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2010年10月23日

『Pictures for Use and Pleasure: Vernacular Painting in High Qing China』James Cahill(University of California Press)

Pictures for Use and Pleasure: Vernacular Painting in High Qing China →bookwebで購入

「中国絵画史を書き換える画期的な著作」

欧米の中国美術史研究は、ここ二〇年ほどのあいだに瞠目すべき成果を挙げた。巫鴻(Wu Hung)、クレイグ・クルナス(Craig Clunas)、ロータ・レダローゼ(Lothar Ledderose)、白謙慎(Bai Qianshen)といった学者が次々と斬新な研究を発表し、中国の過去の書画や造形芸術の見方を大きく変えている。もし読者の皆さんが、中国の美術を古臭い、一部の好事家だけのものだと考えているのならば――あるいは逆に、中国と言えば「バブルに踊るアート新興国」というイメージしかお持ちでないならば――、ぜひ彼らの本を手にとってもらいたい。そこで示される論理の新鮮さに驚かされるだろう。

さて、本書もまた、旧来の絵画史のパラダイムを書き換える画期的な著作である。前著The Lyric Journeyで、中国と日本(特に与謝蕪村)の詩画を論じた著者のジェームズ・ケーヒル――1926年生まれのヴェテランの美術史家――は、今回はうってかわって、中国のきわめて世俗的な絵画、しかも艶めかしい女性たちを描いた「美人画」を主題に据えた。この美人画の伝統は、学術的には長らく打ち捨てられており、(楊伯達など少数の例外を除き)実質的な研究者がほとんど存在しない。ケーヒルはこの前人未踏の領野に果敢にチャレンジし、新しい絵画史を構成してみせたのである。

特に、本書の第一章では、董其昌から王時敏に連なる正統的な絵画史のラインに対して、顧見龍(1606-1688?)という蘇州の虎丘に住んだ画家が対置される。「顧の絵画は王の作品と同じ基準で判断されることはなく、王よりも遥かに下に置かれた。彼らは(両者ともに同意してくれるだろうが)意図においても機能においても異なる、別種の絵画を表現したのである」(p.11-12)。本書には多くのマイナーな画家の名前が挙げられていくが、事実上の「主人公」は、この顧見龍だと言ってよい。

顧見龍らの美人画の背景には、まず都市部の商業主義の広がりがある。絵の新しい消費層として「女性」が出てきたことも相俟って(他方、董其昌が「女性の前で書画を開くこと」を禁じたのは象徴的である)、非常に細やかで、また色彩豊かな室内装飾が絵画の素材として採用されるようになっていく。と同時に、康熙・雍正帝の下で集団制作に当たっていた「南匠」と呼ばれる画家――顧見龍や徐玫――が、宮廷(北京)と都市(南方の諸都市)を行き来することによって、美人画の技術とイメージが文化的・空間的断絶を乗り越えて定着するのに役立った。かくして、彼らの描く美人画は、年画から誕生日や結婚の贈物、さらには売春宿のバルコニーで微笑む娼婦(本書の表紙の絵)から、エロティックなヌードに到るまで、実に幅広いテーマを持つことになったのである。

こういう具合に、柔らかく艶やかであると同時に、生活様式と密接に結びついた美人画からは、江戸時代の絵画が思い出されるかもしれない。実のところ、ケーヒルはたびたび、中国の世俗的な美人画を日本の風俗画や浮世絵になぞらえている。その類似性は、さまざまなレベルで言える。たとえば、タイモン・スクリーチが『春画』で論じたように、浮世絵と春画のあいだには明らかに連続性が存在するが、似たようなことは美人画についても当てはまるだろう。本書の記述は、宮廷文化からcoolな美人画を通って、最後にはhotなエロティシズム――といっても、本書で提示されるエロティック・アルバムは日本の春画のように奇形的な性を描くわけではなく、もっと穏健なものだが――に到るアーティスティック(芸術的/技巧的)な連続性を浮き上がらせることになるのだ。

さらに、美人画の出現は決して孤立した現象ではない。もとより、男性優位の儒教的文化圏にあっても、表象レベルでのジェンダー操作は活発に行われていた。特に、本書の時代的射程、すなわち康熙~乾隆年間(1662~1795年)には、男性と女性のジェンダー的境界を撹乱する傑作『紅楼夢』が生まれたことで知られる。ケーヒルは、他ならぬその『紅楼夢』に、美人画を扱ったシーンがあるのに着眼しているが、このことは『紅楼夢』のようなメジャーな作品の背景に、世俗的で艶美なイメージの堆積があったことをうかがわせる。その意味で、美人画というのは、この時代の文化の重要なアクセスポイントでもあるのだ。

いずれにせよ、本書はたいへんな労作である。美人画は、長らく正統的なものと見なされなかったために、欧米に流出したものも数多い(この点も浮世絵と似ている)。それだけに、各所に散らばった絵画を再構成した点だけとっても、その労苦がしのばれる。今後、本書を抜きに、中国美術史を語れないことは確実だろう。


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2010年10月14日

『ロボット兵士の戦争』P・W・シンガー(NHK出版)

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「ロボットのもたらす戦争の革命」

先ごろアカデミー賞作品賞ほか6部門で賞を獲得したキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』は、イラク戦争に従軍する爆弾処理兵を扱った映画である。これまでは戦争映画の主人公というと、前線で闘う兵士か、あるいは後方の作戦室にいる司令官あたりが相場であった。それに対して、ビグローは前線でも司令室でもなく、いわば日常と隣り合わせの「街角の戦場」で活躍する、新しいタイプの英雄を持ってきた。敵をいたずらに殲滅するのではなく、無差別の爆弾テロにおびえる他国の市民を率先して守る主人公、これである。

しかし、映画をご覧になった方は、冒頭の場面、処理兵たちが街角でデカいラジコンのようなロボットを操り、爆弾の有無を確認するシーンがあったのを覚えているだろう。本書の第一章は、まさにそのEOD(爆発物処理)班の片腕として働くロボットを紹介している。今や戦場には、非常に簡単につくれる即席爆発装置(IED)があちこちに仕掛けられていることもあって、その処理に従事するロボットの重要性が急速に上昇しているのだ。『ハート・ロッカー』のロボットは冒頭でいきなりトラブルを起こすが、本書の記述によれば、戦場で使えるロボットはますます多種多様で高機能になっている。

むろん、戦争ロボット(ウォーボット)の役目は、たんに爆発物を処理することだけではない。本書で紙幅が割かれるのは、むしろ戦争における無人システム一般の広がりである。無人装甲ロボットや無人偵察機はもとより、ロボットそのものが一種のデータベースとなり、活動時間・内容の履歴を逐一残しているケースもある。それがフィードバックされて、ロボットの改良や修理がより効率的になるのだ。さらには、市街戦を優位に戦うために、無人ロボットを派遣して、街全体を「デジタル化」するようなことも期待されている。こうなってくると、ロボットはもはや、監視システムの延長というべきだろう。

一般的に言って、技術が発達すればするほど、人間の心理的・身体的な限界が際立ってくる。無人システムの導入は、人間という最大のリスク要因を除去できるという意味で、画期的である。これまでのRMA(軍事革命)は、すべて戦争の「やり方」を変えるものだった。それに対して、ロボットの台頭は「戦争の担い手の能力だけでなく、担い手そのものを変えるのだ」(284頁)。本書では、この変化が法的・倫理的に未知の問題を引き起こすのではないか、という懸念も表明されている。

もともと、著者のP・W・シンガーは『戦争請負会社』や『子ども兵の戦争』などの著作で、戦争の外延があいまいに広がっていることを鋭くえぐり出してきた実務家である。今や国家よりも巨大な軍事企業、あるいは大人よりも危険な子どもが、戦争の担い手として台頭しているのであり、国家が徴発した成人男性どうしが戦闘するという旧来の戦争の常識は壊れつつある。シンガーは、そこにロボットの台頭を付け加えた。実のところ、ロボットは市場で売買できるものでもあって、極端なことを言えば、ある個人やあるグループがロボットを購入し、それを戦場に勝手に送り込むということも不可能ではない。国家は、戦争に参加するべき存在の選択を「独占」(386頁)してきたが、その独占構造はついにほころびを見せ始めている。

こうした状況は、当然私たちの戦争のイメージを変えるだろう。『ハート・ロッカー』は確かに、新しいタイプの戦場と、それに対応する新しい英雄像を明快に提示した。しかし、この映画が「人間の英雄」の活躍を見せるには、実はロボットを冒頭であらかじめ葬っておかねばならなかったのだ。ということは裏返せば、遠からず「人間の出てこない『ハート・ロッカー』」こそが制作されねばならないということだろう。現代の戦場は、急速に変容しているのである。


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