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2010年12月01日

『切りとれ、あの祈る手を――<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社)

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「情報と文学の関係」


著者の佐々木中氏は『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』(2008年)という大部の思想書で、注目を集めた。本書でも特にルジャンドルが重要な導きの糸となっているものの、主題はあくまで「文学」に据えられている。

では、佐々木氏の文学観はどのあたりにあるのか。彼の語りは一種憑依型で、独特のリズムがあるが、言わんとすることは比較的単純である。すなわち、無味乾燥な「情報」の摂取にまで切り詰められた読書行為を、徹底して身体的で崇高なものとして捉え返すこと、これである。佐々木氏にとって、それはほとんど、読めないテクスト(聖典)を読み、しかも書き換えるという逆説的行為に近い。ゆえに、文盲であったムハンマド、読むことを「祈りであり瞑想であり試練である」といったルターが高く評価される。あるいは、ダンスや音楽を通じた「革命」が志される。

逆に、本書では、「情報」に対する攻撃が惜しまれない。佐々木氏は、ルジャンドルの言う11~13世紀の「中世解釈者革命」が、すでに情報理論を先取りしていたと見なした上で、こう述べる。

「すべて」が情報である、だなんて、もう八〇〇年も延々やっているわけですね。それがみんな新しいと思っているわけでしょう。滑稽です。もうデータベースなんてうんざりなんですよ。そんなもの面白くも何ともない。八〇〇年前の革命に縋りつづけようだなんて、一体反動なのはどちらなのか。ここから何も変化はなく、ここから脱出する術はない、と。そんなことは無い。ありえない。創り出したのが人間なら、われわれ人間はそこから抜け出すことだって出来るはずだ。必ず、必ずね。(159頁)

もっとも、こうした議論の運びに対して、僕にはいくつか異論もある。それはもっぱら、「情報」についての佐々木氏の理解、および彼の歴史観に関わっている。

そもそも、ルジャンドルがカントロヴィッチらを参照しつつ「中世解釈者革命」の意義を強調するのは、その時期に教会法が古代のローマ法を発見したことによって、いわば「神なしで済ませる法学的な規範体系」が設立されたためである。こうした教会法とローマ法の結婚は、正統性や規範性にまつわるドグマティックな言説を豊かに繁殖させた。ルジャンドルによれば、西洋の国家は今なお、中世に成立したこの「ドグマ的構造」の恩恵を蒙っている。

しかしながら、「マネジメント」が優勢になった今日の社会は、正統性や規範性の言説をことさら忘れようとする傾向がある。したがって、ルジャンドルは、いかに西洋の国家理論が「中世解釈者革命」に負っているかを、改めて思い出させようとするのだ。これは基本的には、ハイデッガーの設定した問題の延長上に位置すると言ってよい。ハイデッガーは、「制御の学」であるサイバネティックスの勃興を哲学の脅威として捉えた。そして、その脅威に対抗するために、彼は古代ギリシアにまで遡る。同じように、ルジャンドルは、ひとびとの行為を規範性抜きに制御する「マネジメント」を、思想の脅威として捉える。そのために、ルジャンドルは中世以降の儀礼的・演劇的な国家観を文献学的に記述し直そうと試みている。要するに、ハイデッガーやルジャンドルは、「サイバネティックス」や「マネジメント」を20世紀の新しい課題として理解し、それへの対応を迫られていたのだ。

それに対して、佐々木氏は「情報化」のインパクトを十分に理解しているとは言い難い。たとえば、先ほどの引用箇所は(それと明言されてはいないものの)、明らかに東浩紀氏の『動物化するポストモダン』への批判である。しかし、中世とポストモダンを短絡させた上でまとめて否定するのは慎重さが欠けていると言わざるを得ない(それに、中世以来の規範性/正統性の「演出」をポジティヴに評価するルジャンドルの議論とも対立する)。

そもそも、中世においては、テクストを読める者も書ける者も絶対的に少なかった。つまり、リテラシー能力それ自体が特権的なものであった。ゆえに、その法学データベースにアクセスできる人間も限られていた。他方、20世紀に入ると、各国で識字率が上昇し(これは本書の一つのテーマでもある)、言葉やイメージの消費が拡大する。だからこそ、たとえば日本のオタクたちは自分たちのデータベースを構築し、コンテクストを限定することによって、拡散した情報にもう一度意味を与えようと試みてきた。一部の特権的な階層が情報を独占することができなくなり、発信の場が拡散したがゆえに、コミュニケーションを再度束ねる基地=データベースが必要とされるのだ。したがって、中世の法学データベースとポストモダンの大衆化・電子化したデータベースが仮に外見上似ていたとしても、その社会的背景や機能はほとんど正反対である。

思想的に「情報」の問題がせり上がるのは、こうした時代的必然性がある。だからこそ、ハイデッガーはサイバネティックスの台頭に怯え、それを排除せざるを得なかった。この怯えは、情報化や大衆化のなかで、哲学がもはや世界に意味を与えることができなくなるのではないかという懐疑と深く結びついている。ハイデッガーに続くフーコーやドゥルーズ&ガタリらが、狭義の哲学的言説の「外」に乗り出していった理由の一つも、その懐疑に求められるだろう。何にしても、こうした問題意識は、中世には(あるいは19世紀にも)存在し得ない。

文学もまた同様である。20世紀中葉以降の作家は、19世紀の大作家――ドストエフスキーであれフローベールであれ――とは、根本的に異なる書き方を発明しなければならなかった。その際に鍵となるのも、やはり情報の問題である。情報の概念がなければ、ナボコフもボルヘスもピンチョンもバロウズも、バラードもディックもギブソンもイーガンも、あるいはメタフィクションもマジック・リアリズムも理解することはできない。彼らは、情報の概念の台頭を、個人の好き嫌いでどうこうなる問題とは思っていなかった。

たとえば、ボルヘス的メタフィクションは、「作家はあらかじめ存在するテクストの注釈者である」というコンセプトに基づいている。かつてジョン・バースが“The Literature of Exhaustion”で述べたように、ボルヘスのコンセプトは「インターメディアの芸術」としての側面を持っていたと言えよう。架空の書物の注釈を書いたボルヘスは、いかなるテクストもメディア上の伝承のなかで手垢のついた情報にすぎない、という状況そのものをカリカチュア的に描いてみせたのだ。それは当然、ルターやムハンマドによる唯一絶対の「聖典」の読書行為からは遙かに隔たったところにある。

あるいはマジック・リアリズムは、中産階級の自意識や芸術観に依存した近代文学の限界を浮かび上がらせた。複雑で多様な世界を把握するのに、もはや旧来の読書人=穏健な市民の視線は役に立たなくなった。ゆえに、ガルシア・マルケスやレイナルド・アレナスは、19世紀の文学には決して出てこないようなマージナルな登場人物を通じて、情報を「魔術的」に再構成することを狙ったのである(ついでに言えば、こういう企図は、異星人や未来人、非人間を扱ってきたSFとも共振するものだろうし、日本のキャラクター文化とも無縁ではない)。マジック・リアリズムもまた、「芸術を統制する芸術家」(バース)への不信を反映させたインターメディア的な文学現象であった。

いずれにせよ、いかなる文学作品も、裸の状態で読まれることはあり得ない。20世紀後半の先鋭な文学的アイディアが「インターメディア」と「情報化」の条件と格闘するなかで生み出されたこと、そして21世紀の社会もその条件の延長線上にあるということは、改めて思い出しておいていいだろう。佐々木氏が言うように、文学そのものが「終わる」ことは当分ないだろうが、文学を構成する要素やアイディアの「モンタージュ」(ルジャンドル)は時代に応じて変質し得る。僕たちは、その変質をどう評価するかに頭を使わなければならない。

おそらく本書は、文壇には好意的に受け入れられるだろう。「文学の勝利」を高らかに謳い上げているのだから。そして、情報の世界に背を向けていいと言っているのだから。とはいえ、その「勝利宣言」は20世紀に積み重ねられてきたさまざまな文学的実験の背景を、ことごとく無視したところで述べられている。むろん、佐々木氏一人が「反動」に走るのは一向に構わないし、読者がその語り口に耽溺するのも自由だ。だが、作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。


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