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2006年02月28日

『Rock Between The Lines
 ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン(集英社)

Rock Between The Lines<br> ロックの英詞を読む
→bookwebで購入 BGM(Stanley Smith/In the Land of Dreams (2002))

「もう返して
 no one's case
 esthetic is a hell
 asiya de」

すでにレセプションの時間は過ぎていて足早に改札口へと急ぐ。
最近の改札口は両方向から入れるようになっていて、でもこの時間帯の国際展示場の改札はガラガラなのでどのラインも使える。手元のパスを確かめながら機械に入れ、出て来たパスを取り上げると、出るところをふさぐかのように目の前で鞄の中の探し物をしているのがLucyだった。
「ハイ、Lucy、ここで何やってるんだい?最近どう?」
「アー、Hara-san、ファインよ。これからビッグサイト?」
「そう、もう始まってるけどね」
「アーハー、エンジョイ」
彼女はチャイニーズアメリカンで、前回会ったのはスペインの何とかコンポステラだったか。石畳の歩道に出たところのカフェにいた彼女が遠目に小さく手を振っていた覚えがある。
「ちょっと待って。私、テキサスに移ったの。これ新しい名刺、受け取って」
「アー、サンクス、グッドニューズだね」
「まあね」
「じゃあまた、気をつけてね」
こんなに誰もいないアジアの日本の東京のお台場の国際展示場の改札口でバッタリ会ってもそんなもんかなという感覚が嬉しかったりする。

・・・
次の百万遍のバス停で降りないと、とPowerPointのファイルを確認して急いで PowerBookを鞄にしまう。小銭がないので千円札をくずして、チャリチャリと料金を入れる。「はい、ありがとうございました」とマスクのままでこもった 声の運転手がマイクを切らずに話す。
背中でプシューとドアが閉まり、さてさて京大のベンチャービジネスラボ (VBL)に行くのは右だったか左だったか、と停留所のひさしの下で風景を思い出していると、目の前のコンビニから出て来たのがMorganだった。
「ハイ、Morgan、ここで何やってるんだい?最近どう?」
「アー、Hara-sanこそ何やってるんですか?」
「えっ?京大のVBLに行くんだけど・・・え〜?いつ日本に来たの?」
「今日、今」
「何、またRuggeroの所に行くの?」
「そう、また彼と共同研究で予算申請だよ」
「ふ〜ん、じゃあまた、気をつけてね」
「OK、そちらもね」
Morganは昔、我々の研究室のポスドクで、フライドチキンが大好きなやつ。前回会ったのがマンチェスター。わざわざRachelと一緒に学会の会場まで来てくれた。

・・・
よく旅行中、ソニンちゃんが隣りにいたり、チックコリアが隣りにいたり(ベ ースのパティトウッチもいたってマニア過ぎるが)、安室ちゃんが隣りにいたり、舞の海までいたり。バッゲイジクレイムでは中嶋みゆきさんも隣りにいたし、最後の最後まで鞄が出て来ない最後の2人になって「中々出て来ませんねえ」って隣りで並んで話したのがパンチョさんだった。それにしてもソニンちゃんは体鍛えてる〜って感じで格好良かったし、英語もネイティブっぽかった。
それにしても地球上のどこかの街角でバッタリ友人に会う方がもっと嬉しい。
そしていつも英語をもっとやっておかないと生まれ変わってスタンダップコメディアンになれないと思うし、韓国語もやっておけばソニンちゃんと韓国語で話せたのに、とか思う。

・・・
「Louiseが一人で日本に行くから会ってやってれない?」とPrabさんからメイルが来た。彼らイギリス国籍夫婦は、私ら夫婦と20年来のつきあいで、 Prabさんは2年に1回位来日するので、大体いつも食事をしたりしている。カリフォルニアのシリコンバレー、マウンテンビューに住む彼らは、特に奥さん のLouiseさんは「イギリスに帰りたい」といつも口癖のように言っていた。レストランのあの「エンジョイ」と言われることがどうにも馴染めないと言う。
「12年ぶりの日本、実は切符を取っていることをLouiseに言っていないんだ。 サプライズだからよろしく」のような話だった。
そしてその日が来て、朝出がけに電話をして、夕方ホテルのレセプションで会った。
「アー、Hara-san、元気でしたか〜?」と上手な日本語でハグ。
「Louiseさん、何年ぶり?」とか話す内に英語になった。
「そう、サンフランシスコ空港のチェックインカウンタでPrabが「通路側?窓側?」とか言っている内もロンドン行きと信じていて、両親にも「明日ね」な んて電話していたし、いつもの便の出発時間が変ったんだなとか思っていたらPrabが「じゃあこれ」と20年前の東京のガイドブックと当時のアドレス帳とボーディングパスを渡してくれて初めて自分は東京に行くんだと気がついた。本当サプライズ!私は東京大好きで、いつもまた行きたいって言っていたから。 でも暮のクリスマスにロンドンに行って、またすぐ切符あるけどって言われて何でかな?と思っていたけど本当に嬉しい。前回は横浜で会ったわね。皆さん 元気?」
「彼らは皆ファインだよ。ちょうど今、子供二人とも入試で、会えなくて残念ね」
そんなこんなの話から家族や子供や昔の話にさかのぼった。
「PrabはHara-sanには連絡取ってあるから、後はこのアドレス帳から昔の友達に連絡してみたら、とかだけど、もう20年も経つと連絡先が変っていて中々見つからない。特にMiyoko-sanとPeterに会いたいんだけど、web見たら沢山出て来て、これは無理だなって思って。日本にいた時はPeterからは日本の情報をいっぱいもらったけど、もう私のこと覚えていだろうな」と少し寂しそうに言う。
「Hara-sanはMiyoko-sanとかPeterとかって会ったことなかったかしら?」
「ないなあ。そう言えば昔よく言ってたよねその名前。でPeterって?」
「知ってる?Peter Barakanって」
「え〜!知ってるも何も、Peter BarakanってPeter Barakan?」
「そうよ、何で?そんなに有名?」
「有名も何もよく知ってるよPeter Barakanでしょ、チョ〜メジャ〜」
「チョ〜」だけ日本語で、何だ昔に会ってればよかったなあと、こういうの 「ミーハー」って言うんだ、と変な日本語を教えてしまった。
外を見下ろすカフェのカウンタで、そんなこんなで別れた後、日本語の勉強を再開したというLouiseさんにこの本を贈った。

・・・
この本でPeter BarakanさんはLed Zeppelinが耐えられないということでちょっと残念ですが「あんなにリズムの悪いものまねを、何で今さら聴かなきゃならないんだ、みたいな(笑)」とBarakanさんに言われるとそうかもしれないとか思ってしまうけど(危ない危ない)まさかあの変調でわざとリズムをずらしてやっている曲じゃないだろうなあ、まさかですが。それよりも何よりも私はBarakanさんのレコメンドでCDを買うことがしばしばで、いつも中々聴き込んだ渋い選曲に外れのない安心感があります。Louiseさんにそれを言えばよかった。「ミーちゃんハーちゃん」とかより。
しかしまあ何といっても日本語の上手なこと。でも一言「しゃべれない人は努力がたりない」と…ごもっともです。「語学はやる気が半分。やる気がなければ絶対に上達しない。残りの半分は、いかにプライドを捨てられるか。理屈でやるんじゃなくて反復作業」…なるほど。
http://www.eigotown.com/culture/interview/backnumber00/interview0411.shtml

・・・
私は英会話を正式に習ったことはありません。教科書的な本は山ほど買いましたが、書店でレジに行く前に数ページ読んだきり、それ以上行ったためしがありません。で、何が私をこうさせたかというと、勿論ロックだった訳ですが、 そういう意味では一人プライドを捨てた秘密練習をしてきました。小学校の頃から「ロックを聴いていた、ヘッドフォンで〜(王様)」というませたガキだった訳ですが、レコードを買っては歌詞カードを見ない(それ以前に読めな い)という生活があったわけです。今もって新譜旧譜を問わず、初めは「空耳アワー」状態で人には聞かせられない状態で日夜頭の中で歌い続けるのです。 車の中では全くもってソロリサイタル状態で、本当に耳から聞いて適当に歌うのです。
で、例えば
「もう返〜えして
 ノーワンズ ケース
 エステ イズ ア ヘル
 芦〜屋〜で〜」
となって、ちなみに私は全国チェーンのスポーツクラブに入っていますが、出張があると出張先の近くのクラブのベルトコンベアで走ったりしていますが、 海外出張でもそうですが、ジムとそのジムに通う人には土地柄が出ます。で、 芦屋のクラブにも行ったことがありますが、他にはないスカッシュがあったり、やっぱり集まる女性がセレブっぽかったり、出たところのコンビニの駐車場には外車が並んでいたりします。(ベンツでコンビニに来ないでくれ〜)
で、何かというと、誰のでもないケースが盗まれて、返してくれ〜?
誰のでもないケースって、お風呂屋さんのカゴみたいなもんかなあ?
いや?「知恵の輪〜」のケース?って言ってる?・・・でもないか?
で、芦屋のエステで何か問題があったんかなあ?
みたいな・・・んなわけないけど・・・
ですが、車でもiPodでもそんな「空耳アワー」状態で安斎さんみたいに遅刻しないように気をつけています。
しばらくして、歌詞を見ると
「your god is dead
 and no one cares
 if there is a hell
 I will see you there」
("heresy" from "the downward spiral" by Nine Inch Nails (1996))
なるほどね、2行目は遠からず?・・・でもないし。
しかし芦屋でエステはないでしょ、とか自分で突っ込んでどうする。
しかし未だに「もう返〜えして」としか聴こえないので、何か問題があったん かなあ?とかいつも心配してしまう。ただ2行目をどうにかひねらないと「空耳アワー」には投稿できないので未だにペンディング状態が悩みの種です、って悩んでどうする。
Barakanさんの言う「行間を読む」にはほど遠く、未だ修行の身であります。

→bookwebで購入

2006年02月21日

『五十からでも遅くない』瀬戸内寂聴(海竜社)



五十からでも遅くない
→bookwebで購入 BGM(Genesis/Seconds Out (1977))

「Max RegerはSerpentineにThe Ringを架けた
 すると半音階の回廊がHyde Parkの空を登り
 AgogikとDynamikの神が舞い降りた」

【1973 九段下】高校の頃、よく受験勉強の合間をぬって四谷のイグナチオ教会へ行った。宗教とは何も関係なく木曜の夕方だったか、ただパイプオルガン の練習を聴きに飯田橋から歩いて行った。誰もいない旧聖堂の後ろの方に座り、ステンドグラスが暗く浮かび上がる頃、目を閉じて背後から聴こえる音と凛としたスペースを感じていた。あの頃は迷惑をかけたが、私も必死だった。
あの頃は自分の周りが淀んでいることが気になって仕方がなく、よく休日に誰もいない教室に行っては、あの音が聴こえるまで目を閉じていた。担任の先生は「お前は平気だから」と言ってくれて、そして平気だった。あの頃から私は先生や上司に大変恵まれている。それぞれ個性豊かな先生達だったが、その全員から本当に沢山のことを教わったし今もって教わり続けている。勉強というより、むしろ生き方というか、本当に感謝している。
【1976 大岡山】大学で体育会に入ると授業で教わった内容を覚えていることは多くない。ただ、非常に印象に残っている授業は「君達ね、勉強よりも早く 異性とつきあって少しでも早い内に失恋しなさい。そうするとね、自分の考え方の座標軸が全てに当てはまる訳ではないことが分かるから、その方が大切」 と言い得て妙だった。その先生は迷う私に留学を決定づけてくれた。「少しで も早い内がいい」と。
【1981 マンチェスター】イエローに対する人種差別もさることながら自分に納得の行かない毎日に連日研究室の立ち上げもあり日本人に会うこともなく週末のライブ以外は本当によく実験した。借りていた北西の部屋には西向きの窓が一つだけあって、あとはデスクライトだけで電話もファックスもメイルも何もなかった。出すことのない手紙をひたすら書き続け、あの窓から聴いていた Firth of Fifth (Genesis(1973))、そして真夜中のCommunication Breakdown (Led Zeppelin(1969))。週末の夕方に薄暗い部屋の電気もつけずベッドに正座して、ひたいを壁につけ、うつむき加減にあの音が聴こえるまで目を閉じていた。そして出してしまった手紙をいつまでも悔いていた。
http://www.youtube.com/watch?v=5CZbPNW3Gbw&search=zeppelin%20communication
【1981.12.31.ロンドン】休みになると大家さん一家が出かけてしまうので私は家にはいられず、ロンドンに出ては大体いつもビクトリア駅の裏の安いB&B(Bed & Breakfast)に泊まっていた。SohoでTommy Steelだったか何だかのミュージカルか忘れたが、あの頃はよく当日売りで舞台ばかり観ていたのでそんなこんなで夜はふけ、大晦日だということで年越しソバでもと思い、一人Baker Streetのジャパニーズレストランに向かったがその手のメニューは全部売り切れ。正直、何か自分が情けなくて、結局その店の最後の客になるまで、 一人で何パイント飲んだか。よくお店の人も最後の最後までつき合ってくれたが、私はその頃も必死だった。そして「俺は何でここにいるんだ?」と悔しく て、それから仕方がない、なけなしのお金で一人で日本酒を浴びるほど飲んだ。
海外の大晦日は花火を上げたりクラクションを鳴らしたりというイメージがあるが、その日は夜の12時をまわって店を出ると街中はシーンと静まり返っていた。地下鉄もなく、タクシーに乗るお金もなく、それにしてもOxfordとBond Streetは本当に人も車も何もなくPiccadillyのネオンも消えて、何か巨大な映画のセットの暗がりの中に私一人だけが立っている感じだった。見渡す限りの地球上には本当に私一人だけだった。そして私はビクトリア駅に向かって Piccadillyのセンターラインを千鳥足で歩き始めた。真っ暗な空を見上げて 「地球の上だったら自分はどこでも同じだ」と思った。この時、私の中で何かが変った。大学を出て、そのまま大学院の2年間を終えていたら2度と経験出来なかったかもしれない、どころではなく、これを経験しなければ何もなかっ ただろう。そして底冷えする道のど真ん中で、ポケットに手をつっこんだまま 「上を向いて歩こう」を頭の中で歌った。悔しいというのか何だかよく分からなかった。
着の身着のままベットに倒れ込んだことまでは覚えている。そして何時になったのか、私は急に目が覚めて、洗面所で胃の中の全てのものを吐き出した。何か体中の悔しさを全部、胃がけいれんしそうになるまで徹底的に吐いた。そしてまたベットに倒れ込んだ。新年の夜明け前だった。
【1982.1.1.ハイドパーク】次の日の朝は勿論元旦だが、天井の模様を見ながら「ここはどこだったんだっけなあ」とゆっくり目が覚めた。裏の一部がひ び割れた古い鏡をのぞくと顔は少し青白いが、それでも快晴の朝日に少し頭が痛い程度で二日酔いもなく、以外にサッパリとしていた。まだ10時を少し回っ たところで「今朝は朝食いいですから」と半地下の食堂に寄って間もなく何も考えることなく散歩に出た。さすがに足元からの冷たい道に、いつのまにか馴 染みの道を抜けてHyde Parkの方向に向かっている自分に気がついた。
正月でも開いているアラブ系のよろずやで水を買い、今日は1日Hyde Parkで ボーッとすることにした。日だまりはそれなりに暖かいし、公園をゆっくり歩 く老夫婦を見ているだけで十分だったし。そしてその日、私はSerpentineの橋からそれまでの全てを捨てた。いやSerpentineにその時の全てを沈めた。そし て芝生に仰向けに寝てHyde Parkの空を見る。するとあの音が少し聴こえたような気がした。
そうだ一先ず50までやってみよう。そして50になったらここに戻って来よう。 そしてSerpentineに沈めた時を迎えに来よう。そう思いつつ、その聴こえた音が半音フラットする間に、私はまた寝入ってしまった。気がつくと夕方の空、それでも何か世の中が少し観えた特別なスペースだった。あれから25年が経つ。
【1985 和光】帰国後、博士課程を中退して研究所生活が始まった。その頃の上司の先生方には本当に色んな所、つまりは飲む所につれていってもらった。 料亭もあれば一見さんお断りもあれば雑居ビルの1室でドアに表示のない怪しいお店もあった。ただ大切なことは品を保っていたということで、女性のいるお店でも大抵はキリッと高級そうな着物を着たオーナーが挨拶に出て来た。用心棒のようなバーテンダーもいたが、皆、品が良かった。分からないがかなり 高かったと思う。そしてカラオケだけじゃなくて沢山のことを教わった。
原君ね、これから10年20年、自分がこの業界でどうやってステップアップして行くか、そして自分が世界の中でどういう位置づけにいられるか、そのために は今何をすべきかのビジョンを持っていかなければいけない。だから例えば 40、50になった時だね。そこまでに自分の生活、ステータスがどうなっている かのステップアップは毎日の地道な努力の積み重ね。だからチャンスと賭けは違う。積み重ねが効くのはチャンス、何もないのが賭け。神様は見てるから、 人生バランスが取れてるから、チャンスには微笑み、賭けは突き放す。だから 「切に生きること」だよ。
原君ね、女性との付き合いには色んな人がいる。ここのお店のような人もいれ ば、仕事の付き合いの人もいれば、飲み友達でもいい。でも大切なことは、一 生のパートナーは違うということ。色んな場面で色んないい人はいるにしても、一緒に暮らす一生のパートナーが一番いい人になればいい。そうすると他のいい人はまた距離をおいていい人になるから。で、その一生のパートナーは大人の挨拶が出来る人。年齢という意味ではなくて、年を取れば大人になるだろうからというのはなくて、結局は大人じゃない人はそのレベルの平行移動だから。例えば一人放っておいても大人の挨拶と大人の会話が出来るかどうか、 例えば法事とか相方の仕事場とか初対面の場面で分かる、と言い得て妙だっ た。大体私は昔から年齢に関係なく大人じゃない人は面倒くさくて苦手だったが、確かにこの年になると分かる事が沢山ある。
【2003 すずかけ台】ある人から瀬戸内寂聴さんが人生50代からという話をしていたと聞いて、年をとるって優しくなれていいよね、という話で、私も年を とることにエンジョイしているし、と、後悔しない人生、毎日を大切に、いつまでも純粋な気持ちを忘れずに、確実に年はとってるけど、人の優しさを感じたとき、とても幸せになる、こういう経験が沢山ある人が本当の幸せな人なのかもしれない。健康でありますように、良いことが少し多い年でありますよう に、と。
そこでこの本は、そのままの本で、50前後の女性向けという表向きはいいとして、実はそれよりもっと前の若い人向けかと思う節がある。10年20年30年経っ たらこう思う、と、だから分かるんだったら「少しでも早い内がいい」と。

祈りとは答を求めるものではなく、正常な自分に戻ること
耐え難い苦しみや悩みにも、歩き続けなければならない
他人には観えている相が、当人には観えず、地獄はその時から始まる
人間として勤め得る道、奇蹟は何もおこらない
自分を粗末に扱うと、だらしなさがにじみ出る
年齢をますごとに魅力が浮かぶいい顔にならなければいけない
いつまでも学び続ける豊かな教養が大切

男にはやや食傷気味の前半の女性への恋愛指南から、後半は徐々に人生の核心に迫る

慈悲とは、お返しを求めない無償の愛、愛は賢くなければ得られない
もうこりた、忘己利他、己を忘れ他を利するは慈悲の極み
自分がちゃんとするのが先なので今は人につくせない、と生ぬるいことは言わない
自分だけの幸福は本当の幸福ではない
全ての人が幸せにならない限り、自分に本当の幸福は来ない
他人の幸福のために生き、自分を磨く努力を惜しまない
他人の幸福を先に祈り、煩悩を静めた心を持つ、涅槃、ねはん=ニルバナ

この世は決して楽しい時間だけで終わるものではない
自然の美しさ、月の気配、生かされたという思い
老いとは、物事に感動しなくなり、愕(おどろ)きをなくすこと
感動の数が多いほど、幸福な人生、お金ではない

かなり普通とは違う経験談なので、自分なりの咀嚼(そしゃく)が必要かもし れない。それでも「気をはって生きる、切に生きる、美しさ」は伝わる。私に とって、人生の師はあらゆる所にあって、今もって教わり続けているし、本当 に感謝している。
・・・
ワイングラスを洗っていて、ピシッと割れて指から血が出た
何か来ているのかもしれない
微妙な間、アゴーギク
音の抑揚、ディナーミク
いつもあの音が聴こえるまで目を閉じる
wish there was something real, something true
in this world full of love

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