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2011年03月27日

『文学のレッスン』丸谷才一(新潮社)

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「文学の組み換えのために」

1980年代頃から、日本の文芸批評では「近代文学の終わり」が公然と指摘されるようになった。日本社会の大衆化・メディア化が進むなかで、明治以来の文学世界――本書の言い方を借りれば「安下宿に住んでいる文学青年とその延長にある人びとの視野にあるだけの世界」――はややもすれば文壇のお座敷芸に近づき、社会的影響力を失っていったのである。そして、その退潮に伴って、日本文化の母胎も移動した。たとえば、ポップカルチャーに対する昨今の関心の高まりは、日本近代文学の対象領域の狭さに対する、一種の反動とも捉えられるだろう。特に現代の漫画は、「安下宿の文学青年」から遠く離れて社会風俗を貪欲に組み込むことによって、一種の教養的ジャンルとしての性格を持つに到っている。

さて、丸谷才一氏は早くから、日本の近代文学――特に私小説――の貧しさから脱したところで言論活動を展開してきた、珍しいタイプの批評家である。その際に、彼は特に和歌の豊かな蓄積に向かう。さらに、特筆すべきは、丸谷氏が同時に世評高い小説家でもあることだ。日本近代文学の狭さを指摘するだけでなく、自らの文学観を巧みに「実演」してみせること。その両面性が、丸谷氏に独自のポジションを与えている。

本書では、その多面的な活動の基盤にある丸谷氏の文学観が、惜しげもなく披露されている。湯川豊氏を聞き手に、丸谷氏はそこで、長篇小説、短篇小説、詩、歴史、批評、エッセイ、戯曲といった文学の諸ジャンルを縦横無尽に語り尽す。その年齢(1925年生まれ)を考えれば、まさに驚異的な知的体力である。

たとえば、長篇小説は終わったと言われながらも、現代にまでその命脈を保っている。丸谷氏はその理由として、ジョイス、プルーストからラテンアメリカ文学を手がかりに、長篇小説が多くの様式を詰め込めるジャンルとして再生されたことを挙げる。他方、ポオやボルヘスら「知的な操作」を備えた南北アメリカ大陸の短篇小説に対して、日本の短篇小説は村上春樹がそうであるように、一種の「童話」としての作品を育てた。さらには、イギリスの伝記文学には、頑丈な社会に埋め込まれた人間像を描き出すことに精を出し、独自の発展を遂げている……。本書を読めば、この世界にいかに多くの文学的な「型」が存在するか、そしてそれが地域によっていかに異なる適応を遂げたかが了解されるだろう。そして、こうした「型」への意識は、多様性の向こう側へと突き抜けるために、文学に最も必要な事柄の一つなのである。

翻って言えば、現在の日本は地震、およびそれに続く津波と原発事故の連鎖のために騒然としている。その圧倒的な現実を前にすれば、文学の言葉は、どうしても色褪せざるを得ない。とはいえ、災害の試練からいかに回復のストーリーを生み出せるかという問題は、21世紀初頭の世界が「大規模災害の時代」であったことを考え合わせれば、必ずしも日本だけに限らず、今や人類に共通の関心事になっているとも言えるだろう。思えば、20世紀の文学は権力との闘いによって彩られた。しかし、今日の文学は、具体的な「敵」の存在しない状態で、いかにダメージを克服し立ち直るかという「復興期の精神」(花田清輝)の手助けをしなければならない。

丸谷氏はかつて『忠臣蔵』に御霊信仰とカーニバル性を見出したが、敗者を鎮めるための祝祭的な性格を備えた文学は、確かに日本には伏流水のように流れているようにも思われる。深刻なダメージを受けた国土をもう一度肯定するために、過去の日本人が、あるいは人類が何を書いてきたのかは、改めて検討される価値があるだろう。そう考えると、本書をはじめ丸谷氏の著作は、確かに、今後の文学の組み換えのための「レッスン」になり得るはずである。


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2011年03月16日

『アンフォルム:無形なものの事典』イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス(月曜社)

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「絵画の水平性とその先」

本書は、二人の美術批評家(ロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボワ)が1996年にパリのポンピドゥー・センターで組織した展覧会のカタログとして書かれた。しかし、一読して明らかな通り、その内容は通り一遍の概説の域を超えている。著者らはバタイユがかつて示した「アンフォルム」(フォルムを持たないもの)というコンセプトを手がかりに、ポロック、フォンターナ、サイ・トゥオンブリ、ルーシェイ、フォートリエ、スミッソンといった美術家を次々と俎上に載せ、その作品の意義と文脈を再確認していく。この作業はまさに、独自の美術史的パースペクティブの構築として捉えられねばならないだろう。

本書は一種の「辞書」であり、その項目も多岐にわたるが(低級唯物論、等方性、液体語、エントロピー、場末……)、基本的なモチーフはクレメント・グリンバーグのモダニズム的な美術史理解を批判することにある。モダニズムは「見る」という行為そのものを反省的(リフレクティブ)に純化させた。それに対して、著者たちはバタイユのアンフォルム――「デクラス」(階級を落とす&分類を乱す)をもたらす操作――を対置する。すなわち、猥褻なもの・糞便的なものを通じて、モダニズムの純粋視覚性や近代美学の統一性を壊し、西洋美術が暗黙のうちに組み立ててきた価値のヒエラルキーを問いただすこと、それがアンフォルムの戦略なのだ。たとえば、デュシャンが見ることをエロティックな「窃視」に変え、フォンターナが立方体の陶器を「くちゃくちゃ噛まれ、呑み込まれ、吐き出された」かのような汚いマチエールに変えるとき、見かけ上整然とした美学のただ中にバタイユ的な猥褻さやスカトロジーのプログラムが挟み込まれることになる。

注意すべきは、こういう具合にかつての美学を破壊することが、「直立した人間」(ホモ・エレクトス)の像に対する攻撃とも密接に結びついていたことである。観る人間の直立を無意識に前提してきた旧来の絵画の――ひいては旧来の西洋文化全般の――原則に対して、アンフォルムは爆弾を投げ込んだ。その範例として呼び出されるのが、他ならぬジャクソン・ポロックである。キャンバスを立てるのではなく、床に平らに置いたポロックは、垂直方向の重力(=キャンバス上で絵の具が垂れ落ちる)を慎重に排除し、それによって水平的な等方性(=どの方向にも等しく広がる)を絵画に授けた。本書によれば、彼の「ドリップ絵画」はタバコの吸殻や釘や画鋲などのゴミを投げ込むことによって、机よりさらに下方の(=下品な)水平性の軸を際立たせたのである。重力との対決から生まれたフォルム(堅固な「形」)の持つ垂直性を消し去り、これまでの人間学的な絵画史において隠されてきた水平的な領域を解き放つポロックの戦略は、ゴーキーやデ・クーニングの抽象画の技法(垂れ流し)が直立物を前提としていたことと明確な対比をなしていた。

本書の独特のパースペクティブ――なお、その源流にはレオ・スタインバーグの「フラットベット」についての議論がある――では、こうした水平化に意識的に取り組んだ最初の試みとして、ピカソのコラージュが挙げられる。ピカソは、絵画を平面的なエクリチュールとして意識的に扱ったが(=絵画のテーブル化)、ポロック以降の画家はその試みをさらに過激化した。一方で、ウォーホルの1962年の作品《ダンス・ダイアグラム》は、ポロックの技法をコレオグラフィー(舞踏)として再解釈した作品に見立てられる。他方、サイ・トゥオンブリはポロックの平面化の試みを、一種の「落書き」――清潔な画面を汚すという意味で本質的に「猥褻」なもの――として改めてコード化し、抽象美術の純粋性を汚すことを試みるだろう。いずれにせよ、著者たちの提起する「アンフォルム」の戦略は、たんに汚いものや醜悪なものを持ち出すだけではなく、むしろ旧来の西洋絵画を支えていた観念や前提そのものを揺るがすような操作全般を指していた。

もっとも、本書の原書はすでに10年以上前に刊行されており、その内容について今さら門外漢の私がこれ以上詳しく吟味すべきこともない(本書に向けられた数々の批判については、巻末の訳者あとがきで紹介されている)。そこで、文脈を拡張する意味でいささか唐突な連想を許してもらうならば、ここでジェームズ・キャメロン監督の『アバター』を想起しておくのが面白いかもしれない。

『アバター』は、足に障害を持ち、ふだんは車椅子で生活している主人公(ジェイク)が、巨大な身体を持ち、大地を自在に駆け回る異星人・ナヴィ族に同化する話である。その際、ジェイクは特殊な装置に横たわり、ナヴィ族に似せた「アバター」と意識を共振させる。かくして、水平的なレベルに自らの身体を閉じ込められた主人公は、テクノロジーの助けを借りて、天に向かって垂直的に伸びる巨人として生まれ変わることができるのだ。最先端のモーション・キャプチャーや、撮影時に考案されたサイマルカム(実写映像にリアルタイムでCGを合成できるカメラ)などを通じて、キャメロンは身体の動きのデータそれ自体をピクチャーの素材に変え、この巨人に生命を吹き込んだ。

現象学的に見て、ポロックが机よりもさらに下方の床に向かったことは、確かに、身体の軸から外れ、文化そのものの下層に向かうこと――ベンヤミンふうに言えば、垂直的なキャンバスに直面する人間的なペインティングを、記号操作的で水平的なグラフィック(素描)へと変換すること――を意味するだろう。それに対して、キャメロンの欲望と技術は、精巧なコンピュータ・“グラフィックス”を通じて、精悍で、また一目見て忘れられない印象的な青色を纏ったキャラクターを、垂直方向に立ち上げてみせた。『アバター』には、20世紀以降の芸術から失われて久しい、技術的な「完全性」への意志が高らかに謳い上げられているが、その背後には、水平性から再び垂直性を、つまりグラフィックの累積から華麗な(擬似)ペインティングを文字通り「立ち上げ」ようとする再コード化の動機を見出すことができる(ここで、映画のスクリーンそれ自体が、地面に対して垂直に屹立するものだということも、改めて強調しておいていいだろう)。

翻訳者あとがきでも言われるように、本書は徹底して、構造主義的な立場から記述が進められる。構造に固有の強制によって、意味の分配がたえず決定されるということ、著者たちはその理論的前提の上で、現代アートの「アンフォルム」がいかにその構造をずらしたかを論じる。しかし、私たちは、そうした「アンフォルム」の欲望の次のステージで何が起きつつあるのかを考えていくべきだろう。20世紀後半の実験的アーティストたちが、絵画を水平化し、旧来の分類体系をかき乱し、視覚的純粋さに身体的不純さを忍び込ませてきたのだとして、今や最先端の3D映画においては新たな垂直性/新たなフォルム(=象徴的なキャラクター)のイメージが立ち上げられる――とすれば、アンフォルムとフォルム、水平性と垂直性のあいだの文化的関係は、今ちょうど結び直されている最中なのかもしれない。本書の知見は、新しい視覚文化の到来の意味を考える上でも、有益な示唆に富んでいるのだ。


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