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2009年07月06日

『IN』桐野夏生(集英社)

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「『OUT』から『IN』へ」


桐野夏生は、一九九七年に出た『OUT』で大きな注目を集めた。工場の深夜パートに出ている団地の主婦たちが、夫の暴力や介護、貧困でじりじりと心身をすり減らすなか、ほんのささいな偶然からバラバラ殺人の犯人になり、ついにはヤクザまがいの仕事まで請け負うようになる……。そんな筋書きを備えた『OUT』は、それまでノーマルだと思われていた階層にこそ、実は巨大なストレスと不安が集積しているのではないかという問いを内包していた。ノーマライゼーションや包摂のプログラムが内部崩壊しつつあった当時の日本社会の世相を抉り出した作品として、今なお『OUT』は桐野の代表作と呼ぶに相応しい。

その後も桐野は、大筋ではいわゆる「社会派」的なモチーフ、具体的には社会の周縁に弾かれた労働者や、鬱屈と嫉妬を抱えたOLなどを題材にして、多くの長編を発表してきた。そして、そこでもやはり、日常の危うい均衡が崩れ、平凡な主人公がアウトローへと転落していくさまが執拗に描かれていた。こういう明快な疎外論的図式を前提にしながら、喚起力の強い文体を駆使して、新しいタイプの犯罪者の心理構造を描き出すこと。さしあたり、それが桐野の作風だと要約することができるだろう。むろん、その作風は「社会からの落伍者」という一点をもって、立場の違うひとびとをあまりにたやすく結びつけてしまうという嫌いもある。しかし、何にせよ、桐野が日本社会の質的変化に臆せず立ち向かってきた稀なエンターテインメント作家であることは間違いない。

しかし、これまでそういう桐野の作風に慣れ親しんできた読者は、本書を読んで意外な感じを抱くのではないだろうか。本書は「小説についての小説」というスタイルを採っている。具体的には、作家である主人公・鈴木タマキが「緑川未来男」なる作家の『無垢人』という過去のベストセラー小説――しかも、一種の私小説――に秘められた謎を解き明かし、その調査結果を『淫』という作品にまとめあげようとする、そのプロセスだけが記されているのだ。そこでは、従来の社会派的なモチーフは影を潜め、かわりに緑川という作家を取り巻く虚実皮膜の人間模様だけが次々と浮かび上がってくるという仕掛けになっている。『IN』というタイトルに相応しく、タマキは緑川および『無垢人』の内なる秘密にどんどん分け入り、そのプロセスで本当とも嘘ともつかない言葉を拾い上げては、共鳴させていく。かくして本書は、桐野の長編としては例外的に、ある種の内向的な性質を帯びることになるだろう。

特に、本書の強度は、緑川の愛人とされる「○子」というブランクの存在によって高められている(なお、この愛人の存在は、島尾敏雄『死の棘』へのオマージュでもある)。タマキはこの「○子」こそが『無垢人』を解く鍵だと睨み、その正体を探ろうと、関係者へのインタビューや書簡のやりとりを開始する。けれども、それらの情報は、決して「○子」の実像を浮かび上がらせるには到らない。それどころか、かえって、緑川や『無垢人』周辺の謎=幻想を増す結果に終わるだろう。むろん、それこそが桐野の狙いなのである。

『OUT』は、郊外の主婦こそが新しいタイプのアウトローなのだというメッセージを発していた。しかし、『IN』においては、もはやそういう特定の階層は問題にならない。この両作品の筋書きは、タイトル通りまさに正反対になっている。いわば『OUT』が、突発的なaccidentを通じて、平凡な主婦が犯罪者へと(つまり「外」へと)跳躍していく作品だったとすると、『IN』のほうは、架空の小説の周りにさまざまなincident(=ちょっとした出来事)を張り巡らせながら、徐々に内的な想像力の強度を高めていく作品として評することができる。ここには、桐野の新境地があると言ってよいだろう(より厳密には『残虐記』あたりからすでにそういう変化は見られるのだが、『IN』ほど明瞭なものではない)。

だが、それだけではない。本書のポイントはその先にある。ここで注意すべきなのは、桐野が『IN』にさらなる異物を混ぜ込んでいることだ。それは、タマキのかつての担当編集者であり、恋人でもあった阿部青司である。青司はタマキの同志的存在だったのだが、しかしあるきっかけでタマキと別れ、後には文学への興味も失ったうえに、物語中盤であっけなく急死してしまう。かつての桐野なら、その思わぬアクシデントから力強くドラマを語ろうとしただろう。けれども、青司の死は、もはやドラマの起点にはならない。それはむしろ、タマキと青司の関係の有無を言わせぬ「抹殺」を意味している。

むろん、注意深く読めば、タマキが青司の死をも文学に組み込もうとしていることがわかるだろう。「青司が倒れたことで、タマキが書いている「淫」という小説そのものが、今まさに変質しようとしているのだった」(247頁)。しかし、実際のところ、青司の死は、誰にもどうすることのできない自然現象に近くなっている。「自分が書いてきたのは、現実を凌駕するほどの虚構でなくてはならなかった。優れた虚構には現実を変える力があるはずだと、タマキも青司も信じていた。しかし、今、現実は、「青司」の死という、誰にもどうにもできない、絶対的な力を見せて、タマキを捩じ伏せようとしているではないか」(243-244頁)。したがって、タマキは基本的に、彼の死をただ黙って受け入れるしかない。その無力さは、青司が文学から足を洗い、別世界に行ってしまったことと連動している。要するに『IN』のリアリティは、タマキ(幻想にどっぷり浸かった人間)と青司(運不運があらわになった現実を生きる人間)を対立させつつ共存させていることにこそあると言ってよい。

多少踏み込んで言えば、この構図は、現代における「社会的事実」(デュルケム)にも応用が利くだろう。たとえば、日本のインターネットでは、ちょっとしたincidentを利用した無数のコンテンツが創発し(CGMやUGCなどと呼ばれるもの)、相応の規模の支持を集めている。それはネットの外からは無内容の遊戯に見えるだろうが、内的には相応に豊かで細分化したイメージを備えている。マスメディアの提供するリアリティに接しなくとも、現実をカラフルにイメージ化できるということであれば、ネット上のある種惰弱なコンテンツに「豊かさ」を感じる層が出てきても不思議はない。

しかし、そういうある種「お気楽」なゲームの傍らで、政治は摩耗し、経済は低迷し、マスメディアは停滞し、何にせよとてもハッピーとは言い難い空気が漂っている。そこにはもはや頼りになる社会的物語=解答というのはない――それどころか「成功を確約してくれる物語などはない、なぜなら人間は本質的に認知バイアスから逃れられない愚かな生き物なのだから」という懐疑や慎みを持っておくのが、もっとも賢明なリスク回避だということすら言われる(たとえば、最近流行りのナシーム・ニコラス・タレブなど)。たとえ今は幸せな人間でも、ちょっとしたきっかけで簡単に不幸になってしまう。その偶然性や脆弱性を社会が管理することは、ますます難しくなっていると言わざるを得ない。だが、その殺伐とした世界とは別に、incidentの領域が日々カラフルに彩られていることも事実なのである。

私は先ほど、『IN』が社会派的なモチーフから離脱したと書いた。確かに本書には、時事的なネタはほとんど出てこないし、話題も文壇的なものに限られている。しかし、より正確には、その閉鎖性こそが『IN』を《ある種の》現実の位相に向けて開いているのではないか。現代人の生活世界においては、幻想は幻想で勝手にたくましく成長していくし(incidentの領域)、現実は現実でときに無情な死や失敗をもたらすだろう(accidentの領域)。前者は後者を呑み込もうとするのだが、それはまさに『IN』がそうであるように、完全な成功を収めるには到らない。この両者はあくまで独立の事象であり、つまりは本質的に乖離しているからだ。

そういうわけで、incidentの豊かさとaccidentの残酷さを両立させた本書は、それゆえにまっとうな「社会派」に属しているというのが、私の見立てである(ついでに言えば、これと似た図式は大江健三郎の近作『さようなら、私の本よ!』や『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』とも共通している。大江もまた「妄想の豊かさ」と「現実のショボさ」を乖離的に両立させていた)。現実の事件をルポルタージュ的に描くこと、あるいは事件から直接に幻想を膨らませることだけが「社会派」のミッションではない。むしろ現実の「構造」をシンプルに抉り出すことこそ、社会派の本来の役目なのではなかったか。少なくとも、現代という時代はそのような社会派を求めているのではないか。『OUT』から『IN』に到る桐野の軌跡には、おそらくそのような問いが内包されている。


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