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2009年05月22日

『市場の変相』モハメド・エラリアン(プレジデント社)

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「社会を組み込む市場」


 サブプライムローン問題とそれに続く世界不況については、大量の書籍が刊行されており、もはや汗牛充棟の感もある。そのなかで本書は、不況が本格化する前に着想されたにもかかわらず、現代の金融市場の持つ独特の危うさを鋭く指摘していたことによって、すでに高い評価を得ている。私自身は、昨今の金融問題について専門的な発言をする資格も能力も持たないが、本書は狭義の「経済書」の枠に留まらず、投資の最前線にいる著者の市場観あるいは人間観が伝えられているという意味で、いろいろと考えさせられるところが多かった。

 本書の基本的な主張は、金融市場のグローバル化が新しい「ノイズ」を発生させ、それが投資家や金融専門家の眼を欺き、市場の混乱を招いているということにある。本書ではそのノイズの主な由来として、近年債務国から債権国に転じた新興国の政府系ファンド(SWF)が本格的に国際分散投資に乗り出してきたこと、また、本来リスクを分散させるはずの新型金融商品がかえってリスク要因になってきたことなどが挙げられている。

 前者については、SWFが、利益最大化を狙うのではなく、むしろ安定した資金運用を目指してアメリカ国債を大量に購入し、そのためにFRBにとってもかえって予測不可能な市場の動きを産み出していったことが語られる。新興国の投資行動はすでに市場に影響を及ぼすだけのスケールに達していたにもかかわらず、アメリカはそのことを解せず、市場関係者の当惑を招いた(第1章)。

 他方、後者については、証券化が拡大して投資家の裾野が広がるなか、高リスク商品が野放しにされていったプロセスが詳しく解説されている。投資家は期待収益率を保とうと躍起になるあまり、その高リスクの新型金融商品に手を出し、しかもウォール街もその動きに追随したことから、傷口がどんどん広がっていった(第1章)。エラリアンはそのことを、これまでの先例に倣って「合理的」に動こうとする投資家の心理が、かえって新しい状況の認識を邪魔してしまった例として捉えている。いわゆる「合理的な愚か者」の例だ(第3、4章)。

 こうした事例は、これまで市場の「外」に置かれていたものが、今や無視できないほどに大きな「ノイズ」になってきたことを示している。新興国のファンドや、人間の「感情」あるいは「心理」というのは、市場のメカニズムと無関係ではないばかりか、むしろその重要な一部だと考えねばならない。証券化が進み複雑な金融商品が出てくれば、なおのこと、それらノイズの持つリスクは倍加していくだろう。したがって、今後の投資家や財政担当者には、その新しい要素をうまく処理することが要求される。

 たとえば、エラリアンにせよ、あるいは彼が言及するナシーム・ニコラス・タレブにせよ、彼ら現代の投資家は一様に、市場での一時的な「成功」を過信することに警鐘を鳴らしている。仮にある投資手法が成功しているとしても、それはしばしば、偶然に歯車が噛み合って生じた「まぐれ」(タレブ)の当たりにすぎず、市場の趨勢が変わればたやすく通用しなくなるだろう。にもかかわらず、ひとびとは一時の「まぐれ」の成功を過信して、高リスクで複雑な商品に手を出し、その結果として巨大な経済的混乱を産み出してしまった。

 エラリアンやタレブが言うように(あるいは最近流行の行動経済学でも言われるように)、人間というのは、かつてうまくいった方針がそれ以降も通用すると勝手に思い込んでしまう生き物である。したがって、たんに情報インフラを整備するだけでは、市場の脆弱さは消えない。なぜなら、人間の感情は往々にして、情報に含まれたシグナルを都合よく無視し、古い枠組みへと還元してしまうようにできているのだから。それゆえ、本書は、まずは思考パターンそのものを変えねばならないということを何度も強調している(「昨日の市場」から「明日の市場」へ)。このことはそれだけ、人間という生き物の「厄介さ」が表立ってきたことを示している。

 さて、こうした市場の社会的レベルへの「拡大」というのは、より広い思想史的文脈に位置づけることもできる。ミシェル・フーコー(『生政治の誕生』)やアルバート・ハーシュマン(『情念の政治経済学』)がそれぞれ明らかにしたように、18世紀以来、市場というシステムに対するひとびとの信頼の「かたち」は度々変化してきた。たとえば18世紀の思想家は、モンテスキューにせよアダム・スミスにせよ、市場でのコミュニケーション(交換)に参画し、利益の追求に勤しむうちに、人間は自然と他者との協調を重んじるようになるであろうという調和的ヴィジョンを抱いていた。彼らにとって、複数の人間の利益追求が交わる市場という場は、無法な「情念passion」を調教し、より安定的で協調的な「感情sentiment」へと変化させることのできる絶好の自生的メカニズム(=見えざる手)だったのである。

 それに対して、特にハイエクに代表される20世紀以降の自由主義は、市場それ自体の調和を盲信するわけではない。市場は、それ単独ではうまく回らないこともありえる(実際、たとえば「恐慌」の可能性は、市場の調和のヴィジョンを壊してしまうだろう)。だが、だからこそ、さまざまな制度や伝統を通じて、市場の不具合・不調和は補正されなければならないと彼ら自由主義者たちは考えるだろう。かくして、市場の傍らで、その不備を埋め合わせてくれるようなメカニズムが要求される。それが、彼らの一部が構想した「市場のための社会」、すなわち「企業社会」のイメージである。企業社会では、国家や人間でさえも、市場=環境の流動性のただなかに組み込まれ、調律されていくことになる。

 エラリアンやタレブが、こうした市場観の直系であるのは見やすい。今や、人間や国家の「向こう側」に市場というパラダイスがあるわけではない。むしろ市場と人間(の感情)は、相互に緊密な乗り入れを起こしている。そして、モンテスキュー=アダム・スミス的な賢い「感情sentiment」ではなく、愚かで騙されやすい「感情」が、ときに市場を不安に陥れるだろう。だからこそ彼ら投資家は、感情をうまくやり過ごし、市場の流動性に合わせてそれを「調律」するための術を繰り返し教えようとしている。私たちが見るべきなのは、現代の市場がかつてなくゆるく、また広く、私たちの生に入り込み、経済的な発展/不安の両方の可能性をつくりだしているということなのであり、エラリアンらの言説はまさにそのフラットさに対応している。逆にIMFのように、先進国のほうばかりに眼を向けた旧来の調整機関では、そのフラットさにうまく対応することができない。

 繰り返せば、私は金融について専門的な知識を持たない。しかし、以上のように本書は、たんなる時事的な経済評論に留まらず、市場という「謎」の行方を考えるうえでも、多くの問いに開かれた書物だと言えるだろう。よろめきながら「拡大」(新興国へ、また新型金融商品へ)を続ける現代の市場に、それでもなお体系的に「適応」することはできるのか。20世紀以来のスパンで見ても、確かに今は「市場の変相」の可能性と限界が、改めて問い直されているように思われる。



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