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2013年03月22日

『PLANETS vol.8』PLANETS編集部(第二次惑星開発委員会 )

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 何ヶ月か前のことです。私は雑誌「ダ・ヴィンチ」に、NHK大河ドラマ「平清盛」の評論が掲載されているのを目にしました。「平清盛」の熱心な視聴者だったこともあって、興味を抱いた私は、読みはじめるやいなや、抑制された、柔らかで、しなやかで、そして強引な文章に絡めとられ、気がつくとリビングに立ちつくしたまま、4ページにも渡ってぎっしりと敷き詰められた活字を嘗めるように読んでいたのでした。

 Twitter上で大きな盛り上がりを見せ、これまで大河ドラマを見なかった世代に多く支持されたのにも関わらず、なぜか失敗という評価をくだされているこのドラマについて熱く語る著者の名は宇野常寛。なんだろう、この人。なぜこんなにも心に浸みこんでくるのだろうと思った私は彼の出生年を見て納得したのでした。1978年。同世代の人間だったのです。とにかく読み終わったとき私は思ったのです。「ついに私たちの時代が来た!」と。

 この気持ちをうまく説明するのは難しいです。しかし、前回も登場していただいた、コテコテ大阪人にして、私と同い年の紀伊国屋書店の社員さんも「イエス!」と叫んでいたので、多分、この感覚は間違ってはいないと思うのです。

 ファミリーコンピューターと共に育ち、アニメや特撮番組を見て青春を過ごし、目にもとまらぬ速さでポケベルを鳴らし、Windows98が発売されるや、PCのある生活に順応し、携帯電話は白黒画面からカラーへ、そしてタッチパネルへと買い替えていった私たち。 YouTubeやニコニコ動画やユーストリームを視聴して、MixiやTwitterやFacebookやLineでありとあらゆる人との間に回路をつなぎ、人類補完計画なみのネットワークをはりめぐらせてきた私たち。

 そんな私たちに向けられる視線はいつも否定的だったように思います。ゲームやアニメやネットは常に「精神の未熟で社会性に乏しい若者が現実逃避に用いる麻薬のような存在」に位置づけられ、日のあたらない〈夜の世界〉へと押しやられてきました。そんな〈夜の世界〉に生きる私たちを、理解しよう、レッテルを貼ろう、カテゴライズしようと、たくさんの本が出版されました。しかしそれらの本で語られることのほとんどは、どこか決定的に本質を違えている。まるでところどころ文字化けした文章を読んでいるような気持ち悪さがある。少なくとも私はずっと思ってきました。

 現代日本を表現する言葉として「失われた20年」という言葉がある。日本は第二次世界大戦後の焼け野原から、もう一度、国を作り直し、そして1970年代の田中角栄の時代に社会や産業の基本システムがおおよその完成を見たと言われている。しかしこうした戦後的社会システムは、国内的にはバブル崩壊により、世界的には冷戦構造の終結により、あらゆる場所で機能しなくなりはじめている。しかしそのオルタナティブとなる新しいシステム、グローバル化時代に適応したポスト戦後的社会システムの構築は未だその青写真すら示されていない。僕たちはこの20年間、ずっと放置されてきた日本のOSを今こそアップデートしなければならない。そしてそのための手がかりは既にこの日本社会の内部にあふれている。それは「市民社会」(政治)や「ものづくり」(経済)といった〈昼の世界〉には存在しない。少なくともこれまでは社会的には日の目を見ることのなかった〈夜の世界〉――この20年で奇形的な発展を見せたサブカルチャーやインターネットの世界にこそ存在する。僕たちは、そう信じているのだ。

 宇野氏はこのような言葉で、『PLANETS vol.8』の巻頭を飾っています。彼のこの主張に対しては賛否両論あるでしょう。私だって、この雑誌のすべての評論に「イエス!」と思ったわけではありません。しかし、「ずっと放置されてきた日本のOSをアップデートしなければならない」というその言葉は、私がずっと抱えていた気持ち悪さの原因を、まるで二日酔いの朝に飲むソルマックのように、見事に氷解してみせたのでした。そうか。OSが違うのだ。古いOSで新しいアプリケーションが読みこめないのと同じなのだと。

 ここで話は冒頭の「平清盛」論に戻ります。「ダ・ヴィンチ」誌上で、宇野氏は、大河ドラマ「平清盛」において、平安末期という舞台が「OSがとっくに時代遅れになっている」「いくら新しいアプリケーションを導入しても、まったく機能しない」社会、つまり現代の日本に重ねられて設定されていると論じています。そのOSを変える戦いに挑むのが「俺は海賊王になる!」という〈夜の住人〉にしかわからないパロディーの台詞を叫ぶ主人公・清盛なのです。だとしたら、この大河ドラマが〈夜の世界〉に支持され、一方〈昼の世界〉から黙殺された理由もわからないではありません。そして古いOSそのものである某県知事が「わかりにくかった」と苦言を呈したのも無理からぬことで、彼にこの大河ドラマを理解しろというのは酷にも思えてきます。


 つまり、すでに〈夜の世界〉の住人は若者でなくなっただけではなく、親になり、社会を支える中心世代となり、NHK大河ドラマの制作陣にもなっている。「古いOSはもうだめだ」とみんながうすうす感じはじめている。感じはじめてはいたけれど、その気持ちをうまく表現できずに、ただ気持ち悪いだけでいる。そんな人々の心にこそ、宇野氏の評論は、弾丸のように打ち込まれるのではないでしょうか。今回は比較的真面目に語ってみました。詳しくはこの雑誌を読んでみてください!


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2013年03月21日

『本にだって雄と雌があります』小田雅久仁(新潮社)

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 古い衣装箪笥が入り口のナルニア国、あかがね色の書物の中にあるという果てしない物語、高速道路脇の階段を降りた先に待ち受ける1Q84年…。ファンタジー、それは普段暮らしている世界のすぐそこにありそうでいて、同時に私たちには想像もつかない掟によって稼動している世界です。

 私にとってのファンタジー。それは関西です。忘れもしない、あれは新人会社員だった頃。会社の出張で訪れた大阪はまさに「すぐそこにあって想像もつかない掟によって稼動している」世界でした。

 まず公用語が違います。エスカレーターは左側ではなく右側に乗ります。電車の色がすべて原色に白を混ぜたようなムーミン色です。花屋に売っている花もムーミン色。このあたりから出張先のメーカーがなぜ商品にムーミン色を多用するのかがわかってきました。電車を降りると駅の展示台と思われる高い場所におじさんが座っていました。理由はわかりません。駅の出口には聞いたこともないコンビニチェーン店。道頓堀に出るとパジャマにサンダルの女性が大型街頭テレビを見上げていました。そのそばを警察官たちが見たこともない速度で自転車を漕いでいきます。ここは本当に日本なのだろうか。パラレルワールドにでも来てしまったのではないだろうか…。

 いやいやそんなディープなのは大阪だけだ、と言われるかもしれません。しかし京都や奈良なんかもっとファンタジーです。舞妓さんって本当に存在するのでしょうか。鹿を放し飼いにしようとか誰が考えたのでしょう。滋賀県なんか県のほとんどが湖なのですよ?(注:あくまで私の乱暴なイメージです。実際は県の半分くらいが湖なのですよね)

 こういうことを言うと関西出身の友人から「東京人の偏見だ」と非難を浴びます。先日もついうっかりコテコテ大阪人である紀伊國屋書店の社員さんに「大阪の人って東京に来ても標準語に直らないですよね」と言ってしまい「直すとはなんや。むしろそっちが関西弁に直せいう話や」と河内弁で怒られてしまいました。(注:河内弁がこういうものだったかどうかは定かではありません)私は私で「てやんでい! 標準語は東京弁じゃねえやい! おとといきやがれってんだ!」などと反論したかったのですが、こういう時、標準語しか使えないというのは不便ですね。東京弁(江戸弁)はもはやネイティブではないですし、無理に使おうものなら下町の頑固職人みたいになってしまいますし。

 このように関西の人々がどんなに否定したとしても、私の関西に向けるファンタジック・ドリームは止まらないのでした。「大阪には未だ豊臣秀吉の末裔が生きており大阪国が存在するのである」と言われれば「あり得る話だ」と信じてしまいますし「京都には着流しの大学生や神様や天狗や狸がうろうろしており夜になれば猫ラーメンの屋台がやってくる」と言われれば「やっぱり」と納得してしまうのです。

 そんな私の前で、前出の紀伊国屋書店社員さんが猛烈にお勧めしていたのが第21回日本ファンタジーノベル大賞受賞者、小田雅久仁が著した大傑作『本にだって雄と雌があります』でした。「大阪の旧家で今日も起こる幸せな奇跡」というキャッチフレーズ。「本と本が結婚して、新しい本が生まれる」という奇想天外な、そして本好きの心をこれ以上ないほど揺さぶる着想。

 …つまりあれでしょ。「関西+ファンタジー」に弱い本好きの私を虜にして、関西への憧憬と劣等感と偏見をさらに深めようっていうあの分野でしょ? と数ヶ月抗ってみたのですが、意志が弱い私はすぐに書店に走って買って読んでしまいました。

 息子に血脈の歴史を書き残す主人公が大阪出身の祖父與次郎を回想するところからはじまるこの物語は、昭和初期の東京で繰り広げる文学青年風の青春を近代文学風の文体で語っていきます。そのまま疑古典調の物語が展開されるのかなと思いきや、その文体の奥に密かに流れていた大阪弁独特のリズムが與次郎を通じてもはや隠しようもない力強さで脈打つようになり、読者を「本と本が結婚する」という、壮大なほら話へと引き込んでいきます。関西ファンタジー全開です。さらにそのほら話が與次郎の性格そのままに人を煙に巻く調子で爆走していくのかと思いきや、物語は急展開を迎え、本好きであれば誰もが溜め息をつかざるを得ない、ここで落涙しなければもはや本好きだとは言えないと断言したいラストに向かって怒涛のように流れていくのです。

 読み終わって私は思いました。「本と本が結婚して子供が生まれる…」あるよ。大阪の旧家ならあり得るよ。あり得る! そして、すでにこの本をお読みの方々はお気づきだと思いますが、著者はこの壮大にしてミニマムなファンタジーを関西だけでなく東京にもおすそ分けしてくれています。與次郎の宿敵、釈苦利先生の存在です。釈苦利先生は東京四谷の大邸宅に住み、そして本と本が結婚してできる幻書を収集しているのです。東京にもファンタジーが、もしかしたらあるのかもしれませんね。あるといいなあ。本好きの人は必読の一冊です。


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