで「何でもミーハーで何が悪いですか」が多いのですが、今年の夏は何故か上野の藝大の「自画像の証言」が気がかりで、ミーハー以上の気持ちで、ややエリを正して二人して行って来ました。相変わらず上の子は海、下の子はサッカーと、子供は炎天下気にせず真っ黒な子供の世界で、大人は日傘をさしながらの大人の世界というところです。

昨年の9月30日と2005年4月25日にも書きましたが、私のどうしても気がかりな佐伯祐三の自画像もあると期待して行きましたが、実は実物は藝大にはなく、プリントの展示でしたが、それでも青木繁はあるは藤田嗣治はあるは荻須高徳はあるはで、近いところでは千住博、そして松井冬子、となります。そういえば下落合にある佐伯祐三のアトリエとか某画廊を捜して歩いた頃から、夫婦だけで行動することが多くなったような気がしますが、今回は佐伯祐三の第2弾ということになりました。

陳列館の1階と2階とでは、戦前戦後のような感じですが、技術的にも非常に高いレベルになった戦後よりも、いかにも西洋の画法を勉強しています、という戦前の苦悩に満ちた自画像の方が、大人としては何かぐっと来るものがあります。ある意味見慣れたプロの画廊巡りと違って、外見は大人なのですが大人に成り切れない何とも不思議なおもはゆくもない想いが伝わって来て、本当に見て良かったなあと思いました。しかし、大体大学4年生ですから、その時何を想いながら描いたのかと想いを巡らすと、計り知れない重さと、良い意味での青臭さと未熟さに胸を打つものがあります。また自画像を描く事自体、実は非常に難しい課題であると同時に、非常に良い課題であることにも気がつきます(黒田清輝の功績です)。

実はNHKの特集は見ていません。
何か事後の評判しか見聞きしませんが何れにしても藝大もNHKとタイアップして企画するという一つのビジネスモデルを垣間見る感じがします。そういう意味でも松井冬子さんというのはVOGUEな女性ですし、その象徴のような感じであります。何れにしても才能のある人は、我々凡人には出来ない、出来るだけのことをやってのけて、出来るだけ我々にその非凡な才能を見せつけてもらいたいものです。そんなある意味サリエリ的快感でここまで来ています。
兎にも角にも松井冬子さんの自画像は、何か既に念がこもった感じで、時の人でもあるのですが、どうしても立ち止まってしまう作品でもありました。

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久しぶりの上野は「ALWAYS、三丁目の夕日」で掘北真希が集団就職で上京した場所ですし、そのCGの巧みさには脱帽ですが、その昔ウイーン少年合唱団で文化会館に来たという、そうすると映画の「青きドナウ」や「野ばら」とか「菩提樹」の話もしたくなるのですが、それはまたいつか。で、今回、藝大は今までに何回も行ったはずなのですが、野口英世の銅像を初めて見ましたし、東京に生まれ住んでいながら初めて西郷さんの銅像を見ました。

「西郷さん見たことなかったの?
 でも西郷さんって、もっと正面見ていなかったっけ?
 な〜んだ、少し右から見れば、やっぱり正面見てた」とかで
「な〜るほど」とサイエンティフィックな夫婦の会話です。
それからアメ横も初めて歩きました。
「アメ横も来たことなかったの?」
いやはや、中居君とか浜ちゃんとかぐっさんが好きそうなスタジャンもありました。こりゃまた時間をかけて来なければ・・・。

藝大生もいれば、浮浪者もいれば、声をからして値引きするお店の人もいる。自画像からアメ横まで、やはり上野は気がかりな文化の香りが混在するミーハーでハイブリッドなブレードランナーの街であります。

加えて一つ印象的だったのは、西郷さんの銅像の前で、記念写真を撮る老夫婦とその家族が、記念写真をデジカメで撮っていたことです。銀塩カメラではなくデジカメ、というところが何故か上野にしては不思議な光景に見えました。上野駅とそのCG、自画像の戦前戦後のような、西郷さんは同じ正面の空を見ていても、その下で文化は確実に大きく変わって行っている、ということですね。
それにしても、次は国立新美術館、そして**美術館のガーデンテラスにも行かねばと、帰りの電車の中で半分居眠りしつつ想いを巡らすのでした。

知性って、すぐ眠りたがるから(仲畑貴志、桃井かおり)
こうして今年の夏も過ぎて行きます。

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蛇足ですが、同じくVOGUEな女性で「会って一番感激した人は?」の質問に「ジェフ・ベック、カリスマは力抜けてる」と答えた桃井かおりさんも、バレエ留学帰国直後にNHKで紹介された頃から相変わらず気がかりです。そういえば桃井さんも女子美出身でしたね。



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2007年08月22日

『「気づき」の幸せ』木村藤子(小学館)

「気づき」の幸せ →bookwebで購入

「もっと静かで激しい音楽を
 もっと穏やかで過激な生活を
 Frail, Wretched, Closer」


ある本にこう書かれていました。
「たとえ何かを感知しても、許可されていないかぎり、それを明らかにする権利はあなたにはありません」

歩くスピ−ト感、リズム、立ち位置、距離感
飲食の仕草、品、指先の輪郭、皮膚感、外観
表情、目、頬骨、口元、覇気、そして、コツ
本当のことは、決して言ってはいけない

一瞬の表情に、気づいていてもいなくても
言ってはいけない
今、何が起きているか、毎日、何が進行しているか
決して言ってはいけない

分っていてもいなくても、本当でも嘘でも
言ってはいけない
そこの置物を壁に投げつけたくなる衝動にかられても
投げない
これはかなり難しい条件を課せられて
確かに厳しい修行です
Love is not enough...

***
学生時代に毎日のようにかよった喫茶店があります。
大岡山のガールトーク、自由が丘のチャーリーブラウン、そして学芸大学の珈琲美学です。その内、3番目の珈琲美学だけが今も残っていて、今、その珈琲美学でこの原稿を書いています。かれこれ30年ぶりでしょうか。
ガールトークはビル・エバンス、チャーリーブラウンはスティーブ・ルカサー、珈琲美学はモーツアルト、それぞれいつもそんな曲が流れていました。

・・・と、そんな文章を書いて3ヶ月が経って、どうしてもしっくり行かず、そのままにして来ました。その辺の話はまたいつかしましょう。

当時の私は青臭くて「観えているか?」をいつも繰り返し自問自答していました。それは30年以上経った今でも同じで、何も平たい表現にする必要はなくて、未だに「観えているか?」の繰り返しです。
You can't change anything in the end...

年を取れば取る程、学生時代のモチベーションレベルをキープするには、表向きは穏やかでも、気持ちは増々過激に、そこの置物を叩き付けるが如く青臭さをキープする状況にあります。それは余程の状況にならない限り、表には出しませんけど、それでも、もっと静かで激しい音楽を、そしてもっと穏やかで過激な生活を、とモーツアルトを聴きながら想います。観えていない**はいりません。
Terrible lie...

でも、これを読むと、その自分の嘘っぽさに恥ずかしくなります。青臭さをキープしているのではなく、未だもって昔から進歩していないからということが分ります。

私は何もこれと言って特別な修行をしている分けでもありませんし、特別な宗教を信じている分けでもありませんし、時折サディスティックにストイックになりながらも何も見えている分けでもありませんが、生きていること自体が修行であることに変わりはありません。
出世しなくても良いと言うかもしれませんが、うだつが上がらないのは、はっきり言って**でしょう。徳を落とさない、引きを落とさないノウハウは、自分でエスタブリッシュして行かなければならないことですが、今までの様々な状況の中から、それはサイエンティフィックではなく、かなりアーティスティックな所から、またはサディスティックな所から、自分なりのノウハウがあって、それからすると、毎日の生活の中でよく徳を落としている人を見かけます。つまらないことで、その歩き方でその表情で、ああ残念だなあと思います。かと言う私も気づかない内に落としているのでしょう。さらに私の問題は、その落とさないということが、どうしても自分の為、つまり自分のことしか考えていないところに、まだ修行の甘さがありまして、どうしても自分のこと、少なくとも家族のこと、と思ってしまい、修行の身でありながら自我から抜け出せない自分が今の一番の悩みです。

気づかなければいけない事にさえ気づけない
幸せになるかどうかは、自分のカルマに気づいているかどうか

自分を正当化する、自分は悪くない
そのことの重大さに気づいていない
見ている人は見ている

人を許す事は何と幸せな事か

カルマの汚れの積み重ね
自分で自分の運命を閉じている人
道を閉ざしてしまう人
汚れた運命を作る人

グチ三昧は
自分の甘さや考え方の間違いに気づかないまま
自分自身を醜くする
自分はすぐれている、という意識
つねに自分が正しい、という意識
体内の血がごうごうと逆流しているような状態になって、更年期障害を重くし、そのいらいらがまた、悪循環を起こす
本来は子供のころに身につけてもらいたかったこと
burning, burning, burning...

一方で
マイナスになりそうなことでも、プラスに転化していくことはいくらでもできる
・・・でもここでポジティブなことを言うのはやめましょう

物事が上手く行かなければ
それは誰かのせい、何かのせい
それではいつまで経っても状況は変わらない
自分に何か問題があるのではと気づくこと

I don't know, I don't know...

雑然と並べられた表現に、何時しか共通項に気づく
我々は知らないということを知らない
私は言いました
we do not know what we do not know
彼は言いました
don't you f**king know what you are ?

描かれた例は、例であって、それも普通の例が多くて、後は自分で気づきなさいという話で、どうするかは自分でノウハウを蓄積しなさい、と読めます。

極端に言えばどんな家でも、悪いことをした祖先がいるはずです、と言われて、ところが、ここで新しく示唆されたことを一言で言えば「先祖ではなく今の自分」というポイントです。あくまでも私個人に取っての示唆ですが、でもこれは目から鱗(うろこ)でした。明け方に観る夢も違って来ました。今までに見た事のない夢を見るようになりました。幸運の兆しかもしれませんし、または全くその正反対かもしれません。

それから、身体をどれほど苦しめたとしても、心ができなければ得る物は何もない、ということです。どんな厳しい訓練をしても、人間の心ができないと、深い部分での心の交流はできない。心をつくらずして修行をしても神は認めてくれない、自分のカルマは自分の心で汚れ落としをするべき、と。
doesn't that make you feel better ?

Sカルマ氏の犯罪は
赤い繭は衝撃だった
・・・かもしれない

そしてこれは正直、普通の本です。
決して難しいことが書かれている分けではありませんし、流れるような内容でもありません。でも、そんな普通の日常の内容をどう読むかで自分が試されているような気がして、だから私はまだ、自分のことしか考えていないところに、まだ修業の甘さがある、と思っています。
でも、ここまで言うと、明日気をつけなければいけません。

誰かのせい、何かのせい、と考えるのをやめる
自分に問題はないか
自分の態度や言葉に間違いはないか

身の回りに起こる事の原因は全て自分にある
私の身の回りに起こる事の原因は全て私にある

徳を落としていることに気づいている人といない人
引きを落としていることに気づいている人といない人

そういうことを分っている人とつきあいたい
遠回りせず
いつまで経っても「観えているか?」で
観えていない**はいりません

come on tell me
you make this all go away
you make this all go away
I'm down to just one thing
and I'm starting to scare myself
you make this all go away
you make it all go away
I just want something
I just want something I can never have

throw me away...

私はいりません


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