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2010年06月26日

『知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ』R・ファイファー&J・ボンガード(共立出版)

知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ →bookwebで購入

「身体性と結びついた知能」

本書は、知能を「身体性」との関わりから問おうとする研究書である。著者たちは、思考が行われる場を脳の外に、具体的には、身体と環境の接面において見ようとする。彼らによれば、空間的認知や社会的認知はもちろん、(これはジョージ・レイコフの仮説だが)数学の実数や集合の概念さえも、身体性と無縁ではいられない。身体と環境の相互作用抜きでは、実は、認知的なカテゴリも成立し得ないというわけだ。そのような観点から、著者たちは、特に近年のロボティクス(ロボット工学)の知見に目配りしながら、知能の新しいありかを探ろうとしている。

わかりやすいところで言えば、たとえば、昆虫の歩行においては、脚の動きを全面的にコントロールする中枢が存在しない。にもかかわらず、昆虫がスムースに歩くことができるのは、昆虫は、周囲の環境と生体の構造から来る物理的拘束をうまく利用して、脚と胴体の運びを自然と制御しているからだ。身体と環境の自動的な相互作用・調整作用をあてにする、この種の「チープデザイン」が、情報処理のコストを大幅に押し下げている。著者たちが「知能」を見出すのは、まさにこの地点においてである。すなわち、生態学的ニッチの「拘束」を前提にしつつ、それをうまく再利用して多様な形態を創発することが、「知能」の証とされるのだ。石やガスバーナーの炎に知能はなくても、アリや蝶には知能がある。なぜなら、そこには身体と環境の相互作用のなかで、当初の制約をポジティヴに活用する運動が認められるからだ……。このとき「知能」の有無は、たんに計算力の高低によって見定められるものではなくなっている。

現実的に人工知能をつくる際にも、サイモン=ニューウェル流の古典的な人工知能理論に倣って、トップダウン式にあらゆるパターンを想定していては、計算量も膨大になるし、不測の出来事が起こればたやすく停止してしまう(ここからいわゆる「フレーム問題」が導かれる)。それに対して、知能の定義自体を拡張することを通じて、現実的に実現可能性を備えたエージェントを「設計」することが、著者たちの関心事なのだ(そこでは、フレーム問題におけるメタレベルの無限背進という課題が、身体という物理的存在によって制約されることになる)。さらに、この身体性の重視は必然的に、人間、動物、昆虫、ロボット……のあいだの境界を壊すことにもなるので、我々の世界観にとっても重要な意味合いを持っていると言えるだろう。

では、この新たなパラダイムにおいて、優れた「知能」とはどういうものなのだろうか?たとえば、著者たちが考える「知能」には安定性や冗長性の問題、すなわち多少のエラーがあったとしてもうまく修正し対処するという能力が含まれる。その観点から、たとえば身体を「サブシステムの並列状態」として捉えることが可能となるだろう。身体は、視覚や触覚が相互に機能的にオーヴァーラップしているので――よってたんなる分散状態ではない――、その異なる感覚どうしの組み合わせによって新しい未知のシチュエーションにも十分に対処することができる(120頁)。早い話が、新しい状況において、ある部分がダメになっても、別の部分で替えがきくことが、知能にとって重要なのである。

僕はこのくだりを読んで、二人の思想家を思い出した。一人は、かつて「ツリー」に対して「セミ・ラティス」を称揚した建築家クリストファー・アレグザンダーである。アレグザンダーもまた、「オーヴァーラップ」がそこかしこで生じている構造を評価した。ツリー構造は、超越的な一点に他のすべての点が繋留されるので、中枢にダメージが生じればすべてがダメになるし、柔軟性にも乏しい。しかし、セミ・ラティス構造においては、ある要素はつねに複数の集合に所属しているので、どこかにエラーが生じても全体は何とか維持されるだろう。こうしたオーヴァーラップを重視する点で、アレグザンダーの言うセミ・ラティスは、たんなるカオスや自然生成を意味しない。それはむしろ、ツリーとは異なる構成的デザインを推奨する原理である。自然と人工の「あいだ」を志向する態度と言ってもよい。

もう一人は、GUIの父アラン・ケイの教育論である。従来のピアジェ流の心理学で言えば、幼児における「見る」段階から「シンボル」段階への移行は直線的で、一度成長が完了すれば、古い段階は用済みということになる。それに対して、アラン・ケイの議論では、ある段階から次の段階への移行と見えるものは、たんに力点が変わった結果にすぎない。この議論では、いくつかの段階が直線的に並ぶのではなく、むしろ諸段階が並列化され、局面に応じてそのつど支配的な感覚が変わるようなものとして捉えられている。アラン・ケイはこうした認識を、コンピュータと教育の問題に結びつけた。

むろん、以上のアレグザンダーやアラン・ケイの議論は、ロボティクスと直接の関わりはない。しかし、いずれも確実性よりは信頼性を――言い換えれば、理性的には計算不可能な状況を、進化のプロセスのなかで適当に再配置=再結合してやり過ごすことを――志向するところに、ある共通項を有している。ここには、一つの認識(エピステーメー)の雛形があると言ってもいいだろう。本書が興味深いのは、人工知能の問題を手がかりにして、まさにその認識の型が示されていることである。

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