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2005年06月20日

『Good Luck』(ポプラ社)

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「だめだこりゃ
 ・・・なんてね(後編)」

自慢ではないが、この手のベストセラーをリアルタイムで読んだことがない。
ところが「Good Luck」に至ると、発行からちょうど1年、先月には同著者の「Letters to Me」が発売され、この「Good Luck」もまだヒラ積みされていて、150万部は通過点に過ぎないような、リアルタイムといえばリアルタイムかもしれない。
でも、読んだところで、正直見え見えで、当たり前の展開に読んでいる方が照れてしまう、と照れ隠ししながら、でも時に目からウロコだったりで、それもひた隠しにしながら、しかし、こういう書評を書かせている時点で、この本は私に勝っていたりして、勝ち負けの問題ではないけれど。
そうなったら、あまりウダウダ言わず、キッパリ一先ずウロコのセンテンスをそのまま書き並べて、最近はやりの「声に出して読みたい日本語」じゃなくて「あらすじダイジェスト」的で雰囲気は十分伝わると思う。逆にこれで読んだも同然かもしれない。

まず初っぱなに
「運と幸運とは、まったく別のものなんだ。」
と結論を言われてしまう。これは各章末に出て来る「本章まとめのセンテンス」ではないが、見え見えのストーリー、と斜に構えていた私の背筋を伸ばさせた一言。お〜、そう言い切ると来たか・・・と。よくよく考えてみると、これは「引き」の感覚に通じるものがあって、そう見ると各章末に書かれているセンテンスは、そのほとんど全てが「引き」の一言に集約される。

確かに「運」の確率は皆平等、ところが「幸運」の確率は人によって違う。「運」はころがっているけど、「幸運」は確かにいつも気持ち高い所、少し手の届かない所にある感じ。なので人間も犬も、歩けば当たる「運」と違って、自分の内面からレベルアップして確率を高くしてから得られるのが「幸運」で、おのずと「引き」の意味が違ってくる。

で、その「引き」だが、運や目標に綱(つな)をかけて、自分の方に「引き寄せる」とか、手を振ってこっちを向いてくれるタイミングを待つものではなくて、その綱をたぐって自分をその目標まで「引き上げる」ことにある。運を求めて、成果を求めて、出会いを求めて、「運」は誰にでも来るが、「幸運」は「幸運」にふさわしい用意なくしては得られない、とは「Good Luck」の根幹をなす。
綱を握りながら、綱をたぐりながら、綱を引くには引くが、目標を手元に引っ張って来ると言うより、くいで打たれた目標にロッククライミングのように自分の体を引き上げて行く感じ。
小学校か中学校かの校庭や体育館にあった、体育の授業にいやな思いをした、上に登って行く棒とかロープ(あれ何て言ったけな?)を思い出せば良いかもしれない。これが「引き」の違いで、目標が運良く自分の方に近づいて来ても、所詮、自分のレベルが変らなければ「運」にすぎない。自分が「幸運」のレベルに到達して、初めて「幸運=高運」となる。
なので「運」の確率は皆平等、「幸運」の確率は自らのレベルアップで高くなり、それでおのずと「引き」が強くなるということになる。ただ自分の方に「引き寄せる」のと、自分を「目標に引き上げる」感じ。その違いは大きい。

そう言いたいんだろうな、と思って「Good Luck」のセンテンスを読むとそう読めてくる。
「誰もが幸運を手にしたがるが、自ら追い求めるのはほんのひとにぎり。」
「幸運が訪れないからには、訪れないだけの理由がある。自ら下ごしらえをする必要がある。」(下ごしらえ、以外に妙訳はなかったのかなあ?)
「幸運を作るというのは、つまり、条件を自ら作ることである。」
「幸運のストーリーは、絶対に偶然には訪れない。」
等々。
あとの文章はどう読もうと読者の勝手で、感じ方も人それぞれ。私はひねくれているから、見え見え、と照れ隠し。

ちなみに
「どんなに大変でも、今日できることは今日してしまうこと。」
と言われても、私は最近、燃え尽きないようにSlow Foodならぬ、Slow After Hoursで、明日出来ることは今日やらない、という感じで来まして、だからか、最近占いのランキングが低いのは・・・。

理工系の表現をすれば、データは装置が取るものではなくて人間が取るもの。その「引き」はデータを取れるレベルまで自分を「引き上げる」ことにあったりする。
よく授業やオリエンテーションで学生さんに言うのですが、勉強のできる人、頭の良い人って山ほどいて、でも学校出て、大学出て、実社会に出ると、それって基本的に必要だけど、もっと違うファクターが半分以上を占めたりする。
これは人との出会いとかも同じで、いわゆる「引き」がないとつまらないし、科学技術の業界でもそれがないと致命的だったりで、どの業界でも才能とか努力とかって必要だけど、もちろんその時、その状況によって「引き」の良い時と悪い時の山谷はあれど、「引き」の違いで人生違うのは、この「運」と「幸運」の違いに帰着する感じ。

ついでですが
「欲するばかりでは幸運は手に入らない。ひとつのカギは、人に手をさしのべられる広い心。」は、新作の「Letters to Me」の予告編。

ここで話は前編に戻りますが、晩年、いつも穏やかだった長さん。ベースを弾きながら、ベースだけは分かってくれる、なんて感じで。
俳優としては素人同然だからと、孫みたいな年齢の織田裕二さんに教えを乞う。
そんな長さんでも、覇気のない人とか、人の気持ちを重くする人とか、自分はいつも正しいと思う人とか、そして「引き」の弱い人とか見ると、自分の経験からポツリと独り言を言うんだろうな・・・
「だめだこりゃ・・・なんてね」 と。

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2005年06月13日

『だめだこりゃ』(新潮文庫)

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「だめだこりゃ
 ・・・なんてね(前編)
 NG集で一番笑わせてくれた
 堤真一」

実はマズイことになってしまいました。
ある本の書評のつもりで書き始めていたんですけど(それも見え見えですけど)ところがいつも内容のウラを取る私としては、関係する文献をリファ(読んで確認)することを常としていて(やや自慢…)でも実はミイラ取りがミイラになるじゃなくて、つまりはそのリファレンスにはまってしまったのです。
その、ある本の書評では、まず初めに上のタイトルを思いついて、いかりや長介さんパターンで次いってみよう!と思い、そして長さんの本を読んでいたら、そちらの方に感動してしまったという訳です。

長さんの話は、多分、普通には普通の文章かもしれません。でも業界に身を置くものには「来る」ものがあります。子供の頃「祖母のくれた小遣いを握りしめて、映画館のある街まで4キロの道のりをてくてくと歩いていった」というくだり、「全員集合」はリアルタイムに見たり見なかったりでしたけど、その入念なリハーサル、毎週の生放送、業界のプロはこういう休みのない努力とこういう「引き」があるんだなあと。そして後半、俳優になって、はぐれ刑事よりももっと純情派の和久指導員にさらにグッと「来る」。「最高の親父」そし て「あとがき」までも、この手の本では珍しく、プロの苦労と控え目な性格を一気に読み切りたくさせる。

多分、今の店頭の帯は「踊る大捜査線」の帯になっていると思うけど、私の持っている帯は「こんな人生でした。ひとつ、読んでやってください」とある。長さんらしい…そう書きながら、実は今、気がついたのですが、その帯、2枚重ねになっていた。珍しいレアもの、何か縁を感じる…
ドリフターズとは流れ者とか漂流ものという意味らしく、誤解されようが何があろうが「こんな人生があってもいいのだろう」とさらりと流す。「苦労話も可笑しい話もあったが、そんなものは黙って棺桶に持って行けばいい。せいぜい死ぬ前に、女房と差し向かいで酒でもやりながらポツポツとひとっ節、語ってりゃあ十分…」と。これも長さんらしいが、何か最期を予感している感じで切ない。

何か、その、自分だけ知っている苦悩、誰もが思いあたる瞬間。
私の「だめだこりゃ」には何頁にも折りが入っていて、その一つ一つを文章に起こしたいけど、やめときます。何か説明すれば説明したでやぼったくなりそうで。
そこで、そのある本の書評用に書いていた文章の前半を、この長さんに捧げます。そしてその後半を来週に続けることにします。たまにはそんな構成もいいかもしれない、と思わせる、これも長さんの人柄かもしれません。

・・・前編・・・
自慢ではないが、この手の月9連ドラをリアルタイムで見たことがない。
ただ私は、ブームが去ってからマイブームにするという時間差攻撃を得意としていて、最終回にそのタイトルの意味が分かる「HERO」も家にビデオが残っていたからで、そのストーリーのリズム感で一時期一気に見てしまったことがある。最終回は36.8%の視聴率をマーク、瞬間最高は40.6%だそうで、うちも少しはそこに貢献していたのかもしれない。
キムタクというよりは、私としては松たか子が要チェックだったですけど、大塚寧々、勝村君、阿部ちゃん、渡る世間の角野卓造とか、役どころに憎い「引き」の演出が秀でていた感じがして、名前は知らないけど、あのバー「St.George's Tavern」のマスターもいい味を出していた。
一応、宇多田ヒカルの「Can You Keep A Secret ?」も必需品で購入しました。

ところが「Good Luck」に至ると、その時期、家に帰る時間が早かったのか、割とリアルタイムだったりで、一先ず、先に山下達郎の「Ride on Time」のシングルカットを買って気分を盛り上げていた。
いやいや、そうだ、日曜劇場だったからだ。だったから、毎週見てたんだ。
これもキムタクというよりは(でもこのキムタクはキムタクっぽくて良かったけど)私としては、ベースマンの長さんが、話に聞く長さんの親父さんそのもののような味を出していて気に入っていた。(それで一時期ラガーばかり飲んでいた)
そしてあの弟とユンソナちゃん、本当のスチワーデスにいたらまずい黒木瞳、ありがち柴咲コウ、あれから写真に走った内山理名、NG集で一番笑わせてくれた堤真一、バシバシの内藤ジェーン竹中直人、段田安則さん、そうそう安住さんもいましたね。
いや、何かその「Good Luck」というキザッぽい機内アナウンスが、正直見え見えで、でも時に目からウロコだったりで、飛行機に乗った時の非日常性に拍車をかける感じで、中々良かったというところで最終回は37.6%をマーク。
で、こういう視聴率という「引き」も俳優やスタッフの「引き」の相乗効果だったりで、実は私としては長さんの押さえた演技に充分「引き」を感じていました。

ここまで来ると次に何が出て来るか見え見えかもしれませんが、いつものパターンですが、長さんであれば、ここはもちろん
「んじゃ、次いってみよう!」
となる訳です。
(次週につづく)

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2005年06月06日

『永遠の夏休み』(ポプラ社)

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「なぜフーコーなのか
 脈絡のない話
 東京物語から」

私の大学時代の専攻は有機材料工学と言って物理でも化学でもなく、今で言う interdisciplinary = 学際領域の走りでした。他専攻の授業を取る自由度もあ り、私も生物系の専攻に行って生物実験の単位を取ったりで、かと言えば、倫理学や日本文学の授業とかにはまったりで、クラブが忙しいのに結構飛び回っていました。その最たるものが、建築科の授業で、スチワート先生といって全 部英語の授業だったのですが「ル・コルビジエとモダニズム」「バウハウスの 線」「今なぜフーコーなのか(あっこれは倫理学だった)」とかレポートは散 々だったのですが結構専門外のハイパーな内容にはまり、スチワート先生に 「君どこから来てるの?」とか研究室にお邪魔して雑談したり、ホームパーテ ィに誘われたりで結構親しくさせてもらいました。

ル・コルビジエは、20世紀の近代建築の4大巨匠の一人と言われていますが、 その作品は日本では一つだけ見る事ができます。それが上野の西洋美術館で す。(最近「東京人」に特集がありました)実は美術館めぐりというのは、作品群を見るのもそうですが、その建築空間に身を置く、というのも気分で、何か人目につかないところでちょっと怪しげにゆっくり、みたいな感じで結構時間をつぶしてしまいます。原美術館の中庭とか、伊香保のアークのテラスとか、へたな喫茶店よりもよっぽどいい、何も話さなくても、本読んでるだけでも、遠くを見てるだけでも通じる、みたいな。
http://www.haramuseum.or.jp/

当時はバイトの関係で週に何日か上野毛に行っていましたが、時間調整に多摩美の裏の五島美術館の庭園をぶらぶらして、アンクルサムズのサンドイッチでブランチというお決まりパターンがありました。パチンコ屋に入り、バイトの時間がせまってきてから出続けるというあせりを感じるよりは、よっぽどエセセレブです。
アンクルサムズの無垢の木のいすにこしかけながら、「俺って、絵本とか子供向けの本書こうかな」とか言って、原稿書いていた時期があります。「小説とかって無理だから、子供向けの本、それも教訓的、説明的でなくて」とか生意気ふいて。和風の五島美術館の散策とは全く脈絡のない話です。
そんなこんなで、やなせたかしの「詩とメルヘン」に投稿したりで、かなり書き込んだ時期もありましたが、修論とかD論(博士論文)とかとどっちが真剣だったかって、もちろん後者です。
でも、その時、絶対使いたくないセンテンスは「大人になりたくない」でした。勿論そんなセンテンス、修論D論には書けません。

とは言え、それ以来、もう子供の本とかからはかなり離れていたのですが、ひょんなことから、この「永遠の夏休み」を読むことになりました。
それはうちの子が学校に提出する日記帳からでした。
・・・
「永遠の夏休み」を図書室からかりてきたら「私にも読ませてよ」といったので、かしてあげました。母は読んでいる途中に泣いていました。「こんな素敵な本をよく見つけられたね、大ヒットだよ」といっていました。
・・・
それから、このセンテンスがどうしても気になって、結局は買って、一気に読み切ると、久々にアンクルサムズで書いていた原稿のことを思い出しました。

実はこの「永遠の夏休み」には「大人になりたくない」という、モロそのままの章があって、「またかよ」とか思いながら読み進む内に、山を登る子供達、嵐のシーン、そして遭難した友達のリュックを見つけるシーン、と映画の絵コンテを見る感じで目頭が熱くなって、えっ?これって感動?とか、顔をあげて日常に戻るのに数秒を要する自分がいそうでした。一気に読み切るという、映画館と同じく日常から離れることが大切ですけど。

小学生を対象とした文学は教訓的、説明的なので、そんな部分を排除して表現できないか、とストラグルしたものでした。この「永遠の夏休み」も最後に説明的な内容が出てきます。また「大人になってもいいんだよ」という話も出て来ます。でももしかして、俺って若かったのかな、説明してあげていいんだ、と素直に受け入れられる。こりゃプロは違うな、というところです。

私の友人で、夜のニュース番組でビデオ編集しているやつとは、昔から、いつかは「映画つくろうぜ」と言っていた仲で、彼は医学部〜文学部を経て、映画監督の運転手をしながら、そっちの道に進み、私はというと、そういう意味では道を外れてきてしまいました。そいつは一時期邦画にはまって、私は小津の映画を見るまでは岩波ホールとかへんに洋画派だったので、地元の商店街の飲 み屋で「おい、コッポラぐらい観ろよ」とか言ったもんです。
でも何か、久々にこの「永遠の夏休み」を持って、また夏休みにでも「映画つくろうぜ」と会いに行こうかと思っています。
「お前、いつから邦画になったんだ?」とか言われそうですが。
そこには「東京物語から」とか無難に答える自分がいそうでした。

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