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2010年03月26日

『出口王仁三郎 帝国の時代のカリスマ』ナンシー・K・ストーカー(原書房)

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「起業家としての宗教家」

日本では、ベンチャー起業家はしばしば宗教家のように、つまり熱狂的な支持を集めるが、同時にきわめてうさんくさい存在であるように見られている。しかし、本書が示すのは、その逆も言えるということである。すなわち、日本の新興宗教の担い手は、まさに「起業家」に近かったのだ。

出口王仁三郎(1871~1948年)と、彼を指導者として擁した大本教は、その後現れた無数の新興宗教の雛形のような存在である。著者ナンシー・ストーカーは、出口王仁三郎の伝記的事実を洗い出しながら、戦前から戦中にかけての大本教の勢力拡大について論じていく。王仁三郎らの思想的基礎には、平田篤胤に遡るいわゆる「新国学」があった。彼らは、伊勢を中心とする明治の新政府において「抹消」(原武史)された、出雲大社を中心とする神道に親しんでいた。そのことが、大本教を西洋化への抵抗と、農本主義的なナショナリズムへと向かわせることになる。と同時に、国家からは危険思想とみなされ、弾圧された。

しかし、それ以上に、ストーカーが強調するのは、大本教独特のメディア戦略である。実際、本書で示される図版は、何とも奇妙である。王仁三郎はときに弁財天のコスプレをして、自らの女性性をアピールする。あるいは、身の丈ほどもある巨大な筆を操って書をしたため、芸術の必要性を高らかに訴える。それらはキッチュきわまりない。だが、そのキッチュなコスプレは、それ自体として、天皇(伊勢)以外の神の系譜を奉じる国学的思想と密接に連なっているのだ。そして、そのようなメディア戦略(宗教の消費文化化)が、大本教の勢力拡大に資することになる。

さらに大本教は、国粋的であったにもかかわらず、後にはエスペラント語の普及を日本で最も強く支持する団体となる。土着的な愛国主義とインターナショナルなエキュメニズムが、王仁三郎においてはごちゃごちゃに結びついてしまっているのだ。さらに、京都の綾部および亀岡に拠点を構えた彼らは、都市化に疲弊したひとびとにとっての受け皿にもなり、有機農業をはじめエコロジカルな食生活の重要性を訴えた。だが、そのことは、複製技術を用いた消費者運動というきわめて近代的・都市的なスタイルによってはじめて可能となっている。地域共同体の復興を、ことさらキッチュなメディアや消費文化を通じてやるという構図は、日本では今でも反復されているが、大本教はその先駆けのような存在だと言ってよい。

ストーカーは、そうした諸々の矛盾が、王仁三郎の起業家的なふるまいと人間的魅力のなかに畳み込まれていることを示す。それは言い換えれば、少々の思想的矛盾は、メディア戦略と大衆の支持の前では何ほどでもないということである。このように整理すれば、大本教が、熱狂とうさんくささが同居する現代日本のベンチャー起業家の問題にも通じていることがわかるだろう。新興宗教は、一般的には、ネガティブなイメージを持たれている。しかし、それが20世紀以降、良くも悪くも、日本の社会における重要な運動体となってきたことも疑う余地がない。出口王仁三郎と大本教は、その運動の起点に位置している。それゆえ、本書は広く読まれるべきである。


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2010年03月25日

『ミドルワールド』マーク・ホウ(紀伊國屋書店)

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「休みなきランダムな世界」

本書の表題である「ミドルワールド」は、素粒子レベルのミクロワールド(ナノメートル以下)と、人体や動植物、宇宙といったマクロワールド(ミクロン以上)の中間にあるスケールの領域を指している。具体的には、細胞やウイルス、シャンプーやリンスなどの合成高分子、さらにはポリマー分子から成るゴム樹脂などが、ミドルワールドの住人に数え入れられるだろう。本書で示されるのは、このミドルワールドの物質が、マクロワールドともミクロワールドとも異なる「偶然的」なふるまいを見せるということである。

むろん、古くからエピクロスのように、物体の偶然的な挙動に関心を寄せた思想家もいた。しかし、この領域の科学的探求が本格的に進み出したのは、やはり19世紀に入ってからである。著者マーク・ホウは、このミドルワールドの近代科学上の発見者として、ロバート・ブラウンからアインシュタインに到る軌跡を描き出す。1827年、ブラウンは実験中にたまたま、花粉粒が水滴のなかでランダムに、また休みなくダンスする運動を発見する。このランダムな運動は、当時の主流であったニュートン的な決定論を脅かすものであったが、ブラウンだけではそこに理論的な意味づけを与えることはできなかった。彼の発見が日の目を見るには、アインシュタインが1905年に発表したブラウン運動についての論文を待たなければならない。同年に発表されたアインシュタインの特殊相対性理論や光の量子説には知名度の点で及ばないものの、この論文は、ルートヴィヒ・ボルツマンの分子運動論についての統計学的研究を手がかりにして、分子のランダムウォークを数学的に記述する道を開き、ブラウン運動を理論化することに成功した。かくして、ブラウン運動は最初の発見からおよそ80年後、ようやくはっきりした輪郭を与えられたのである。

ここから著者の話は、より具体的なレベル、すなわち生命の問題に移っていく。生命の基盤となる細胞は、タンパク質、酵素、それにDNAやRNAなど、まさしくミドルワールドのスケールの存在者を含んでいる。このスケールにおいては、当然物体は静止することがなく、たえずブラウン運動による衝突を起こしている。生命活動が可能になるのは、こうしたミドルワールドのダンスを通じて、タンパク質の「折りたたみ」が最良の均衡を見出すことによってである。タンパク質が精密な鎖を手に入れるには、ブラウン運動によって身をよじりながら、安定的なかたちへと折りたたまれなければならない。その際、タンパク質はできるだけ低コストのコースをたどって、自己形成していくことが知られる(「タンパク質のエネルギー地形」の問題)。とはいえ、そこに本質的な脆弱性が存在していることも確かなのであって、ひとたびその「折りたたみ」にエラーが生じると、それがアルツハイマー病やクロイツフェルトヤコブ病の原因になると言われる。いずれにせよ、著者が言うように「生命は、化学の法則とミドルワールドのランダム性との間のものすごく繊細な均衡の結果なのだというのが、ここでの教訓だ」(220頁)。実際、細胞は、ランダム性を受け入れつつも、不規則性をならして偏向させるような装置を備えている。それゆえに、生命体は、不規則なブラウン運動によっても自己崩壊することなく、「繊細な均衡」を実現することができるのだ。

付け加えれば、こうした「小さなもの」のレベルの科学的発見は、人文的な領域にも影響を及ぼしている。周知のように、ミクロワールドにおける素粒子の量子的なゆらぎの研究は、20世紀後半の理論物理学において、飛躍的な発展を遂げた。近年のSFで好まれる並行世界のモチーフも、こちらの量子的なゆらぎに関わる。他方、ミドルワールドにおける分子的なレベルのゆらぎもまた、社会を語る隠喩に着々と組み込まれている。このことは、ブラウン運動に象徴されるランダム性を排除するのではなく、むしろポジティヴに利用するための新しい社会学的知が要求されつつあるということを意味している。

最近でも、理論物理学者のレナード・ムロディナウ『たまたま』(ダイヤモンド社、2009年、原題はThe Drunkard’s Walk)が、まさにブラウン運動を比喩として用いて、私たちの生活にいかにランダム・プロセスが満ちているかを紹介した。あるいはもう少し人文寄りの理論としては、何と言ってもニクラス・ルーマンの社会システム論を挙げておくべきだろう。生体においては、細胞と細胞の外のあいだに物理的な境界線があるがゆえに、細胞内(システム内部)でのランダム性と法則性のあいだに安定的な均衡がもたらされる。それとの類比として、社会においては、そうした明確な境界線のかわりに「観察」が介在し、それによって自己言及的なシステムが確立され、ランダム性と法則性が配合される。「システムは自分自身にとっての規定不可能な未来に直面する。しかしまた、予見不可能な状況に適応するためのストックを蓄積していくことにもなるのである」(『社会の社会』馬場他訳、法政大学出版局、2009年、35頁)。

むろん、生命現象を社会現象に安易に適用することは慎まなければならない。それは往々にして、生命のイメージを借りただけの軽薄な意匠に留まるからだ。そのような弊を避けるためにも、本書で示された類の基礎的な知識は、やはり最低限把握しておく必要があるだろう。いずれにせよ、物体を観察するスケールの変更が、そのまま知に質的な変化をもたらすということ、それは本書の記述からよくうかがい知ることができる。


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2010年03月16日

『水の彼方』田原(講談社)

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「中国新世代の文学」

現代中国が未曾有の経済的発展を遂げていることは、周知の通りである。その発展のなか、文学の領域においても、2000年代以降はこれまでにないタイプの作家が続々と現れてきた。「80後世代」(1980年代生まれの世代)と呼ばれる彼らは、グローバル化と情報化の恩恵を受けた新世代として、中国の文化状況を大きく変えている。ここで言う世代は、日本の世代とは意味合いをかなり異にしている。日本の世代論というのは、なべて心理主義的なものにすぎず、たいして実質がない(だからこそ、○○世代、××世代という即席の名称ばかりが増えていく)。それに対して、中国の「80後」は、前世代とは質的に異なった経験を累積させた世代として捉えられている。そこでは「世代」は、心理というよりは、文化や表現の変化を示すための符牒なのだ。

むろん、一口に80後の「経験」と言っても、その内部の文学的個性はさまざまだが、大きな傾向としてはリアリズムであれファンタジーであれ、何か非常に流体的な世界が好まれるようになっているということが指摘できるだろう。それはさしあたり、中国社会の急速な変化に対応していると考えてよい。平たく言えば、資本主義化する現実社会のそこかしこに穴が開いているのと同様、虚構作品も輪郭があいまい化し、そこかしこに穴が開いているわけだ。

そうした虚構作品の発信者として、ここでは、次の二人の作家に注目しておくのがいいだろう。一人は、今や中国一の富豪作家になった郭敬明(グオ・ジンミン、1983年生)であり、もう一人は本書『水の彼方』の著者である田原(ティエン・ユエン、1985年生)である。

郭敬明は、一言で言えば、ハリウッド的なファンタジーと日本の少女漫画を融合したところで、一種の都市文学を紡いでいる作家である。そのプロットは、たわいないと言えばたわいない。たとえば、都市が膨張するなかで、これまでであれば決して出会わなかったはずのひとびとが出会ってしまい、そこで恋や軋轢が生じる。と同時に、それまで親密だった友人の裏の顔が暴露され、いきなりシリアスな関係に突入することにもなる。こんな具合に、郭敬明の描く少女漫画ふうの主人公は、めまぐるしく変転する関係性の渦中に放り込まれている。それは、見方次第ではほとんど昼ドラ、あるいは韓流ドラマのプロットに近い。ただ、ここで注意すべきは、郭敬明自身が、そのような変転をいわば身をもって生きてしまっていることだろう。彼は、一種の「実業家」として、若者にもなじみやすい出版上の新規な試みを次々と打ち出し、文学の消費のされ方を大きく変えてしまった。そのプロセスではさまざまなスキャンダルも発生し、多くの批判も浴びたが、郭敬明はそれすらも「自己劇化」の素材に変えてしまう。郭敬明の周辺では、まさに虚構に穴が開いているように、現実もさまざまな穴(不安定さ)に満ちており、彼はそれを全面的に享受しているのだ。この二重重ねにこそ、彼の本質がある。

他方、田原もまた10代の頃からミュージシャンとして活躍し、近年は映画にも主演するなど、華やかな活躍を見せている。本書は、その田原による第二作めの小説であり、思春期の少女・陳言(チェン・イエン)を主役とした一種のフェアリー・テイルとして仕上がっている。作品のあちこちには「水」の隠喩がちりばめられ、訳者の泉京鹿が言うように「生物学的な匂い」が漂っている。巻頭には、中国の古典小説『聊斎志異』が引用されつつ、食べてはいけない水草を食べてしまい、幽霊のように水底に隠れ潜んでいる主人公の姿が暗示されている。つまり、陳言は、現実の自分と、幽霊のようになってしまった自分とに引き裂かれているのだ。本書の副題である「double mono」は、まさにその二重性を示している。

実際、生理も始まり、周囲からは性の対象として見られるようになっていく陳言の身体は、大人に向けて確実に成熟している。しかし、陳言はむしろ「水」や「植物」、あるいは「泡」や「魚」といったものに親密な感じを抱いているのであり、最後までそれらから逃れることはできない。この種の「性的身体と自意識の齟齬」というのは、日本では少女漫画において反復されてきた主題だが、田原はその主題を「水」に託すことによって、ある一貫した「気分」を持続させている。実際、水は、世界に否応なく変化をもたらすものでありつつ、同時に陳言という少女にとっては外界から身を守るためのシェルターでもある。世界は変化しつつ変化しない。水の隠喩は、こうした両義性=二重性を示すのにうってつけなのだ。

もっとも、この小説そのものは一編の長い散文詩といった趣なので、何か重厚な物語を期待する読者には向かない。実際、私の目から見ても、田原に限らず、現在の中国の若手文学においては、物語を緊密に構造化するという意志が総じて乏しくなっているようにも思える。このことは、やはり一つの弱点と言わざるを得ないだろう。とはいえ、この小説からは確かに、一つの世代的体験が表現として結晶化しつつある予兆を読み取ることができる。郭敬明が一種の実業家として、現実でも虚構でも、穴の開いた世界を全面的に受け入れているのだとすれば、田原はそうした荒々しい世界に身を晒しつつ、同時にそこから身を守るための物語を紡いでいる(日本ふうに言えば「セカイ系」的だと評してもよい)。郭敬明と田原の織りなすこの振幅が、次なる表現の下地になっていくことは、おそらく間違いないだろう。

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2010年03月15日

『格安エアラインで世界一周』下川裕治(新潮文庫)

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「LCCの台頭」

本書はいわゆるLCC(ローコストキャリア)を乗り継いで、地球を一周してみるという趣旨の旅行記である。LCCはここ30年ほどのあいだに出てきた、格安を売りにする航空会社の総称で、サービスや人件費を徹底して削減することによって、驚くほど安値の航空運賃を実現したことで知られる。日本でもJALの騒動があった折り、旧態依然とした日本の航空事情を指摘するのに、しばしばこのLCCが引き合いに出された。

著者の下川氏は、そのLCCが現実をどう変化させ、またひとびとにどう受け入れられているかを、身をもって体験していく。たとえば、LCCの飛行機は空港の滞在時間をできるだけ減らすために、メインターミナルから離れた場所に着陸することが多い。そして、ほんの僅かの間をおいて、すぐに次の乗客を載せて離陸するのだ。その過密なサイクルゆえに、一度アクシデントが生じると、しばしば代替便への振替もままならなくなってしまう。そうしたリスクを負いつつも、下川氏らはノートパソコンを片手に行く先々で野良電波を拾い、インターネットを通じて安い便を探し求めながら、フィリピンからシンガポール、さらにアテネやダブリンを経てニューヨークまで、慌ただしく駆け巡って行く。最終的に20万円そこそこで世界一周してしまう彼らの旅程は、情緒豊かな旅の対極にある。とはいえ、その荒々しさはそれ自体、世界の航空業界の構造を激変させたLCCに似つかわしいものだと言えるだろう。

だが、本書のテーマはそうした経験談には留まらない。本書から浮かび上がってくるのは、インターネットの台頭によって、旅行会社抜きで顧客と航空会社が直接やりとりする時代が本格的に到来したことである。これまでの格安航空券は、あくまで旅行会社の介在によって、ひとびとの手元に届けられた。しかし、インターネットを使ったLCCは、そのような手続きを省略して、個人をいきなり航空会社に繋げてしまう。LCCは特にヨーロッパを中心にシェアを拡大し、ついに東アジアにまで新しい競争原理を持ち込むに到った。下川氏は、まさに1980年代以降の格安航空券の普及に一役買った人物なのだが、その当の下川氏が、今回はインターネット以降の、ある意味ではより過激な価格破壊の現場を直接体験するのだ。彼のこの振幅はそのまま、ここ30年のあいだ、ひとびとが飛行機という乗り物とどう付き合ってきたかという歴史にもなっている。

下川氏と言えば、私は以前『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)を読んで感銘を受けたことがある。日本で2、3ヶ月集中的に働いて、後はバンコクのカオサンで、さしたる目的もなく引きこもって暮らす若者。著者は、そうやって日本を「降りて」しまった彼らを「外こもり」と名づける。成長の夢が途絶えた後、日本社会が実現し損ねた「まったり革命」(宮台真司)の可能性を、外こもりの若者たちはタイに見ていたのだと言ってもいいだろう。むろん、それは半ばは虚像にすぎない。日本の落ちこぼれでもタイ社会なら優位に立てる…というのは甘い考えで、現地企業の採用も厳しさを増しているし、彼ら自身も境遇の不安定さを自覚しているからだ。だが、バンコクのまったりした空気と安い物価は、その矛盾をあいまいに包み込んでしまう。下川氏は、バンコクの若い日本人たちが抱える、このいわば「非現実的な現実感」をつぶさに描き出していた。

こういう具合に、『日本を降りる若者たち』が若者の心理と社会の関係を扱っていたとすれば、今回の本は、いわばその「上空」で展開される荒々しいグローバルな力学が扱われている。その新しい力学は、航空機のシンボリックな意味合いをも変えてしまう。これまでの航空会社というのは、良くも悪くも、国の威信を背負ったナショナルフラッグによって代表されていた。しかし、LCCはむしろ都市と都市を繋ぐ。「LCCは国というしがらみとは無縁の航空会社である。空港の使用料が安く、利用者が多い……つまり採算が見込める都市だけに就航する。シンプルで現金な航空会社なのだ。逆に見れば、LCCが就航する路線は、人の移動が多いということになる」(110頁)。つまり、LCCは、できるだけ多くの人間をできるだけ効率的に運ぶということに特化している。そのことは、ひとびとの地理感覚も確実に変えていくだろう。

たとえば、東アジアを代表するLCCであり、ようやく日本就航も現実味を帯びてきたエアアジアのウェブサイトは、なかなか凄まじい。エアアジアの飛行機は、中国語で言えばまさしく「空中巴士(空中バス)」さながら、バンコク、シンガポール、クアラルンプール、さらに北京、上海はもちろん杭州などの諸都市を、何と四時間のフライトで一万円程度の格安料金(時期によってばらつきはあるが)で繋いでいるのだ。かつて二〇世紀初頭に岡倉天心が「アジアは一つ」と言ったとき、それはあくまで美学的な理想として掲げられていた。しかし、それから百年後の今日、この標語はある面においては物理的に実現され始めているのかもしれない。

本書はJALの経営難が明るみに出る前に刊行された本だが、ナショナルフラッグに象徴される既存の航空会社が相対化され、世界各地でLCCとの棲み分けが模索されていることは、よく理解することができる。いずれにせよ、たんなる物好きの旅行記に留まらない、非常に示唆に富んだルポルタージュだと言えるだろう。

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